※文字化けがひどいので後日差し替えます
一、鹿児島民俗研究会と楢木範行
鹿児島県の民俗研究は、日本民俗学にとって大きな彩評を与え続けてきたが、その研究は鹿児島民俗研究会に始まると言っても過―-―-1ではないであろう。鹿児島民俗研究会は、昭和十一年に野間吉夫・宮武省三らが発足した会である。会誌は『はやと』(後の『はやひと』)であり、昭和十二年四月十五日発行の創刊号には柳田國男が「鹿児島県と民俗研究」という文を掲載している。この会の中心的人物であったのが宮崎県えびの市島内出身の棺木範行であった。『はやと』では、次のように楢木範行のことが紹介されている。
二、楢木範行の生涯
楢木範行の経歴については、詳しい資料が少ない。「日向馬関田の伝承」が所収されている『日本民俗誌大系第二巻 九州』(角川書店、昭和五十年)、及び「椎菓紀行」が所収されている『日本民俗誌大系 第一〇巻 未完資料(一)』(角川書店、昭和五十一年)に「著者略歴」が掲載されている。また『日本民俗学大系9』(平凡社、昭和三十三年)には、「物故者略歴」を最上孝敬が書いている。以上の文献と楢木茂行所蔵書簡類を利用し、範行の長男である茂行氏の話を参考に範行の生涯について記載する。
・明治三十七年五月二十五日
西諸県郡真幸村大字島内に生まれる。男三人の三男で、女六人、計九人兄弟姉妹の大家族で、父茂吉の勉強好きを引き継いだのは範行だけであったという。範行は東京から茂吉に新聞の切り抜きなどを送っており、茂吉が鹿児島に行ったときには図書館に案内していたという。父茂吉の土地の伝承に関する博学が後に範行が民俗学を志す素因となったといえよう。その後、真幸小学校、加治木中学校を卒業。真幸に中学校がなかったので、加治木中学校に通った。
・大正十一年
國學院大學高等師範部に入学する。このときに折口信夫に出会い、民俗学を志すようになったようである。國學院大学の学費には苦労したはずであるという。
・大正十五年
長野県上伊那農学校で二年半教鞭をとる。長野県の伊那地方と言えば柳田國男ゆかりの土地であり、この地への赴任には柳田が何らかの形で関わっていると思われる。
・昭和三年八月
鹿児島県立商船学校の国語科兼公民科教員になる。商船学校という点は、柳田が幼少に目指していた船乗りとの関連、『海上の道』との関連から興味深いものがある。商船学校の教諭として勤務してからは妹たちの学費をまかなったりしていた。ここに在職すること一○年の間、教職のかたわら民俗学の調査研究を続けた。
柳田国男の影響もあり、宮崎県内では東臼杵郡椎葉村を調査し、昭和八年八月一日発行の『旅と伝説』(六ー八)に、「椎葉紀行」として報告している。しかし興味の対象は鹿児島県内にあったようである(後述の文献目録参照)。
・昭和十年七月
柳田国男の還暦記念講演会にはるばる上京参会した。
・昭和十一年一月
飯野村前田二日市(現えびの市)の堀ミチさんと結婚する(以後妻の名の表記が複数出てくるが、ミチが正しい表記である)。
・昭和十一年十月
宮武省三・野間吉夫・永井竜一などと鹿児島民俗研究会をつくった。
機関誌『はやと』(後に『はやひと』)を発行する。
・昭和十一年十月二十三日
民具展覧会座談会が山形屋社交室において催された。
・昭和十一年五月・十一月
柳田國男の九州歴訪を迎えた。
・昭和十一年頃
最上孝敬・大間知篤三が、鹿児島県を訪れ、一夜を語り明かした。
・昭和十二年二月
鹿児島県立商船高校から『郷土における交易の研究』を刊行。
・昭和十二年四月十五日
鹿児島民俗研究会の会誌『はやと』(後に『はやひと』)の創刊号が刊行される。柳田國男が「鹿児島県と民俗研究」という文を掲載している。
・昭和十二年八月八日
鹿児島放送局より「低湘の密貿易と売船」を放送した。
・昭和十二年九月十四日
父楢木茂吉が心臓麻痺にて逝去。鹿児島民俗研究には縁が深く、会誌に茂吉氏の訃報が寄せられている。
また、『日向馬関田の伝承』における父戊吉の重要性については柳田國男がその「序文」で指摘している。
としている。
・昭和十二年十二月
鹿児島民俗研究会から『日向馬関田の伝承』を刊行する。『日向馬関田の伝承』の内容は次の通りである。
本著書は全国でも早い時期に試みられた民俗誌といえる。しかもその郷土に根差した研究者によるもので、全体が深い関連で結びついている。本著書の重要性については別稿にまとめる予定である。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1222697
以下、「あとがき」を引用する。
・昭和十三年二月十九日
長男茂行誕生。出産に際して、妻ミチは実家に帰省しており、この間、範行は鹿児島で一人の生活をしていた。調査地からは妻の実家へ頻繁に頻繁に手紙を書いており、二月二十八日、三月一日、三月十五日、三月二十六日の書簡が残されている。三月二十六日の書簡は、範行最後の書簡である。
・昭和十三年四月一日
真幸村島内に帰省中、妻ミチの飯野の実家で、脳溢血にて満三三歳十か月の若さで亡くなった。
・昭和十三年四月二日午後
郷里真幸村島内において葬儀が催された。鹿児島民俗研究会からも弔問に訪れ、追悼文が読み上げられた。以下の弔辞は、『はやひと』第二巻第一号(昭和十三年四月二十日発行)に掲載されたものであるが、原文は楢木範行氏宅に保管されている。
三、柳田國男と地方研究者の関係
昭和十三年四月一日に楢木範行は急逝してしまう。亡くなる以前の生活ぶりは、仕事と調査研究に忙しくなりはじめ、柳田國男が楢木の多忙ぶりについて気を回していたことは残された書簡からもよく分かる。楢木の急逝の一報を受けた柳田は妻ミチヘ手紙を宛てているが、その手紙からはその狼狽ぶりがうかかえる。
葬儀も終了し落ち着いてから、柳田は再び妻ミチへ手紙を寄せている。
このような柳田と一地方研究者の関係が標準的なつきあいであったかは分からないが、楢木と柳田の交流は研究者同士のつきあいを超えているかに思える。この関係は楢木範行の死後も続けられる。
楢木の死から一八年後、範行の長男茂行の大学進学について、妻ミチが悩んだときに頼れるのが柳田だけであったのか、ミチは息子の進学について柳田に相談している。
息子茂行からの手紙を受け、柳田は直接茂行に手紙を書いている。この書簡には当時の東京における大学生の状況が記されている。
この後、同年八月一五日、八月二十日、昭和三十二年一月二日に柳田國男から茂行氏に宛てた書簡が残されており、その後も進路相談にのっていたことが分かる。
全国に存在する多くの地方研究者と親睦を深めた柳田であったと思うが、遺族にここまで面倒を見ていたことが筆者にとって意外な事実であった。柳田と地方の研究者との関係を知る上で貴重な資料といえよう。
四、書簡集
楢木範行の長男茂行氏所蔵の書簡(楢木範行・柳田國男・大間知篤三、最上孝敬)を整理したところ、柳田國男から二四通、大間知篤三から八通、最上孝敬から四通の書簡が残されていることが分かった。この他、各地の研究者からの書簡も残されている。表に一覧を提示しておいた。
五、文献目録
楢木範行関連の文献目録を作成した。茂行氏所蔵の切り抜きに範行氏が寄稿したと思われる新聞記事があったが、掲載新聞名や年月日が不明であるため今後の調査が必要である。
後日掲載予定
六、最後に
これまで宮崎県出身にもかかわらず、取り上げられることの少なかった楢木範行であるが、鹿児島県と宮崎県、南九州の民俗研究の開拓者であることは、『日向馬関田の伝承』に寄せた柳田國男の「序文」で分かるであろう。こころざし半ばに、急逝した民俗研究者は多いが、そうした遺志を引き継ぐことが重要である。
今年は、柳田國男の『後狩詞記』出版九十周年にあたり、柳田と宮崎の関わりが振り返られる機会が多い年となっているが、楢木範行に関しても『日向馬関田の伝承』出版、及び没後六十周年が経っている。ここに示した資料は、あくまでも栃木範行研究の始まりである。今後、全国的な郷土研究の中に、楢木の業績を位置づける作業が行われる必要があろう。
付記
この内容は、平成十一年二月六日に行われた宮崎県民俗学会の研究発表内容を元にまとめたものである。資料を提供いただいた楢木茂行氏には大変お世話になり、資料公開にも賛同していただいた。この場を借りて深謝致します。
『みやざき民俗』五三号(平成11年11月、宮崎県民俗学会)原稿