「桶職人と和太鼓奏者の不思議な出会い」
『FUKUOKA STYLE』29号「FS PLAZA」原稿
FUKUOKA STYLE Vol.29
〔特集〕美術館へ行こう
初版発行:2000年10月10日
「もう私の代で終わりですわあ」と力無く語ったのを覚えている。宮崎市花ヶ島の桶職人、川村知義さん(六八歳)にお会いしたのはもう五年前のこと。当時、宮崎県総合博物館の傷んだ桶類の修理をお願いしたり、桶の作り方を記録撮影させていただいた。しかし、いくら綿密に記録をとっても職人の繊細な技術を残すことはできないと、ある種の無力感を感じた。苦労も多い職人の世界に踏み込もうとする若い人はいないのではとあきらめていた。
ところが、昨年「みやざきの技」という博物館の企画展で、川村さんが実演をされると聞いてうかがったところ、ある青年が横で作業を手伝っていた。川村さんに弟子ができていたのである。その青年は、宮崎県内で最も人気のある和太鼓グループ「橘太鼓響座(たちばなだいこひびきざ)(代表岩切邦光氏)」のメンバー松野力也さん(二五歳)であった。「なぜ和太鼓と桶が関係あるんだろう」というのがその時の正直な印象であった。
川村さんは、十数年前から桶胴太鼓を作っており、響座からの注文を多く受けるようになっていた。平成十年、響座の代表岩切さんに、この際太鼓を自分のところで作ってみたらどうかと提案した。そこで岩切さんは有限会社「太鼓屋」を設立し、川村さんのもとへメンバーの一人である松野さんを弟子として送り込んだ。
弟子入りした松野さんの当初の目的は桶胴太鼓だった。しかし川村さんも太鼓ばかり作っているわけにもいかないし、基本的な技術は共通するということで、彼は桶職人としての修業を始めたのである。ただし響座の演奏がある時には休みをもらうという約束であった。
松野さんは、高校三年生の時、弟二久(つぐひさ)さんの影響で和太鼓を始めた。平成九年、響座に弟と共に加入。翌年、それまで勤めた会社を辞め、岩切さん経営の「宮崎麺工房 響」に入社。響座のメンバー五人全員が他に職を持っているため、岩切さんは自分のもとで働く松野さんに目をつけた。
「最初は何が何だか分かりませんでしたよ」という松野さんは、桶を触ったこともなかったという。力任せにカンナを掛けるのが精一杯で、センという道具の使い方を誤り、ジーンズの上からざっくりと脚を切ったこともあった。当時は川村さんの体調もすぐれず、いろいろな苦労があったようである。
和太鼓で鍛えた筋骨隆々の松野さんであるが、桶づくりに使う筋肉は違うので、疲れは二倍であるという。川村さんからみれば、太鼓で鍛えているはずの彼の手はまだ赤ちゃんの手だという。柔らかい手に、タガの竹はすぐに刺さってしまう。とにかく道具や材料に慣れ経験を積むしかない。夏場は和太鼓の演奏が忙しく、せっかく身についた技術も忘れてしまうと、川村さんは苦笑するが、その点に理解があるから松野さんも続けていけるのであろう。
演奏と職人の両立という不安定な生活を、自分からは辞めないという彼は、とにかく演奏の技術を高め、桶づくりを学ぶことに専念している。はやく道具の手入れや木の性質を見ることができるようになりたいというその目標は堅実である。
近年、手作りの作品が見直されつつある。鹿児島県に七月にオープンした「笠沙恵比寿」という施設では川村さんの湯桶と風呂椅子、寿司桶が使用、販売され、評判だという。大量生産の物ではなく、手作りの道具に触れること、作ることに人々は何を求めているのだろうか。
「和太鼓の魅力は何ですか」との問いに対して、「自分が苦しい分だけ、お客さんが喜んでくれるということですかね」と答える松野さんの表情は自信に満ちていた。職人の存在が軽視されるこの現代でも、手を抜かずに本物を作り、新しい時代に適応した製品を提供し続けることで、桶もまた生き続けていくだろう。彼のことばに、和太鼓演奏と桶職人の接点を見つけた。