見出し画像

楢木範行年譜9 柳田国男の鹿児島再訪 昭和11年4~5月

今回、昭和11年5月の新聞記事を入手したので、この時期の柳田国男の来訪について、年譜を補足する形で、当時の行程や発言を整理する。
・柳田国男『柳田國男全集 別巻1 年譜』筑摩書房、2019年
・昭和11年5月1日付『鹿児島朝日新聞』朝刊7面「民俗学の権威 柳田国男氏講演会 県が主催し一日図書館で 引続き座談会開催」
・昭和11年5月2日付『鹿児島朝日新聞』朝刊2面「実生活に役立たせる 郷土研究の真意義 民俗学の権威柳田国男氏 学術講演の要旨」
・昭和11年5月2日付『鹿児島新聞』朝刊5面「過去の歴史を振り返つて見よ 我が民族学の権威者柳田国男氏 図書館にて講演」

<4月27日>
高瀬から記者で鹿児島に入る。楢木範行らの出迎えを受け、雨の中、城山に登る。岩崎谷荘に泊まる。ひっきりなしに訪ねてくる来客対応をしながら、巣づくりをして盛んに啼いているイソヒヨドリの鳴き声を聞く。

<4月28日>
鹿児島図書館で、郷土資料を見た後、尚古集成館や島津別邸などを見学する。十島丸で薩南の島々を回る予定であったが、荒天のため船が来ないので、指宿の海翠園に泊まる。

鹿児島は土俗的に興味深い研究材料が多いがこれまで四回の訪問の度毎に新しい文化が浸潤して大分変つて来てゐる、女が物を運ぶ時頭に載せる風習は奥に面白い研究材料だつたがこれなども少なくなつた

昭和11年5月2日付『鹿児島新聞』


<4月29日>
山川港の見学と薩摩半島南端の蘇鉄の林に入り、枚聞神社、池田湖を回る。長崎鼻で写真を撮る。

<4月30日>
十島丸での島巡りを断念して、枕崎に出て、坊津から港を眺める。久志、伊集院を通り、鹿児島に戻り、岩崎谷荘に泊まる。

<5月1日>
為正、平山、大間知らを桜島見学に向かわせ、宿に残って講演の準備をする。四時から図書館ホールで、「世相を対象とする学」を講演する。楢木茂吉、範行親子も聞きにくる。夜、山形屋百貨店で座談会をするが、茂吉とは会えずに終わる。

講演タイトル:世相を対象とする学
時間:午後4時~
会場:鹿児島県立図書館ホール(三階講堂)
主催:鹿児島県
受講者:教育関係者、二高女専攻科生
開会挨拶:鷲野学務部長
講演内容:

「此二十数年来郷土研究といふ言葉が叫ばれてゐるが私の提唱するのは、各地に現在行はれてゐるものと大分違つてをり、先づ第一に郷土を単なる目的として研究するのではなく、各郷土で自ら研究したものを比較し全部を綜合したるもの、第二に過去の生活を単に調べるだけでなく歴史の知識によつて現在の世相を説明しようとするもの第三に大事件のみを対象とせず平凡人の身辺からでも新しい知囊を得ようとするものであるまづ今度九州路の汽車の窓から得た知識からはじめようこの車中で、一番強く目に映じたのは沿線の広告で、中でも綿の広告が多い、これは前回の訪問の時にはなかつた新現象であるが、これが何を意味するか考へてみると、木綿が普及し出した歴史は非常に最近の事実であるが、九州の一般大衆は今将に綿の消費時期には入つたのではないかと思はれることだ綿を着物か蒲団に入れ初めたのは日本の歴史では極く最近で新しい文化に地方人の安慰を■んでゆく気持も窺はれるのだ、これと同じく下駄、足袋装飾の流行も新しいことで殊に足袋は日本古来の征服ではなく江戸時代の旗本は足冷のためと特に足袋着用の許可を要したものであつた百五十年位前から綿栽培が盛んになつたたゞ木綿物の着物が流行し出し古来変らぬ日本の気候に関らず人間の装身具だけは大変化したのである、人間の生活や文化は皆簡単な方法で変遷して来てゐるが新文化は旧文化に勝るものと思つてはならない常に批判検討している文化のみを育て上げるべきものである我が国現在の教育状況は旧時代の老人と新知能の人たちの接触がなく、文字を知らない人を貶す癖があるが新しい教育を受けたものこそ過去の歴史を振返つて見る必要があり、そのためには今の中に古い人から学ぶべきものを■探らねばならぬ」

(昭和11年5月2日付『鹿児島新聞』)

「博学多彩なる氏の講述は必ずや徴収の歓迎を博すべく多数の来聴をきぼうすることである、尚引続き午後六時からは山形屋社交室に於て柳田氏の歓迎座談会を開催のことに決定したが会費は一円五十銭とし出席希望の向は予県立図書館内奥田啓市氏まで通知ありたしと」

(昭和11年5月1日付『鹿児島朝日新聞』)

「私達は二十数年来郷土研究と云ふ言葉を使つて居るが、しかし其れは此の頃一般に使はれてゐる郷土研究と言葉とは若干の距離がある、今之れが大きな相違を挙ぐれ、第一に一般の郷土研究が単に其の郷土の研究を目的として居るのに対し私達は各郷土の研究をそれぞれ比較綜合して之を日本人の生活の一部に反映せしめんとするものである、第二には前者が人間の過去生活の研究であるのに対し私達の目的は過去に於ける歴史を研究し之が現在に如何に影響し、更に現代の人々は如何に之を役立たすべきかを知らんとするものであるから言はゞ世相を対象とする学問と名付けることが出来やう、更に第二の相違は日常生活に迷つたり、又は間歇付かないやうにするのが学問の目的であるから別に学問的の六つかしい問題ばかりを取扱ふのでなく、平凡なる一般人の身辺に常に繰り返されて居る小さな事件をも題字に取扱ふのである、従つて私の茲に語る話は初めは至つて平凡なことゝ考へられるだらうが、若しも最後でいくらか役に立つと思はれるやうな点が■つたら幸である」「九州には之れで七回目の旅行であるが車窓の瞥見によれば前回に比し沿線に於ける広告の著しく増加したことが目を惹く、而して其の内でも綿の広告が特に多いのであるが、此の新現象たるや果して何を意味するのもであるかを述べて見たい、歴史によると九州は古来綿の産地で昔は筑紫綿と称し之を都に送つたものであるが、しかし多くの広告に表はれた綿は決して筑紫綿と関連を持つものでない、而して私は之を以て九州の一般人が此の頃漸く■遍的に綿を消費する時代に入つたことを物語るものと考へる、綿の歴史に就て考へるに綿を着物や蒲団の中に入れるやうになつたのは至つて新しいことである、寒い地方では綿が栽培されないので東北地方などで以前には『夜ぶすま』と云ふ防寒具を持つた一少部分の人を省き他は皆囲炉裏を囲み筵や藁を破つて寝たものである」「木綿は麻に比べ染色の関係が自由であり、更に■人は之を着て軟かな感じが出るので之を愛用されて行くのである、しかし新しい文化が良いといふ概念は慎重に批判せねばならないのである吾等が過去を顧みる時其れは必ずしも良い事ばかりではない、而して之に■■のことを教へるものは歴史であるが、しかし其れも局部的の研究だけでは駄目であるところから吾々が茲に全国的に各郷土の研究を綜合し以て全国民の幸福を期せんとするに至つた所以である、依つて此の見地から云へば現在に於ける一般的の地方研究は私の尺度を」※「約二時間に亘り幾多の例話を以て最も面白く説き去り説き来り満堂の聴衆に絶大の感激を与へた」と野間吉夫によると思われる記事にあった。

(昭和11年5月2日付『鹿児島朝日新聞』)

歓迎座談会
時間:午後6時30分~
会場:山形屋社交室
出席者:鷲野学務部長、阿部(あんべ)経済学部長、平塚社会課長
、金山学務課長、谷口高農教授、池端会議所副会頭、奥田図書館長

<5月2日>
国分の日当山、清水村の旧士族の家を訪ねたあと、村役場で懇談をする。神を拝むときに何と唱えるか質問し、「オオトトウ」と答えた老人がいて、この村にもその言葉があったかと驚く。高山家の酒宴の席に招かれたあと、霧島から林田温泉に向かう。

尚柳田氏は二日当地出発、姶良郡の土俗視察の上霧島に赴き同地に一泊して宮崎県へ向ふ筈であると

(昭和11年5月2日付『鹿児島朝日新聞』)

<5月3日>
霧島から宮崎に回り、青島に泊まる。

<5月4日>
宮崎から汽車で大分に向かい、大分から蕾丸に乗船する。

※宮崎に移動後は、宮崎県の新聞を当たる予定。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?