猟場が生み出す道具 -鴨の投げ網猟と「越」の記述をめぐって-
渡辺一弘
#鴨、#越え、#投げ網、#突き網、#鷹狩り
※日本民具学会『民具研究』120号(1999年10月、p49-61)草稿、引用の際は原本をご確認下さい。
1、はじめに
秋になり北から渡ってくる鴨の姿は日本人になじみ深く、朝と夕に群をなして、水辺と餌場を行き来する様は、「峰越の鴨」や「坂鳥」として秋の季語にもなっている。猟師は、鴨の生態を利用して、水辺と餌場の間の峰を越える決まった場所に猟場を設え、2メートル以上の大きなY字型の投げ網を隠れ持ち、闇夜の中から羽音を立てて近づいてくる鴨を瞬時に察知して網を投げ上げるのである。このY字型の投げ網を使った鴨猟は、全国に分布し、現在でもいくつかの池で伝承され、その道具の独特の形状と武士の鍛錬のための猟であったとする伝承などから宮崎県や石川県では文化財として指定されている。各地域で調査研究はすすむものの、その発生や伝播については伝承の紹介のみに終わり、不明な点が多かった。しかし、近年、全国的な比較研究がなされ、次第に投げ網猟の系譜が明らかになりつつある。
藤井裕之は、その特異な鴨の投げ網猟の成立と系譜について、鷹狩りとの関連から本誌112号で論じている(藤井、1996)。藤井は、鷹狩りを描いた絵画資料に散見される叉手網・突き網という道具に注目し、同型の投げ網が鷹狩りの系譜上に位置づけられるとした。鷹狩りは、古代には天皇・貴族、中世には武家・貴族に愛好された猟であり、その鷹狩りの絵図に描かれた叉手網・突き網について、「中世末から近世初期にかけての作品にのみ、この網は描かれ、それ以降の作品には見出せないのが特徴」とし、「叉手網と突き網は、形状に若干の相違はあるものの似かより、双方とも鷹狩りと深い関わりを持つ」という。また、突き網は「中世末にはすでに鷹狩り猟において用いられていたと考えられる」ことから、「おそらく投げ網と突き網は、鷹狩りという同じ系譜上の猟具であり、投げ網は中世末から近世前期に、鷹狩りの一つの猟具である突き網が網を投げ上げて捕獲しやすいように、構造が種々改良されて、分化したものであろう。」と、投げ網が突き網から改良され生み出されたと考えた(藤井、1996、p86~87)。
叉手網・突き網から投げ網への系譜という視点は、その道具の形状の共通性から導き出されたものであるが、叉手網と突き網が鷹狩りにおいてどのような使われ方をしていたのか絵画資料からは読み取れない。また、叉手網・突き網が鷹狩りでのみ使用されていたのかは不明である。そのため鷹狩りとの関連のある突き網から投げ網が分化したという系譜の説明も不十分である。このことは民具の歴史を歴史史料から辿ることの困難さを示している(1)。民具の全国的な比較研究をもう一度、地域にフィードバックさせて、地域における変遷あるいは意味を問い直す必要があろう。
鴨の投げ網猟の特質は「道具」の他に「猟場」にある。鴨が朝夕に飛ぶ決まったコースに猟場を設え、鴨が群をなして移動するのをただひたすら待つ。北陸地方ではこの猟場のことを「坂」、南九州では「越」と称する(写真①)。道具や猟法についての歴史史料は少ないが、今回、この「越」に関する史料を南九州においていくつか見いだすことができた。本稿では、全国的な鴨の投げ網猟の系譜研究をふまえ、この「越」に焦点を当て、南九州における鴨猟に関する資史料を再検討し、南九州における投げ網猟、及びその猟場の変遷を検討する。
2、宮崎平野における「越」の歴史
宮崎県内では、宮崎郡佐土原町大字下田島の巨田池において現在でも鴨の投げ網猟が行われ、「越網」と呼ばれている。しかし、その歴史については伝承の域を出なかった。近世以前には、巨田池のみならず、いくつかの場所で越網が行われていたようで、ここでは史料に散見される「越」に関する記述を時代毎に整理し、宮崎平野部における「越」の実態を再考する。
(1)中世史料に見る「越」の存在
中世の宮崎城主であった上井覚兼が記した「上井覚兼日記」(以下、「覚兼日記」と略す)が、今のところ「越」に関する初見であろう。「覚兼日記」には、天正2年(1574)から同14年(1586)にかけての戦国の世の実相と武人の生活が描かれている。上井覚兼(1545~1589)は、戦国時代の武将で、同8年以後は日向国宮崎の城主となり、同国佐土原の領主家久(義久の弟)を助けた。(斎木一馬、1980、p192)
この「覚兼日記」には、「狩」に関する項目として、朝狩・犬山・犬山狩・犬付ノ狩・鶉狩・落し・雁猟・鹿蔵狩・鷹狩・身忍・はまり・呼・待などの記載があり、その中に「越」も取り上げられている。以下、「越」の項目を抜粋し、天正年間にはすでに行われていたであろう「越」での鴨猟の実態を整理する(2)。
以上の史料から分かることをまとめる。朝越と夕越があり、一日に両方を行うこともあった。穂村(現宮崎市塩路)での越猟が多い(3)。穂村では「小鷹狩り」も行われていたが対象鳥が異なり、越えとは猟場が違っていたと考えられる。主に従夫が越に立ったが、城主階級の者が立つこともあった。一回の猟で、少ないときでも7、8羽捕れていたということは普段かなりの数の鴨が捕れていたことが分かる。捕れた鴨は、すぐに刺身などで振る舞われたり、藩主へ進上された。
上記の日記の他にも越に関する記録がある。伊勢守(上井覚兼)によって書かれた「伊勢守心得書」は、天正九年十月二十九日に筆を起こした随筆で、当代武人として嗜むべき一通りの教養を説いている。そのなかに季節にあった風情として鷹狩り、猪・鹿狩りの様子が記され、「此外、鶉狩地わな高わな越なと云類」(「覚兼日記下」p207)と、猪鹿猟の他に鶉狩・地罠・高罠・越などがあり、季節毎に様々な鳥がやってきて目を楽しませてくれることが記されている。この他、春・夏・秋の風物詩についての記述に続いて、「冬にもなれハ、あちむらの尾上を越る夕暮より、越の坪に毎夜をあかし」(「覚兼日記下」p208)と、冬の風物詩として越での鴨猟があげられている。現在でも佐土原町の巨田の鴨猟では、猟場のことを「越え」、越えの中の人が配置する場所を「坪」と称しており、藩政時代に藩主が訪れて猟をしたとされる坪を「ゴゼンツボ」と称している。
日記には道具についての記述がないために、どのような方法で捕獲していたかは不明であるが、「越に立つ」「越の坪」という表現から、カスミ網などの猟ではなく、現在巨田池で行われているような個人的に行われる投げ網などが利用されたと考えてもよいのではないか。
前述のように鴨の投げ網が鷹狩りの系譜でとらえられるという藤井氏の説を紹介したが、天正年間(1573~1592)には、既に「越」と「鷹狩」は区別されており、猟場も別々に分かれていたことが分かる。また、佐土原の越網については、これまで島津以久からはじめられたという説が支持されてきたが(4)、少なくとも天正年間には、既に武士の狩りの一つとして、親しまれていたことが分かる。
(2)佐土原町巨田池の越網の歴史
巨田池の鴨猟は、昭和53年に「越網とその技法」として町指定文化財となっており、多くの報告書が出ている(5)。この越網は、佐土原藩初代藩主嶋津以久によって始められたと伝えられているが、前述のように「覚兼日記」により中世末には既に行われていた。
「佐土原藩島津家日記」(以下「島津家日記」と記す)は、佐土原藩の藩政記録で、寛文9年(1669)から文久2年(1862)の藩主の動向が記録されたものである(6)。猪狩りをはじめとした狩猟関係の記事が多く見受けられるが、これは「覚兼日記」に通じるもので、同じ島津家の間で、狩りの伝統は中世から近世に引き継がれたといえよう。
「島津家日記」は、「日々記」と「日帳」の2種類が存在し、ほぼ同様の内容が記載されているが、「越」に関する記述は「日帳」にしか見られない。「この日帳は家老座の勤務日誌とも考えられ、これに対して、日々記はより包括的な表日記とすべきではなかろうか」(野口、1975、p3)とあるように、「日々記」が公的な記録であるのに対して、「日帳」が下級武士の動向についても言及されていることから、この記述の違いは「越」を行っていた階級が平常には下級武士に限られていたことを示すと考えられる。
ここでは「島津家日記」の中から「越」に関する記録が記載された「日帳」の鳥猟関係の記事を紹介する。
「日帳」に記された「今晩越之次第」の示す「越」が何処であるのかが示されていないが、時代背景を考慮すると巨田池と考えられる。⑫で「広原越」へ出向いているが、佐土原藩領内にある広原村には「覚兼日記」に出てくる穂村があり、穂村の越も利用されていたのであろう。また、鷹狩りや鉄砲猟が盛んに行われているが、越とは関連づけられないのは「覚兼日記」と同様である。また、「日々記」「日帳」を通してみると、越に参加した者はほとんど鷹狩りを行っていないことから、階級で猟の種類が限定されていたと考えられよう。
「今晩」として夕越しか記述にはないが、伝承では「武士の家にありては、冬季に至れば巨田に鴨網に未明より行き、帰りて庭及び門前を掃除し、髪を正して、五ツ半刻(午前九時)までに登城役所に出勤せざる可からず。」(日高、p263)とあり、朝越が日課になっていたという。
「日帳」に見られる「今晩越之次第」での取れ高をまとめてみると、12月一か月間で、27人が猟に出向き、合計33羽と意外に取れ高が少ないことが分かる。数を取るための猟ではなく、現在伝承されているように武士の鍛錬であったのだろうか。
(3)投げ網が伝承されてきた理由
巨田池において、何故、越網が伝承され続けたのであろうか。いくつかの条件が考えられよう。武士の鍛錬という点では、越網以外にも奨励されていたと『地方風俗習慣調』にある(7)。
このように佐土原藩において、今でいうマラソン・キャッチボールとともに越網が武士の鍛錬として行われていたという。この他にも薩摩藩では烏賊餌木によるミズイカ(アオリイカ)釣りが武士の鍛錬に利用された話は有名である。簡易でないこの猟法が伝承されてきた理由は、旧嶋津領で三か所も伝承されていることからしても、武士道の気質が風土としてあったからではないか。
「覚兼日記」「島津家日記」でもそうであったが、鷹狩りや鉄砲猟などを行うと鴨が定着しないために猟場を分け、越では他の猟を禁じて鴨の繁殖が図られたことも重要である。
前述の『地方風俗習慣調』には、いくつかの「越」に関しての記述がある(7)。
各郷に一定の越えがあり、巨田池のほかにも越えがあったことが分かる。ただし、現在の巨田池周辺の猟師の伝承では、鴫ノ口(現佐土原小学校西側)・十文字(元西佐土原駅付近)・野久尾(現佐土原町役場支所付近)は「裏越え」と呼ばれているものであったともいう(清水、1999、p126)。鴫ノ口・十文字・野久尾は、広原とともに佐土原城境界の要地であった(日高、1960、p12)。こうした場所に藩士を配置させ、朝夕に猟を兼ねた警備を行う意味も後に加味されていったのかもしれない。
昭和2年の調査報告書には、「一昨年東宮殿下宮崎行啓に際し町は巨田の池なる鴨参番網にて狩猟し献上したり」(宮崎県内務部編、1927、p80)とあり、大正期に巨田池の鴨猟が特別な猟法として認識されていたことが分かる。さらに、戦後、米軍駐留兵による銃猟が行われ、伝統の鴨猟が不可能になるのを危惧し、当時の町長と組合代表が米軍民政部長官に嘆願して了承された話は象徴的である(中武喜一、1983、p25~26)。
近代に入って、武士の鍛錬の必要がなくなっても、この非効率な猟が続けられた背景には、巨田池が禁猟であり続けたこと、歴史を守る自負と気質、そして何よりも鴨の飛来を一瞬に察知し、網を投げ上げる猟の醍醐味であったと考えられる。
4、南九州における鴨の投げ網
ここまで見てきた佐土原町の投げ網と同様の猟が、南九州では、現在、鹿児島県熊毛郡南種子町茎永の宝満池、鹿児島県薩摩郡祁答院町の藺牟田池で行われている。何れも旧島津領に属することから、中世から近世にかけて何らかの伝播・技術交流があったと考えられる。現在行われている猟法・道具のみならず、その伝承においても共通するところが多い。しかもこの3か所とも池の周囲に設えた猟場のことを「越」と称しているのである。ここでは、2か所の事例を紹介し、それぞれの鴨猟の歴史について整理する。
(1)南種子町宝満池の投げ網
鹿児島県熊毛郡南種子町の宝満池では、現在でも鴨の投げ網猟が行われ、地元では、投げ網のことを突き網と呼ぶ。突き網の歴史についての詳細は不明であるが、元禄2年(1689)に書かれたとされる「懐中島記」に、
とある(8)。「地人」という記述から、当時、武士の特権的な猟ではなく、一般的に行われていたとも考えられよう。「竿網」は投げ網の形状を表現したものであり、この猟を「越」と呼んでいたことが分かる。この他、伝承として、昔、種子島家の殿様が突き網猟の見物に来た話が伝えられている。村一番の達人が、その技を見せるために現場に案内し、「このような要領で網を投げて鴨を捕獲するのでござりもうす」といって網を投げたところ、偶然にも一羽の鴨が網にかかり、殿様が大変喜んだという(南種子町郷土誌編纂委員会、1987、p1267)。
この池では、近年までカスミ網との関連で、突き網猟が行われてきたが、これがいつの時代からのことであるかは不明である。カスミ網を大網と呼ぶのに対して、投げ網のことは小網と呼ぶ。どちらも猟場のことを「越え」と呼んでいる。大網のための越えは、シンヤサブロ・ホンケロ・クエ・イケノカシタ・サカンウエ・ホンゴエ・シンゴエ・ワロの計8か所であり、これ以外の場所を小網は使用することになる。決まった猟場の松の木の枝を利用して5、6か所に足場を作る。現在、突き網にハマノクチなどの越えを使用している。越えの場所の選定には入札が行われたが、突き網の場合には一定の金額を猟友会と宝満神社に納めればよかった。カスミ網が禁止されてからは、突き網のみが許可され、現在も続いている。カスミ網が共同作業で、かなりの捕獲量があったのに対して、突き網は個人猟で、特別な技術が必要で、ほぼ世襲的に伝えられてきたという。他地域と比べて、武士の特権的猟法という伝承は聞かれないのは、カスミ網が主である多獲時代が長く続いたためではないか。カスミ網が禁猟となった現在、突き網の再評価が起こっているといえよう。
突き網は、クモレ(60cm)と手木(160cm)をT字に組んだものに、カラ竹のアザオ(225cm)をY字に組み上げる(写真②)。網の下部は束ねてチョッピ(ミチシバを25cmに束ねたもの)を付け、アザオの端にかける仕掛けである(写真③)。
(2)祁答院町藺牟田池の投げ網
鹿児島県薩摩郡祁答院町大字藺牟田の藺牟田池における鴨猟の歴史は藩政時代に遡るといわれる。手がかりとしては、藺牟田神舞の神賀(田の神舞)の番付のセリフに、「越え打ち網」と出てくることから、近世にはすでに「越」は行われていたという(牧山望、1973、p120)。延宝8年(1680)の「神舞一庭之事」には次のようにある。(9)
「仁才衆」とは、二才衆で、薩摩藩における青年武士を意味するが、近世初期に二才衆が「越え打ち網」を行っていたことが分かる。
また、押領司家の裏に山王嶽を遙拝する山王権現があり、定期的に殿様が参拝され、その際に鴨網で捕らえた鴨を御馳走していたという。日吉山王大権現と称し、祭神は三輪神(大巳貴命他)、代々、押領司家が社司を務めてきたことから押領司家が持てなしたとのことである。
標高300メートルの藺牟田池は、その周囲に迫田・ムタダが多く、その田を餌場とする鴨が大変に多かった。一猟期で150羽くらいを獲るのは普通の時代があった。この池は保護区であり、鉄砲猟ができず、投げ網だけしか使えないので、より多くの鴨が飛来してきたという。
鴨猟は、朝と夕の2回行われる。いずれも明るさと暗さの間際、鴨が餌場と休息地を移動する際に、「越」と呼ばれる場所に網を構えて待機して、捕獲するのである。昔は朝も夕も絶えず猟に行くものであったが、現在は勤務時間の関係で、朝の猟に行くことが多い。
鴨猟の猟場のことを越といい、「越いたっくっで(越えに行ってくる)」という。藺牟田池の周辺の越には、ユミオキ・ヤクラ・ヘゾウ・ツツノクチ・ビシャモンなどがあり、現在はユミオキとヤクラを主に使っている。それぞれの越には、さらに猟師が配置するための場所が分かれており、それをマブシといった。
猟期は、現在11月15日から2月15日であるが、昔は10月から3月までであった。猟が始まる2、3日前には「越講」を開く。越講には鴨猟をする人は全員参加する。牟田集落の全戸(10戸)と麓集落の数件が参加していた。昼のうちにその年に使う二つの越を選定し、その越のヤボハライ(藪払い)をした。夜になると越講である。クジを引きマブシの順番を決める。この講に参加できないと鴨猟はできなくなる。参加人数によりその年に使用する越のマブシの数が決まる。マブシは毎日順送りで交替する。
鴨網は、88cmと120cmの杉の角材をT字に組んだチェッ(手木)に、5mのニガタケ2本をY字に組んだものである(写真④)。網目は1節が5cmで、網の下部は数本の糸で束ねられ、まだ青いマカヤでチェッに結びつけられる(写真⑤)。鴨がかかるとこのマカヤが切れて鴨を包み込む仕掛けである。
猟には、投げ網は1本しか持っていかない。数本を置く場所がないからだという。鴨がかかる度に何度も組み直さなければならない。壊れた場合にはその日の猟はあきらめる。この網は、越にのみに使用し、他の鳥を捕ることはない。
(3)南九州の投げ網猟の特色
前節において、宮崎平野では、中世末にはすでに「越」が武士のたしなみとして、冬の風物詩に組み込まれていたことを示したが、近世初頭には、巨田池、宝満池、藺牟田池ですでに「越」での投げ網による鴨猟が行われていたことが確認できた。一方、北陸地方に見られる「坂」の由来については、元禄年間(1688~1704)に、加賀藩において、村田源右衛門が片野の浜へ釣りへ行った帰り、夕闇を鴨の群めがけて持っていた漁具のタモ網を投げ上げて捕らえたのが始まりという伝承が伝えられている(小林直樹、1987、p1)。南九州の「越」が北陸地方の「坂」よりも古いことになるが、その真偽は今後の課題であろう。
さらに、「越」と「坂」で使用される道具にも違いが見られる。現在使われている投げ網の仕掛けは、巨田池と宝満池では同様の植物を束ねたもので、藺牟田池でもカヤで結びつけるだけであることから、この3地区の道具に共通性が見て取れる。一方、東日本における仕掛けは、メタ(皮と綿布でできたもの)を竹でできたメタバサミに挟み込むもので、構造的には南九州の仕掛けよりも複雑である(図①)。
全国に行われてきた投げ網猟に見られる多くの共通性は、南九州の「越」が中世末から行われていたことを考え合わせると、それ以前に伝えられたものか、この猟の地形的条件からもたらされたものということになろう。そして、近世以後、各地で独自性を持つに至ったのだろう。
4、道具の改良と選択
(1)突き網と投げ網の関係
ここまで南九州における鴨の投げ網猟の系譜を探る上で、猟場である「越え」に焦点を当ててきたが、投げ網の記述は近世以前の史料に一切出てきてはいない。史料において道具に関する記事は容易には確認できないものであるが、ここでは現在確認できる道具から猟の変遷を探る。
突き網と投げ網は同型の道具であるが、突き網と投げ網の間の大きな違いは、対象となる獲物、及び、それを捕らえる猟場である。
大正期における突き網あるいは投げ網の全国的な分布は、表1の通りである(10)。
突き網と投げ網、及びカモとウズラの錯綜が目立つが、兵庫の突き網は、『猟具解説』(p39)の本文から兵庫県久美谷村と考えられ、南九州を除く西日本、及び関東以北の東日本では投げ網のみの伝承が目立つ。投げ網の別称である坂網の分布が北陸地方域に集中していることは歴史的な背景が考えられよう。宮崎・鹿児島で突き網と投げ網の両方が見られることは注目に値するが、この点は後述する。
『猟具解説』には、突網について、「主として鴫を捕ふる網」で「冬季水田の稲の株間又は畦側に佇める鴫を認め、この突網を斜めに構へ、二三丁も隔りたる所より、鴫を中心として円形に渦を巻きつつ進行して、徐々に鴫に接近し、今一二間といふ所で急に網を突出して蹲踞れる鴫を覆被せて捕ふる」道具で、「鴫のみならず、鶉雀鴨等をも捕獲す」ると説明されている(p38)。
宮崎県の佐土原町では、同型の網を「ウズラ猟」に使用した(中武喜一、p27~29)。飛び立つと2メートル足らずの高さを一直線に飛ぶウズラの習性を利用した猟である。仲間7~10人ほどで組をつくり、各々ウズラ網を持って、一枚の畑、野原を取り囲み、各人の間を5、6メートルおきに構える。そこへ猟犬を入れると、ウズラが飛び立ち、誰かの方向へと飛ぶので、網で引っかけて生け捕りにする。『猟具解説』の突き網と同様の使用方法であるが、このウズラ網は、図2のように、投げ網に酷似しているが、突き網の仕掛けは、獲物がかかったときに手元で自由に網の膨らみを調節できる仕組みになっている。一方、投げ網の仕掛けは写真③⑤のように固定され、闇夜から突然出てきた鴨がかかった瞬間に自動的にはずれて、鴨を包み込むような機能を持っている。
突き網が猟師自身が移動しながら利用する道具であるのに対して、投げ網は待ちながら使う道具である。そこには鷹狩りとの関連で、移動しながら使用する突き網の使用方法とは違う方法を投げ網に関して想定する必要がある。突き網が鶉・鴫などを中心に数種類の鳥を想定した道具であるとするのに対して、投げ網は鴨専用で、しかも固定した猟場でのみ使用可能な道具とされている。突き網は、大変に利用価値が高く、様々な場所で使用されたと考えられ、その一つに鷹狩りへの付随的な使用方法があったと考えられよう。このように考えてみると「越え」「坂」などと称される猟場こそが投げ網を生み出したといえるのではないだろうか。
(2)南九州における突き網と投げ網の分布
ここでは突き網と投げ網が南九州においてどのような分布、及び利用がなされていたかをここで見ていく。
表2は昭和初期における宮崎県内狩猟調査の報告から投げ網と突き網を表化したものである(11)。
投げ網は、佐土原町の巨田池のみならず、「尤モ各郷ニ一定ノ場所アリ、即チ鴫ノ口越・十文字越・野久尾越ト称シ」とあるように、佐土原町を中心とした溜め池や湿田に行われていたようである。一方、突き網は、北諸県郡、東諸県郡で広く行われていた。このほか、佐土原町でも頻繁にこの網が使用されていたことが分かる(12)。投げ網が武士の特権的な猟法であるのに対して、突き網は一般的な猟法であったようである。中世における旧嶋津藩領に合致する、突き網の広い分布圏の中に、投げ網の伝承地が点在するという特徴は、突き網・投げ網の系譜につながる視点であろう。
南九州において、「越」がどれほどの範囲で普及していたかは今後の課題であるが、藤井の指摘するように突き網から投げ網が改良されたとする論を借りれば、南九州の「越」の周囲には、突き網を伝承する地域が広く分布し、投げ網が生まれる素地は十分にあったと考えられよう。今後、旧嶋津藩領という範囲での「越」に関する史料を当たることで、突き網・投げ網猟の系譜が明らかになろう。
(3)道具の選択
「越」という猟場が投げ網を生み出したと説明したが、「越」には、その地形に合わせ、もう一つカスミ網が選択された。明治25年に刊行された『猟具図説』(農商務省)には「鳧ノ羅猟ハ種々アレドモ、多ク捕獲セント欲スルニハ、峯越羅ヲ最良トス、之ヲ施スニハ、山ノ前後ニ水田又ハ沼沢等ノアル地ニシテ、峯ヲ越シテ来ル鳧ヲ捕フルヲ宜シトス、故ニ之ヲ峯越羅ト云フ(p62)」とあり、越においてカスミ網を使用した猟が鴨を捕らえるには最も効率的であることが紹介されている。この猟場は、投げ網が行われる「越」と同じ場所であり、効率を目的とすれば、投げ網ではなく、カスミ網が選択されることは当然であろう。武士の鍛錬などの目的・意義を見失った近代に投げ網からカスミ網へ移行していったことは容易に考えられる。あるいは、宝満池のように二つの猟法が並行に行われていたのかもしれない。いずれにしても、投げ網を現代に伝承する理由は、数を取ることよりも、武士道的気質や投げ網の歴史的継承、そして何よりも猟の醍醐味なのであろう。
5、最後に
ここまで南九州における「越」を通して、様々な史料を扱ってきたが、これからも新たな史料が出てくる可能性がある。特に鹿児島県には島津家関連の史料が膨大に残されており、特に中世における狩猟関連史料は価値が高い。民具の歴史学的研究はまだこれからで、特に、北陸地方の「坂」に関しては、伝承をそのまま紹介するにとどまっているのは残念なことである。一方、民具の視点からは、今回指摘した突き網と投げ網の構造の違いに関して、実物の道具を確認できなかった。投げ網のみが注目されるなか、全国的な突き網の研究も進めて行くべきであろう。
本稿は、平成10年11月15日に行われた日本民具学会鹿児島大会において「南九州における鴨の投げ網-猟法の伝播について-」として発表した内容を元に再構成したものである。
最後に、本稿の調査・執筆に当たり、吹田市立博物館の藤井裕之氏、元西都原資料館の清水聡氏、鹿児島民俗学会の所崎平氏には多くの資料を提供いただいた。また、現地調査では佐土原町の太田定美氏、南種子町の小川功作氏、祁答院町の押領司勝氏に御協力いただいた。ここに謝意を表する。
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