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日の丸寄せ書き考

昭和12年に、日中戦争開戦とともに、いっせいに全国各地で出征風景が広がっていった。街頭では千人針を乞う女性たちの姿、各神社なのでは武運長久祈願の姿が見られた。出征兵士に贈られるものとして、世界的にも特徴的な日の丸の寄せ書きがあった。その始まりについて詳しく論じた研究は少ないが、管見のところ、下記の論考が最も詳しいが、主に昭和12年の日中戦争以降について論じられている。

『福沢研究センター通信 第26号』2017.04
都倉武之「寄書日の丸考(2)」『福沢研究センター通信 第27号』2017.10

日の丸の寄せ書きがいつから始まったのかを探るには、国旗の普及と関係がある。国旗の歴史については多くの研究書がある。

そうしたなか、どのように日の丸が日本国中に普及していく過程については、高潤香「東戦争における日の丸と新聞報道―1937年から1945年を中心に―」『アジア研究 第58号』(大阪経済法科大学アジア研究所、2013年)に詳しい。これによると、明治3年(1870)1月27日、太政官布告第57号によって、日の丸が「御国旗」として制定されたのが始まりであるが、これは海上に限定されたものであった。日露戦争の頃からは国旗が店頭で販売されることが一般的になった。満州事変には、実際は当時の戦地に日の丸は持ち込まれていたが、新聞紙上ではまだ日の丸掲揚を占領完遂の象徴として描く傾向はなかった。この後、一気に日中戦争の言及になる。

ところが、1937(昭和12)年に入り日中戦争へと向かっていく過程において、新聞における戦争報道は色合いを変えていき、戦況記事の中に「日章旗」「日の丸」の言葉が頻繁に登場し始める。

「東戦争における日の丸と新聞報道」で触れられていない記事を以下に紹介する。
 大正5年10月4日付『宮崎新聞』には国旗について説明されている。

祝祭日に形容せざるものがある 掲揚してもその旗が規定と違つた格好の可笑しいものが多い(中略)新しく製(こさ)へる人はどうしても制定通りすべきであるが第一は旗屋で注意して制定通りのものを売るべきであらう

どうも国旗というものを日本人は理解しておらず、白地に赤い丸さへあれば日の丸であると理解し、それが国旗、日章旗であるという認識がなかなか広まらなかった。

昭和3年10月12日付『東京朝日新聞』には「細民に国旗」と題して、各家庭にまだ国旗が普及していないことが記されている。

国旗を持つて居ない家はまだ沢山ある。買ひたいと思つても、買へない人もある。御大礼までには残らず普及させたいものだ。(中略)旗をだしていない家の数を調べて勤務し、一手にまとめて製造元から割安に買ひいれ、配布することにしたらどうであらう。

国旗の普及は、出征兵士へ贈られる国旗の前に、掲揚する国旗の普及が必要であった。

 昭和3年10月17日付『東京朝日新聞』には、「市設市場で国旗売出し」 として、販売側にも国旗に対しての規格の認識不足が記されている。

日本では国旗の製造人がいづれも勝手に製造販売するので、一般の人達も国旗に対する正しい観念が欠如してゐる傾きがある(中略)売だされた国旗は本モスリン横三尺七寸五分縦二尺五寸で一枚九十五銭のものである

日の丸に文字を書くことが紹介されている新聞記事は管見の限り以下が最も古い。昭和11年05月09日付『東京朝日新聞』には「日の丸に“忠”の御筆 輸送指揮官の感涙」と題して、東久邇宮殿下が日の丸に「忠」という文字を揮毫されたことが佳話として紹介されている。

昭和11年05月09日付『東京朝日新聞』「日の丸に“忠”の御筆 輸送指揮官の感涙」

国旗に文字を書くことを宮家のものであれば許されてしまった。この記事は全国的にかなり重要な記事ではないであろうか。これに続くように軍人や首長、学長などの上席が揮毫するということが行われ、さらに一般人も揮毫するようになったという推論を現在のところ提示しておきたい。

昭和12年8月20日付『大阪朝日新聞(南鮮版)』には南朝鮮での「日の丸」が受け入れられている様子が記されている。 
昭和12年9月4日付『東京朝日新聞』には「非常時女性の心意気 日の丸ハンカチ」 とし、日の丸デザインのハンカチが紹介されている。
昭和12年09月15日『東京朝日新聞』「市民の栓 日の丸の小旗」

都倉武之「寄書日の丸考(1)」でも紹介されている日の丸の寄せ書き論争に関する朝日新聞の記事を紹介する。

1937年9月23日『東京朝日新聞』 朝刊 3面
鉄箒 日の丸の旗

 支那事変以来、ビルの塔上に、工場の窓に、住宅の門に、また商家の軒に、輝かしい日章旗があざやかに翻っている。応召兵士の出発、出征軍人の通過の時などは、日の丸の小旗の波が■く。時事写真やニュース■■を見ると連戦連勝の皇軍の将兵は日の丸の旗をかざして進撃を続けている。
 ところが近来、出征軍人に送る日章旗や歓送用の日の丸の旗に「武運長久」「皇軍万歳」等の文字をはじめ、神社仏閣の印章や寄せ書き式の署名をしたものなどを見かけるようになったが、これは慎重に考慮すべきことだと思う。
 日章旗に文字を書き、印章を押す人々の気持ちは、勿論■誠から出たものであるに相違ない。しかしそれは遺憾ながら思慮の足らぬ行為である。
 日本国民として、この尊い日の丸の国旗を墨汁や朱肉で汚すなどは、以ての外である。支那におけるわが国旗侮辱事件に憤激した国民が、支那■■の軍を起しつつ自らの手で日章旗を汚すような矛盾があっていいだろうか? 
 重大な秋である。国民一致協力して、国旗の尊厳を固く守り心得違いのないようにしたいものである。  (大村弘毅 寄)

1937年9月25日『東京朝日新聞』 朝刊3面
鉄箒 国旗署名の弁

日の丸の旗と題する一文に異議あり。大村氏の考えは、日章旗は文字を書くものではないという見地からであるらしい。然し、そこに書く文字が、赤誠を以てした「武運長久」や「皇軍万歳」等々のものであったら、たとえ墨汁や朱肉でも、絶対に「日章旗を汚した行為」にはならぬ。要するに書く人の精神の問題である。
 支那の国旗侮辱事件は、もとより支那人が侮辱の意を以てした行為であり、それとこれとは精神の根本から問題が異なる。
 皇軍の武運長久、万々歳を祈ってやまない我等銃後の「赤誠」から発した行為が、国旗侮辱の行為と混同視されてたまるものか。(平塚白銀 寄)
 忠勇な将士の出征を送るのには、実に出来るだけの事をしたい、国旗を神前に供え祈願をこめた水を硯にたらし、■■■を執って、祈願の文字も書いた、署名もした、言い換えれば送る者の命の現れである。
 然るにこれを支那人が日本国旗をけがしたのなどと同一に考えられるに至っては、何という情ないことでしょう。 (ハンドレット 寄)

1937年9月27日『東京朝日新聞』 朝刊3面
鉄箒 国旗の問題

 日の丸の旗に赤誠をこめた文字を書くことは決して国旗の侮辱でないという平塚氏の説は正しい。然し、国旗はそれがハンケチ程のものであろうとも、国家を代表するものである以上、絶対に神聖犯すべからざるものである。
 皇軍の征途を送る旗は日の丸の旗だけでよいと思う。どうしても文字が書きたいなら、長旗にして、日の丸の旗印の下に「武運長久」なり「皇軍万歳」と記すべきである。
 出征兵士への激励のはなむけとするのならば、真中に日の丸を染めた手拭がよい。両側の余白に祈願の文字や署名を書き込めば、これを頭に巻いて進撃する皇軍将兵の士気はいかばかりか鼓舞されることであろう。 (本郷、昂 寄)
 大村氏に同感である。幼稚園児の歌う「白地に赤く、日の丸染めて」の一節、これですべて解決すると思う。今回の事変までいまだ曾て国旗に文字の書入れや神社の印章等を見たことが無い。
 国旗への文字書込みの風習がこのままに推移せんか、恰も登山行者の白衣のようになりはしないか。そして白地に赤の日の丸でなく、飛白に赤の日の丸という結果になりはしないか。
 屡々聞くことであるが、戦地又は異境にある日本人が国旗必要の場合、どうしても国旗の無い時は、自分の鮮血を以て白地の物に日の丸を彩り、国旗を急造すると聞く。火急混乱の際でも決して飛白又は他の色物を間に合せに代用せしを聞かない。重ねて云う、日本の国旗は白地に赤の日の丸である。 (青島生 寄)

昭和12年10月12日『東京朝日新聞』朝刊
日本の国旗(3)

ポスターやビラに描く時の注意 文字の記入は是か非か 単に図案としての日の丸、画に描いた日章旗に就いて見ますと、古くから使はれてゐる、日の丸旗とか日の丸提灯、日の丸扇は無論よいとして、全体がそのまゝ国旗と見られ易い装飾、持物、ポスター、ビラ等は作らないやうに気を附けたいものです。国旗と同様な図案なら、国旗冒涜となるやうな行為がこれに加へられ易いからです。その上ポスター等ですと必ずその上へ文字が記入されるでせうし、ビラやマッチだと土足で踏み殴られまいものでもないからです。
 健康週間のポスターや市電の出征祝のポスター等は少し平凡でも日章旗を交叉させてその上で文字を記入した方が妥当ではないでせうか。
 国旗を絵として紙面へ点綴するのは勿論差支へないが、この場合でも亦国旗に加へてはならない冒涜は加ふべきではない事申すまでもありません。
たゞ紛らはしいのは写真のような場合でせう。上例では感じが右書きですから我国旗も右に描いてあるのでせうが、ローマ字も外国旗も共に左が頭ですから、先方の人から見れば日本国旗が自国旗の下位に置かれてゐると解釈するでせう。
 かう云ふ難しい場合は一層の事我国の国旗を描くのは遠慮した方が無難です。
 最後に国旗に墨書きの可否が大分喧しいやうですが、武運長久を祈る赤誠こめた書名は決して国旗への侮辱ではない事は誰しも認めませうが、国旗を国旗として使用する場合は文字の記入は当を得ません。先頃の通州■■記念の血染めの日章旗等―之を見る日本人は何人と雖も痛憤の情を禁じ得ませんが―は国旗としてよりは寧ろ尊い記念品として大切に保管して置き度いものです。
 その場合でも貴重な記念品に墨書きする事は避けて箱書にでもする方が妥当でせう。
もうこれ以上くだくだ説明を加へる必要もありますまいが机掛けや装飾品に国旗をその儘流用する事は遠慮すべきでせう。
要するに我等の愛する祖国日本の表徴たる国旗は何物にもまして尊貴なものとして常に清浄に、正しく、丁寧にこれを取り扱ふべきであらうと思はれます。(終)【東京帝大Y博士談】

昭和12年10月27日『東京朝日新聞』
日の丸に“必勝”出征宛らの勢揃ひ

「去る十七日大泊を出帆するときは降雪二寸もあり雪の中でこの日章旗を贈られたのです」と上石君が語る、床の間を見れば出征兵士そのまゝ“必勝”“頑張れ”と墨痕鮮やかに書き込まれた日の丸、中に真面目そうな楷書で「村社は夜出ないぞ」と書かれてあった。

昭和12年10月27日『東京朝日新聞』「女性の声 日の丸の小旗」 

昭和13年01月19日『東京朝日新聞』(夕刊)
“片手で寄せ書”白衣勇士『勝て双葉』

双葉山の必勝を祈り、白衣勇士が寄せ書(写真あり。赤い部分にも書かれている)

昭和13年01月30日『東京朝日新聞』(夕刊)「『日の丸』を濫用するな」 

昭和13年12月4日『東京朝日新聞』朝刊
銃後に咲いた三つの佳話

純情の“日の丸”四少女の美しい心に打たれて 松井大将も感激の一筆
日の丸と将軍と四少女……又一つ美しい銃後佳話…!
三日夕刻、お白粉気を抜いた、さっぱりした四人の少女が日の丸の旗十本を携へて本社を訪れ
 どうか、前線の兵隊さんに差し上げて下さい
といって来た。(中略)去る二十四日付本紙夕刊に「前線では日の丸が欠乏してゐる、新聞紙に血で日の丸」という新聞記事を読み、とても心を打たれ、お小遣ひから日の丸の旗十本を購製、陸軍病院の勇士達を訪れては武運長久をいのる署名を貰ひ、更に三十日朝上海方面最高指揮官松井石根大将に署名をお願ひした所四少女の純情に心うたれた大将は快く署名をひきうけ、更に
 一日も早く前線へとゞけたいものだネ
と云はれた。

日章旗に関する刊行物を紹介しておく。
○垣田純郎編『青年叢書 第三巻 市民』東京民友社、明治28年
○橘亭主人『兵営大気焔』文陽堂書店、明治36年
 「日の丸旗」
○石井研堂『明治事物起原』橘南堂、明治41年
 「日の丸国旗の始」
○真田鶴松『日章旗考』帝国教育会、明治44年

○遠藤巌『国旗の光』田中書店、大正元年

○甫守謹吾『図説女子作法要義』金港堂書籍、大正6年
「第九章 日章旗に関する心得」

○小野賢一郎『日の丸由来記』東京日日巡回病院、昭和3年

○東京日日新聞社編『日の丸と君が代 その由来と意義』大阪毎日新聞社、昭和9年

この日天気晴朗、気温は零下十度、部隊は同士討ちを避けるため各部隊毎に一本づゝ総計六十本の国旗を携へてゐたので部下の各隊が敵の一角また一角を抜くたび毎に、いたる処の山上高く勝利を誇る日章旗が林立したのである。そしてこれ等の日章旗は殆ど銃後の若き国民から寄贈されたものであつて、そのうち六本は女工さん達が鮮血で描いた血の国旗であつたのだ。

満州事変には、出征兵士に日章旗を贈ることが行われていたことがわかる。

○松波仁一朗『日本文化 日章旗』 日本文化協会、昭和13年

 同時に又日章旗の日の丸に絵画や文字を描くことを慎みたい。日章旗の日の丸は神祖天照大神を表徴し奉るものであるから、之を汚すは畏れ多い極みであって、此の観察点からして日の丸には絶対に字や画を描いてはならぬ。又単なる形式の点から云うも、日章旗に字や画を描くは宜しくない。我が日章旗の大観は清浄純潔の白地に一点曇りなき赤誠日の丸の存在する事にあるのだから、之を冒すことは良くない。少しでも冒すに於ては、其の之を冒す丈けそれ丈、日章旗の特色を滅殺する結果になる。我等は曇りなき太陽を仰ぎたい。汚されざる国旗を捧持したい。燐として輝く一点の曇りなき日章を仰視するに於て冥々の中に日本的精神が自然と湧き出るのであるから、希くは汚さない様にしたい。筆者は夙に此の考えを持って居り、昭和十二年九月二十一日此の事に関して内務大臣に建議し、内務省では全国に対しそれぞれ適当の処置を執って呉れて、一応建議の目的を達した様であったが、僅々二ヶ年の間に又々大分弛緩して日の丸に字や画を描くものを生じたから、今又更に云うのである。畢竟する所国民未だ国旗の観念に乏しく、殊に日章旗の意義由来を十分に知って居ない罪とも考える。


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