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細島婆伝説考

『宮崎県地方史研究紀要 21』平成6年原稿

   【目次】
はじめに
一、細島婆伝説の現代的展開
 (1) 伝説の現在
 (2) 伝説と祭り
 (3) 伝説の転換
二、細島婆伝説の近世的展開
 (1) 新納家と木ノ氏集落
 (2)「九郎物語」にみられる伝説
 (3) 正覚寺代参について
 (4) 正覚寺と新納家の関係
 (5) 真宗禁制と新納家
 (6) 真宗禁制の諸説
三、伝説が語るもの
 (1) 伝説のモチーフ
 (2) 二つの伝説の持つ意味
おわりに

はじめに

 ここでとりあげる伝説は、ある船頭の殺人事件を発端に、細島・美
々津(宮崎県日向市)と木ノ氏(鹿児島県大口市)を主な舞台として
繰り広げられたとされる「細島婆による祟り伝説」である(以下「細
島婆伝説」と記す)。この伝説は木ノ氏集落を中心に現実味を持って
伝承されており、鹿児島県内では比較的知られた伝説である。しかし、
現在聞き書き可能なテキストとは別に、近世史料「九郎物語」にも同
内容の伝説が詳述されていることは研究者にも知られていない。この
「九郎物語」との比較において注目されるのは、祟りを鎮めるために
代参していた寺が浄土真宗寺であったことである。薩摩藩が真宗を禁
制としたことは有名であるが、こうした社会体制や信仰活動との関連
で「細島婆伝説」は捉える必要があろう。本稿では、現代と近世の二
つの伝説を軸に、それぞれの社会的背景とともに資史料を整理し、さ
らに二つの伝説の持つ意味を考える。

二、細島婆伝説の現代的展開

(1)伝説の現在

 伝説の舞台となる木ノ氏集落は、鹿児島県大口市の市街地から北に約四キロメートルの所で、高熊山の南麓にあたり、水之手川を上流に行くとすぐに人吉市である。西南の役の古戦場である高熊山からは木ノ氏集落が一望でき、この山は釈迦段を中心とした信仰の対象ともなってきた。
 現在の木ノ氏集落は、東側の川筋には田園が広がり、西側の台地には畑地が広がる比較的開けた土地の印象があるが、永禄十二年(一五六九)、新納忠元が領地を与えられたときには、大口一の悪地で不毛の耕地であったという。忠元は木ノ氏川西岸の地の開墾に着手し、慶長五年(一六〇〇)迄の約三〇年間に五〇町歩余りの水田を開かせている。現在の木ノ氏の田が約七〇町歩であることから比すれば、その大部分をそのころ開田したこと
になる。(1)

細島婆伝説_ページ_2 (2)
細島婆伝説_ページ_3 (2)

 「細島婆伝説」の元になる事件が起こったとされるのはまさにこの時代である。関ヶ原の合戦が西軍の敗戦となり、島津義弘が僅かな兵力で敵家康の本陣を突いて退路を求めた話はよく知られた話であろうが、その後日談として、細島婆の話は続く。

 現在、多くの話者が話すこの伝説は活字になったものからの知識が多く、ここでは多数の伝承者から伝説のバリエーションを浮かび上がらせるという方法は採らず、近年の文献を典型例として考えていく。そこでいくつかの文献を当たってみると、次の二つの文献が現代の伝説の引用の典型例としてあげられていることに気付く。
○「細島婆の経歴について」『郷土史蹟調査』(謄写版)
            牛尾校(牛尾小学校)編 昭和九年三月(2)
○「関ヶ原合戦遺聞 細島婆の死霊」(八四~八八頁)
           市後崎繁著 『六郷めぐり』昭和十年八月(3)
 ここでは『郷土史蹟調査』を元に内容を紹介し、部分的に解説を加え、異なる点を『六郷めぐり』で補足していく。なお、解説関連部分に関しては傍線を付した。後節との関係では番号を付し、これを【伝説1】とし、次節での近世期の伝説を【伝説2】とした。

【伝説1】『郷土史蹟調査』
①新納弥太右衛門忠増は関ヶ原にて敵味方乱戦の際、義弘公と別れて長寿院戦死後味方にも離れて、主従七人敵中に斬入に、大坂に忍出た處、落人の捜索が甚だ厳しかったから、彦左衛門と云ふ人の家に至って頼った處、彦左衛門快く請合ひ、仏壇の下に隠し置いた。

②新納弥太右衛門忠増は彦左衛門に曰く、「吾等一行を九州地まで送り届くれば高禄を与へる」と。※『六郷めぐり』では、「若し、首尾よく細島港まで渡してくれた時は、礼として銭千貫、米千石を与えよう」と約束した。とあり、後々祟られた者が呻き発する声は「銭千貫、米千石」というものであった。

③丁度其の時、日州表に綿荷積船の必要おこりたるため、彦左衛門一策を講じ、商品と共に荷内に隠れしめ、かくして船中に積み載せて日州細島(耳津川)に着船した。※この伝説では、細島と美々津の混同が見られる。当時の古文書類には、「細島に着船」という記述が散見されるので、大坂から細島に到着したことは確実であろう。細島婆が上陸した細島と代参した正覚寺がある美々津とを、明治二十四年に代参を中止してから数十年経ち、土地勘が無くなり生じた誤解と思われる。

④然るに、船頭即ち彦左衛門親子に、新納氏禄を与へる資格なく、且つ事面倒になるのを慮り、一思ひに殺害せんと決心した。そして、木ノ氏の士、川畑某(何人なるか不明)四人の船頭を殺す。そして、陸路小林を経て十一月十二日大窪村に一宿して帰着した。※『六郷めぐり』では次のように、木ノ氏の側はあくまでも忠増に命じられ、状況として船頭殺害が不可避であったことが強調されている。上陸した時には銭千貫どころか、乱軍の末、遠路の逃避行の末とて、路銀も全く使い果たし、与えるべきものとては無いのだった。これに加えて、その時までは東軍の追捕の虞れがないわけではなく船頭を通して漏洩の心配もあり、仕方なく忠増は従者木之氏の川畑某に命じて、彦左衛門父子を切らしてしまった。※川畑某 その子孫に当たる川畑嘉之助氏宅には、昭和九年当時、殺害した刀剣(銘は源兼信)があったそうだが、戦時中に没収され所在不明とのことである。※大窪村 現在の小林市大字南西方字大窪村であろう。

⑤後に残った妻は、夫と一人息子の便りを待てどないので、不思議がり、且つ新納氏の仰せの如く、或は高禄を賜り楽しき生活を営んで居るだらうと、一面希望を持ちながら、大坂を出発して日州に向かった。そして細島に着いて、事の由を仔細に聞き尋ねてみるに「上陸するや四人の船頭は殺された」と・・・

⑥ばあさんは事の意外に倒れんばかりに驚き、且つは其の無慈悲怨恨に報仇せんと決心し、身を清め、心を鬼となし、仏像を逆につり下げ、七日七夜松葉にて燻し、先方に怨が達し祈願成就するよう心霊をこめて祀りて死す。

⑦幾ばくなくして、其の念、鹿児島市の新納家に祟る。即ち、屋敷内に時々白髪のばば現る。其の際、其を見た者は直に其場に気絶し死に至る。

⑧事の不思議なるに新納氏あやぶみ、山坊主にうらない見るに、彦左衛門の妻(細島にて怨死せし為め細島ばばといふ)の祟りなること判明した。

⑨そこで新納氏は、神仏にかけ、殺害せしは吾にあらず、木ノ氏士で あった。木ノ氏へ行って祟られたしと、山法師に頼みて請願した。

⑩それ以来、新納家は事無きも、木ノ氏川畑家は勿論、近所近辺の人、牛馬に祟り、災難続く故に、木ノ氏一同の士相はかりて易者に検するに、細島ばばの祟りなること解る。

⑪故に、日向の細島に行き、細島ばばの墓に参り、交代に毎年参詣することに決す。

⑫一度此の風に逢ふと病人は船頭のまねを言ふ(ギッギッギッ、エンシンエンシン)て神経になって死すとの事である。(以下略)※木ノ氏集落内で白髪の婆が出る場所は、川畑家があった近くの鬱蒼と茂った竹薮であったという。現在は道路拡張のため舗装され、その影もない。※『六郷めぐり』では、木之氏の川畑家は勿論、近所近辺のものに祟り散らし、日暮れ野良帰りの途上、或は夜間近所歩きの途中などに白髪の老婆が現れ、又は妖怪変化に出逢うと俄に発病し、その呻吟する声は、「銭千貫、米千石」と聞こえる時もあれば、又は「ヨイショ、ヨイショ」とちょうど艪を漕ぐときの掛声を発することもあって、後には死亡することが屡々あった。そればかりでなく、牛馬まで妖怪に取りつかれて、暴死することさえ度重なるに至った。

 以上の【伝説1】を元に「細島婆伝説」は現在でも木ノ氏集落に伝えられているが、集落内でも伝承者が少なくなり、転居者も多いため、リアリティーは薄れている。むしろ、集落外の者によってその伝説は怪談話などとして修飾・誇張されている。また、前出の文献を元に小説化されてもいる(4)。

(2)伝説と祭り

 ここでは細島婆伝説が木ノ氏集落で、どのような形で生き続けているかを見ていくが、祭りを例に紹介していきたい(5)。
 細島バッさんの祭り(地蔵さん祭り)などと呼ばれ、以前は旧暦三月九日・九月九日であったが、現在は新暦四月九日および十月九日の二回、木ノ氏墓地で行われる。木ノ氏全体(但し、一ノ瀬・笹野は不参加)の祭りであり、以前は学校までが休みになり、祭りへの出席率は百%であったという。
 春の祭りには、花見を兼ねて婦人会による手踊りが行われる。秋には子供達を中心に相撲をとるが、その際にはガンボトッ(願ほどき)のため、三十三番の相撲をとらなければならないといわれている。個人戦や三人抜き・五人抜きなどがあり、ときには青年団も参加する。
 秋の場合、当日は二時頃から細島婆供養塔の前でお経を上げて、法話がある。参加者全員が焼香をすませると、土俵開きとなる。幼児から小学生までの相撲がひと通り終わると中入りとなり、持ち寄った弁当を食べる。その後、さらにお好み相撲や現在ではカラオケ大会などが行われている。
 このように現在では前掲の伝説に見られるようなシリアスさはなくなってきているが、以前からこのような明るい祭りが行われていたはずもなく、そこには何らかの転機があるはずである。そのひとつに祭りを担当する寺との関係があげられる。
 この年に二回の祭りは、基本的に春は大岩寺、秋には真宗大谷派大口説教所(現明徳寺)が分担している。大岩寺は明治十五年に、大谷派説教所は明治二十五年に始まる。明治二十四年に供養塔が建てられたことを考えると、現在のような祭りの形式は供養塔が建ってから次第に門徒の増加とともに成立してきたものと思われる。
 日常的にも、村人は自分の家の墓参りの行きと帰りに必ず地蔵様(村の者はこう呼ぶ)の所に寄って花や線香をあげて礼拝をしている。墓の前には二、三十本の花筒がならび、常時花の絶えることがない。

(3) 伝承の転換

 【伝説1】⑪のように、木ノ氏集落から美々津正覚寺への代参は明治の中ごろまで行なわれたが、明治二十四年、牛尾の山坊主中村亀吉のすすめで、「戸数宛壱銭、人ひとりに付壱銭宛徴集」(6)し、一大法要を営み、木ノ氏墓地に供養墓を建て、代参は中止されることとなる。
 墓碑は木ノ氏墓地の北の角(昔の墓地入口)にあり、四角の竿石に屋根形の笠石。竿石の正面に地蔵尊(観音か?)が彫られ、

 裏 「明治二十四年旧九月九日 山坊主 中村亀吉」
 左 「大阪彦左衛門両夫婦並ビニ家族ヲ葬ル木ノ氏村中」
 右 「釈歓喜信男信女 主取黒木市兵衛 松坂林助 重久助次郎」

と刻まれている。主取とはスドイといい、「班ごとに一人、臨時に立てる。葬式の指揮者」(7)である。当時はおそらく上・中・下に分かれていたと思われ、その代表三名の名であろう。さらに仮屋内の看経所には位牌があり、表に「日州細島船頭」、裏に「釈教須・釈月心禅定師・釈尼妙慶・釈尼妙哲」と記されているが、比較的新しいもののようである。

細島婆伝説_ページ_4 (2)

 山坊主、中村亀吉による供養墓の建立は代参の中止を意味するのみでなく、船頭や細島婆の怨霊との決別を可能とした。

中村易者曰く、「細島ばばの霊魂は木ノ氏から去らる。人通りの多いところに祀れ、然すれば祟らぬ。其の上イボ・オネキを治すことを保証す」と。そこでイボの出来ている人はイボの数だけ豆を供ゆと其の豆が発芽するまでは出来ぬ、またオネキにかかった人は火吹竹を供へると全治すと言ひ伝えられている。(8)

 細島婆伝説が御霊信仰を基盤にした伝説であることは容易に察せられるが、代参に象徴される荒魂を鎮めるだけの消極的な儀礼から、和魂へと完全に転換されるのが中村亀吉の功績と考えられるが、今回の調査では中村亀吉の素性は知ることができなかった。

<註>
(1)『木ノ氏郷土史』六頁(木ノ氏郷土史研究会編 昭和五十三年)
(2)『郷土史蹟調査』を引用した文献には左記の文献が挙げられる。
○「細島婆の経歴について」(八六~九〇頁)『大口市の文化    財ー調査報告第一集ー』南九州郷土研究会 昭和四十七年
(3)『六郷めぐり』を引用した文献には左記の文献等が挙げられる。   ○「細島婆の供養墓」(一二~一四頁)『木ノ氏郷土史』(前    掲)
○『大口史蹟伝説めぐり』(昭和四十二年)は『六郷めぐり』    の復刻である。
○甲斐勝編著『日向市の歴史』(一三三~一三六頁・昭和四十八年)
○「細島婆の供養」(三二九~三三二頁)『大口郷土誌(上巻)』    (大口郷土誌編さん委員会 昭和五十六年)
(4)村上恩氏は右の諸文献を元に「忠元次男忠増『細島婆怨霊』につかれたこと」(『狭野杉物語(下)』昭和五十七年・田辺経営出版部)と題して、脚色している。
(5)この項目は、木ノ氏在住の飯田俊光氏(大正十二年生)・宮田良熊氏(明治四十一年生)、及び明徳寺現住職中村高澄氏(昭和七年生)の話と『大口郷土誌(上巻)』(六七九頁・前掲)を元にした。
(6)『郷土史蹟調査』(前掲)。なお、『郷土史蹟調査』には頁の記載がないため引用では頁数を省いた。
(7)『大口郷土誌(上巻)』(五二八頁・前掲)
(8)(6)前掲。

三、細島婆伝説の近世的展開

(1)新納家と木ノ氏集落

 ここでは、近世期の伝説である「九郎物語」を見ていく前に新納家と木ノ氏集落との関係を紹介する。
 永禄二年(1559)、新納忠元が初めて大口の地頭職に補せられたとき、知行として忠元が希望したのが、木ノ氏であった。当時の木ノ氏は大口でも最も劣悪な土地で、全くの不毛の土地であったという。忠元は農民を入植し開墾させ、水田を開き、植林し、産業を振興したという。天保十四年(一八四三)の新納文書によると、木ノ氏は新納氏の私領で、家来が農業を営み「百姓はまかり居らず候」とあることから、門はなかったと思われる。文化元年(一八〇四)調査の古事見聞記にも、小川内とともに、木ノ氏には門の記載がない(1)。つまり、郷士のみの集落で、木ノ氏が新納家の直轄地ということを示し、すべての手続きは大口地頭を経由するのではなく、鹿児島の新納家に直接伺いをたてるという形をとる。新納家と木ノ氏の関係は大変に密着した特別な関係であったからこそ藩が禁制とした浄土真宗寺に代参が継続できたと見るべきであろう。

(2)「九郎物語」にみられる伝説

 前節では現在の伝説に直接通ずる文献【伝説1】『郷土史蹟調査』を紹介したが、ここでは「細島婆伝説」を記述した文献史料である新納時升の自叙伝「九郎物語」(2)を紹介する。時升の苦難の半生は「九郎」の名に因縁がありそうな気がするという出だしで始まり、そのエピソードとして細島婆の伝説が引用されている。(ただし細島の地名は一切出てこない。)

自らの半生を振り返るとき、まことに苦労の連続であった。つら つら考えてみるとこれは先祖新納忠増以来、襲名してきた次郎九郎 の「九郎」が「苦労」に通じ、先祖代々の生き様を振り返ってもな にか「九郎」の名に因縁がありそうな気がする。この物語の時升一 代の自叙伝に限らず、全五巻のうち第一巻には初代忠増から父の六 代実意にいたる代々記の形になっている(3)。

忠増から七代目に当たるという要素が何故重要なのかといえば、【伝説1】には語られていないが、船頭の妻と両親が呪詛し死すときに「新納の子孫七代絶へし」と言い残している。そのことばが新納家の者を代々呪縛してきたのであるが、「九郎物語」を書くことによって、その呪縛がこの時升の代でとけるという意味を持っていると考えられる。
 ここで「九郎物語」を見ていくが、【伝説1】と同様に番号と傍線を付し、解説を加えた。

【伝説2】新納時升「九郎物語」嘉永四年(1851)(4)

①一、盛淳戦死の其間に、公は伊勢路にかかりて退せらるるに、忠増は跡に残り敵に当られしに、兎角して乱軍を切抜け、主従七人摂州大坂まで出給ひけれども、関東方落人を探し索むる事甚しきゆへ、ある商家に走り入て舎りを乞給ふに、あるじ父子いと憐みを加へ、其家は一向宗門徒なりしか、七人を仏壇の下に隠し数日かくまいおき。

②扨其子彦右衛門といへるは、年比綿を商ひ日州に往来しけるが、櫃七竿を拵へ七人を其下に入、上に綿を覆ひ、船に乗せ日州耳津まで送りしかは、恙なく家に帰られ、老たる父母にも再び面を合せ給ひぬ、実にも箇程の苦労せる人は世に稀なるべし、

③夫よりして世も治り、静に父母の養ひをも尽し給はぬに、幾程なく慶長九(一六〇四)年甲辰五月七日といふに父母に先だちて世を去給ひぬ、嫡家の菩提所大口泉徳寺に葬り石塔今にあり、法号は鉄翁盛関居士と申奉る、隅州帖佐山田地頭職に補せられしといへども年月詳ならず、
 ※泉徳寺 新納家の菩提寺である青峰山泉徳寺のことで、大口市上青木にある。宮之城揚宣寺末寺であったが、明治初年に廃寺。(5)

④一、此彦右衛門事に付て、我が家あやしき事こそあれざれば彼大厄を免れ給ふ事も、日州迄彦右衛門送り奉りし故なれば、再生の大恩なるゆへ、此方へ伴ひ越して幾くの知行をも与へ、然るべきさまに取立得させぬとて、召具し来給ふ途中にて、家隷ども相議しけるは、主君讒の禄を分ち給はんに、我一家如何して妻子を育むべき、よしや殺して後の邪魔を除くべしとて、小林村嘉例川といへる所まで来り止宿せし夜、熟寝を伺ひ、家隷鮫島某といふ者陰に是を刺殺しぬ、
 ※小林村嘉例川 『日向地誌』(6)には、小林市の隣、野尻町麓に関する記述に「嘉例谷溝 本村ノ北菖蒲狩倉ノ山麓ヨリ起リ南ニ流レ奥畑ニ至テ戸崎川ニ入ル」とあり、これに比定されよう。
 ※鮫島某 鮫島姓の家は現在知る限りで木ノ氏には存在しなかったようである。

⑤忠増是を聞給ひていたく悲しみもだへ給ひけれども及ふべきならねば、其所に埋み置、家に帰りて是を氏の神に崇め祭り給ひけるが、

⑥故郷の父母妻は、さこそ彦右衛門は恩賞を得、我が身も其報を得べしと待ちしに、おもひの外殺害に逢ひし事を洩れ聞、大に恚み憤ふり、一向宗にて人をす呪詛る方に逆川といふ事ありて、仏を倒にして川を引のぼり呪詛調伏を祈る法ありけるを、三人其法を行ひ、新納の子孫七代絶へしと祈願して断食して死したりけり、一説に、彦右衛門召具したるおのこ其所を逃出家に帰りて告けたるといへり、
 ※「逆川」ということばは、高知県に伝わる「いざなぎ流祈祷師」の「呪詛の祭文」の中に出てくる「さかさま川」に通じるものとすれば、一向宗の呪術ではなく、陰陽道のものと考えられる。(7)

⑦其怨霊、甚敷部類眷属に祟りをなし、さまざまの怪事多かりけるに、嫡家の家隷に内村修善院といへる山伏あり、其者の祖は即ち内村軍右衛門といふて、忠増従者の長として関ヶ原の役にも供して旅中の■を管り、即ち櫃の内に匿れし六人の中也けり、其由縁にやありけぬ、此山伏さまざま祈祷しけるが、始めは一向霊を顕さず、修善いよいよ心肝を砕き祈りけるに、終に其霊あらはれ、日州耳津に彦右衛門所持の本尊あり、是を祭り其上に阿弥陀と観音を勧請し祭らば、悪霊穏なるべしと告あり、修善院耳津に到りて尋問に、果して正覚寺といへる寺に本尊を預置たるあり、因て是を祭り、又告の如く阿弥陀・観音の像を大口木ノ氏村嫡家の持仏堂に勧請して今にあり、
 ※「其者の祖」ということは船頭が殺されたときから修善院の祈祷まで数世代が経っていたことが分かる。つまりこの段落は貞享四年頃の話である。
 ※悪霊穏やかなるべしと告げがあったということは、彦右衛門の霊を口寄せしたのではなく、修善院の守護神による託宣であったと捉えられる。
 ※持仏堂 昭和九年には内村家の仏壇に木像の阿弥陀様と六手観音様が祀られていたことが、『郷土史蹟調査』に記されている。

⑧修善が子孫代々其祭りをなす、修善が後を今良賢坊といへり、夫より吾家には、彦右衛門正忌十一月十二日に御供・神酒を設て、親族集り毎年仏事をなす、
 ※内村家は明治における仙良坊(仙次郎)まで真言宗の山坊主として世襲されていた。

⑨忠増の嫡女は島津下野守久元の室なるが、彼方にも其祟りあり、忠増嫡子は、加賀守忠清嫡家を継れしに、是も同じく祟りあるゆへ、嫡家よりは福昌寺中深固院、久元の家宮之城は、同寺の中龍護院に墓石を建て祭りを修せられしなり、
※福昌寺 玉竜山福昌寺は鹿児島郡坂本村長谷場(現玉竜高校)にあった。曹洞宗。当寺は後奈良天皇の勅願所、薩隅日三州の僧録所にして藩主の菩提寺。一九五〇石の寺高を有する大寺する。
  深固院 福昌寺の後山の半腹にあり、福昌寺十二景の一つ。
  龍護院 福昌寺会中の支院。(8)

⑩又按るに、修善院か祈禳して霊のあらはれしは、貞享四(一六八七)年五月七日 とあり、其年忠増君の孫主計久行の隠れ給ひ、其子時春の君はまた、十四歳の時也、此時件祭事をなしたれば、いかさまにも久行死去の時妖怪の事もありしが、又家に安置の四霊の牌に貞享四年五月七日と記したるも、此五月七日は忠増君隠れ給ひし其忌日なれは、是も又其由縁あるべく思はるれども、其故遂に知るべからず、

⑪修善帰りし後、嫡家家隷の内より毎年代参を被越たれども、近年■五六年に一度も代参の事にはなりし也、彼木の氏持仏堂の二像は、時升参詣せしとき段々破壊せしを仏工大塔正蔵に命じて修理を加へ 納め置きし也、

⑫一、此彦右衛門及父母妻の恨みは実に深かるべき也、縦さやうの冤事なくとも、急事の死亡を救ひしもの、世々祭りをもなすべき事なるに、まして家隷共恩を仇にて報し虎狼もしかさる振舞、天地の悪みも受べき事也、高祖は流石勇武に仁心を兼ねたる御方なれば、其時悔おもはせ給ひし事は嘸かしと思はるるなれ、高祖は仁心の見えたるは、我が家の日記に、肥後の途中にて吾父の忠元君九州より帰陣に船に乗せ参らせしといふ男に行逢ひ、往昔の事思ひ出られ脇指を一腰とらせ遺したりとあり、仮初の船渡しにさへ斯情深く振舞給ふに、まして吾命を助けたる者に酬ひ給はん御志押計らるる、

⑬されば乱る御仁心をば上天もしるしめしければ、四霊の七代は絶べしと誓し程の悪念障礙をなせしも、家は恙なく続きて今に及びしは、忠増の邪なき御志の陰徳なるべし、然れ共四霊の怨霊も畏るべきは、高祖君より別れし男女の末養子ならざるはなし、不肖時升七代に当りて男子なく、ひとりの女子には他姓を養ひ家を継がせ、又嫡家も忠清の血脈今までは残りしに、今の久仰君外孫より家を継給へども是も他姓也、其外女の他江嫁したるも皆養子あり、

⑭一念の悪気さも有るべき事なれば、深く此事をおもふて、文政三(一八二〇)年四霊の碑を珪樹院建立し、福昌寺代岱州和尚を請して、大施餓鬼の法を修して霊を宥め崇めて信心を凝しぬ、此事子孫世々忘まじき事也、
 ※珪樹院 福昌寺山中の禅院。(9)

 以上、近世期の【伝説2】を紹介したが、【伝説1】とは物語の構造は共通しても、内容的に異なる点も多く、より詳細な内容のため、その比較分析は様々な角度から可能である。ここでは近世期の時代背景を考え合わせて、浄土真宗正覚寺への代参を中心に見ていくことにする。

(3)正覚寺代参について

 「九郎物語」を見ていくと、島津氏が禁制のはずの真宗の寺へ毎年代参していたという記述が注目される。他の史料を見ていくと次のように代参が行われていたことは事実のようである。まず、正覚寺代参の初見である「新納久命雑譜」(10)の天明九年(1789)の記述を見てゆく。

 一、同十(正月)九日木の氏内村仙良坊、先日より■参居候而今日罷帰候、尤日州美々津正覚寺江代参申付候間、町奉行方より■切手并往来申受、木之氏江罷帰り、久保田可市召付候故、壱日を休ミ、来ル廿二日より■木之氏出立いたす筈也、尤白銀壱両、為志相備、右両人江路銀として青銅弐百疋、御国中を朝昼夕三度分飯料遣候、先年より■右之通致来候故也、右ニ付新納弥太右衛門よりも白銀壱両被遣候、先年は一ヶ月(年か)ニ壱度ツヽ代参申付候へ共、当分者家督内両三度も代参申付事、
      (中略)
 一、同六((二月))日朝、木之氏より■黒木平右衛門奉越候、内村仙良坊・久保田可市美々津江廿三日より■差越、三日ニ木之氏江罷帰候旨、且往来致持参候付、今日則町座江致返納候、白銀相備候、正覚寺より■之請取書も差出候事、

町奉行から「切手・往来手形」を与えられ、藩よりの少なくない金銭を得ての代参は、明らかに藩公認の活動であろう。この日記には、藩領内の各地方へ代参や旅行などの様子が詳述されており、この日記中での正覚寺代参の意味を抽出すべきだが、ここでは事例紹介に留めておく。
 次からは「九郎物語」と同様に幕末の史料になってしまうが、「九郎物語」が書かれた時期には、何らかの理由があるのか、この伝説を元にした記述が史料に散見されるようになる。

日州耳津 正覚寺内
一船頭両夫婦の墓
右代参の儀仕来りの通、折節家来どもへ申付差越候事、但代参の節々、末家弥太右衛門方よりも香典銀など差遣わすしきたりに候、
           (新納久仰「後年覚」文久二年(1862))(11)

とあり、「九郎物語」との内容の一致がある。弥太右衛門は新納時升であり、「九郎物語」中で代参を年に一度するようにと意見しているがその後実行されているようである。
 ちなみに、次のように泉徳寺にその後位牌が収められた記述がある。これも時升の指示によるのであろうか。

 一、今日磯永孫四郎参られ、泉徳寺、建替位牌之内船頭両夫婦之牌文字彫かたまでも出来候とて持参也、(「新納久仰雑譜一」(12)安政二年(1855)七月廿六日)

 一、同寺(泉徳寺)御牌破損多くこれあり候に付、正統方二基・庶子二基、並に殉死戦亡牌一基・船頭両夫婦の牌一基・都合主従の牌六基、合祭にて安政二年卯七月造り替えていたし建立候事、(「新納久仰覚書」(13)文久三年(1863)亥二月)

(4)正覚寺と新納家

 正覚寺に代参をしていた事実は確認できたが、真宗禁制にもかかわらず、木ノ氏の者が公に代参できたのかが理解しがたい。手がかりは少ないが、正覚寺と新納家の関係を探ってみる。
 新納氏は島津氏の古い支族で島津忠宗の第四子時久がその始祖である。新納氏を称したのは、建武二年(一三三五)に時久が日向国新納院(現在の児湯地方)の地頭職に補せられた時からであるが、新納院はわずか十数年で畠山直顕に奪われることとなる(14)。このときの新納院の領内に美々津が入るのである。真宗本願寺派である正覚寺は、現在美々津町字上町にあるが、「正覚寺縁起書 写」(大正六年)(15)には次のような記述がある。

 御形見ニ祖師聖人ノ御真筆十字ノ御名號ト阿彌陀如来ノ尊像、御裏書ニ方便法身ノ尊形、文明三年三月九日、大谷本願寺釋蓮如判、日向国児湯郡新納院美々津願主釋慶西ト御染筆ナサレ(以下略)

慶西とは正覚寺の開祖であるが、その当時美々津が新納院であったとされる。中世から引き続く新納家と美々津正覚寺の関係が、近世期まで引き続いたとは考えにくいが、全くつながりのないものではないことが分かる。
 ちなみに、近年、大口の人々が美々津正覚寺を訪れて、彦右衛門夫婦の墓を探したそうであるが未だ確認されていないという。正覚寺は「明治八年乙亥専修寺ヲ廃スルニ及テ正覚寺ヲ其墟ニ移シ旧正覚寺ノ址ヲ以テ戸長役場トナス」(16)とあり、それを参考に探せば、そう古い話でもないので見つけられるのではないかと思われる。

(5)真宗禁制と新納家

 ここで薩摩藩の真宗禁制の実状については触れることはできないが、新納家が真宗禁制にどのような姿勢であったかを見ていく。
 慶長十一年(一六〇六)には、当時の大口・菱刈地方に居住していた家臣達伊地知重政以下四八名が「起請文」として、一向宗を信じないこと、今後も別心がないこと、奉公一筋でかかわりがないこと、もし野心不忠が有る者は御糺明下さっても結構ですと、当時大口地頭であった新納武蔵入道殿(忠元)に誓いをたてている(17)。また幕末においては次のようなエピソードがある。

嘉永二年(一八四九)頃、大口村の木氏に宮田新左衛門と云ふ郷士がゐた。内々真宗を信仰せることが発覚した為め、十八歳を頭に三人の子供を置去りに郷里を逃げ出し、八代の光恩寺に入り御堂番をして居った。大口の役人が探偵に行きたれば、再び日向の清武の今村に逃げ行き生涯を送った(18)

木ノ氏は新納家の直轄であるが、木ノ氏のみ真宗信仰が許されていたわけではないだろう。それでは何故、真宗正覚寺へ代参が可能であったのだろうか。真宗禁制という制度を越えるほどの祟りが実際にあったか、あるいはあり得ると信じられていたのであろうか。

(6)真宗禁制の諸説

 真宗禁止令の初見は、慶長二年(一五九七)二月二十二日であるが(19)、この時期は諸県地方では多くの反乱が起こっている。慶長四年(一五九九)三月九日、島津忠恒が京都伏見で重臣伊集院幸侃を誅殺した事件を元に「庄内の乱」が起こっている。真宗が禁制となった説の一つにこの幸侃が一向宗門徒であったからというものがある(20)。その事件の直後に「一御代々御きらい之儀候条、一向宗に曽以罷成間敷事」「一当時幸侃妻子背御下知被構逆心候間、雖不及申儀候、曽以通用申間敷候。」(21)と起請文で誓約していることから出た説であろうか。しかし、幸侃が真宗門徒であったという確証は現在の所見あたらず、藩内の安定のために真宗を禁制にする理由付けとして利用されたともいわれている(22)。細島婆の祭り日が幸侃の命日であることは暗示的であるが、さらに「九郎物語」に出てくる嘉例川に比定される地方には、幸侃の嫡子忠真の祟り伝説が今でも残っている。慶長七年(一六〇二)八月上洛の途次野尻において忠真は殺され、その後大火や被災が続き、五輪塔を築き、御霊を鎮めた(23)。
 また、真宗禁制の諸説のもう一つに「又八郎母呪詛説」というものがある。島津家久の嫡子である光久と異母弟の又八郎とは共に元和三年(一六一六)の生まれであったが、わずか五ヶ月遅れのため継嗣になれなかった。そこで又八郎の生母が光久を呪詛し、その結果、光久は足が不自由となった。この又八郎の生母が一向宗の門徒であったために真宗が禁止されたという(24)。これなどは呪術とは無縁であるはずの一向宗(浄土真宗)が、邪教である故に禁制となるという、「九郎物語」に通ずる考えが見られる。こうした反乱=一向宗=呪詛という考えが薩摩藩においては、真宗禁制の理由として一般には受けとめられていたのではないか。過去に起こった歴史的事象をもとに伝説の基盤が作られ、一旦災厄が起こった場合に、それが一向宗門徒による祟りであるという考え方がすんなりと認められ、例えそれが真宗寺であろうともそこに参拝すれば災厄が無くなるのであれば代参しようということで、美々津正覚寺への代参が明治期まで続けられたのではないだろうか。逆に言えば、一向宗との関連があったからこそ、この伝説がリアリティーを持ち続けてきたといえるのではないだろうか。
 ちなみに、一般に浄土真宗と呪術は相反するもので、真宗は俗信を嫌う宗教として知られているが、南九州では、時代は下るが、シャーマニズムと真宗などの複合した秘密宗教であるカヤカベ教(25)や三業安心(26)の例もあり、真宗と呪術の複合は否定できない面もある。

<註>
(1)『大口市郷土誌(上)』(三八一~三八八頁・前掲)
(2)鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料(新納久仰雑譜二)』鹿児島県 昭和六十二年
(3)『鹿児島県史料(新納久仰雑譜二)』月報2 五頁 昭和六十二年
(4)前掲。この「九郎物語」(あるいは「九郎談」)の原本は東大本二種と鹿児島県立図書館本一種があるが、ここでは理解を助けるため、意味の通る方を優先にし、旧字を新字にした。
(5)『大口市の文化財 調査報告第一集』(八三~八五頁・前掲)
(6)平部■南編『日向地誌』(復刻版)一二三四頁 青潮社 昭和五十一年
(7)小松和彦「呪術の世界 ー陰陽師の「呪い調伏」ー」(二八七~二八九頁・山折哲雄他編『日本歴史民俗論集9 祭儀と呪術』吉川弘文館 平成六年)や小松和彦『日本の呪い』などを参照のこと。
(8)『三国名勝図会』三〇四~三一七頁(『日本名所風俗図絵15 九州の巻』角川書店 昭和五十八年)
(9)同右
(10)「新納久命雑譜」天明九年(1789)(鹿児島県立図書館所蔵)
(11)新納久仰「後年覚」((6) )文久二年(1862)。『大口市郷土誌 上巻』(三三一頁・前掲)
(12)鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料(新納久仰雑譜一)』鹿児島県 七三一頁 昭和六十一年
(13)『大口市の文化財 調査報告第一集』(八四頁・前掲)
(14)『大口市郷土誌(上)』(二四二頁・前掲)
(15)宮崎県総務部県史編さん室所蔵の複写本「正覚寺所蔵文書」を参照した。
(16)『日向地誌』(六八五頁・前掲)
(17)『大口郷土誌 上巻』(三三九頁・前掲)
(18)藤 等影『薩藩と真宗』一七六頁 弘文社 大正五年
(19)星野元貞『薩摩のかくれ門徒』六〇頁 著作社 昭和六十三年
(20)『薩摩のかくれ門徒』(四一頁・前掲)
(21)『薩摩のかくれ門徒』(六〇~六六頁・前掲)
(22)桑畑三則「伊集院忠棟入道幸侃はなぜ殺されたのか」『季刊南 九州文化ー庄内の乱特集号ー』南九州文化研究会 平成元年
(23)山口保明「鎮魂・供養の祭り」『宮崎県史 資料編民俗2』四九九頁 平成四年
(24)『薩摩のかくれ門徒』(四一頁・前掲)
(25)龍谷大学宗教調査班『カヤカベーかくれ念仏ー』法蔵館などを参照。
(26)福永勝美『飯野郷土史(仏教編)』昭和三十年などを参照。

四、伝説の誕生と変容

(1)伝説のモチーフ

 この伝説が歴史的に何時誕生したのかという議論が不可能であることは云うまでもないが、ここで先ず明確にしておきたいことは、伝説がその土地の特定の出来事をそっくりそのまま伝えるのではなく、全国的に広がるモチーフをもとに作られるということである。
 細島婆の伝説の要素を見ていくと次のような語りの構造を持っている。

 新納家の異変→山坊主の占い→【細島婆の祟り】→祈祷→
 →木ノ氏で災い→易者に相談→【細島婆の祟り】→正覚寺への代参

 基本型は「災厄↓霊媒↓【語り】↓祈祷」となり、小松和彦のいう本来、祈祷師による「憑き物の語り」であったものが、物語へと変わってしまうという形が見て取れる(1)。このような構造を持った「悪霊物語」は近世になって実話と結びつくことによって真実性を持ち広がっていったという。「細島婆伝説」も「悪霊物語」のモチーフのもとで語られていったのであろう。
 また、【伝説2】「九郎物語」に見られる呪詛の方法に「逆川」ということばが出てくるが、これも都城地方に伝わる伝説のモチーフと共通するものがある。それは都城地方を元に一門講や観音講などの由来譚として語られる伝説に出てくる「死体逆流」「鮮血逆流」というモチーフである。その伝承は講のかたちで現在でも生き続けている。
  志和池の上水流では、一門中で飛松講ちゅう講を年に一回、回り 番こにしております。(中略)何でも昔、山伏を殺して川に投げ込 んだところ、川が逆に流れたそうです。そして、飛松のばあさんが いくら子を産んでも育たんぢゃったそうで、そいから一門中で講を すいごつなったそうです(2)。
この例は呪詛の方法としてではないが、何らかの関わりがあるのだろうが、その解明には一門講・観音講などの発生を探る必要があろう。また、呪詛の方法としての「逆川」ということばが直接出てくるのは、前述のように「いざなぎ流の祭文」であるが、陰陽道の呪詛の方法と関係があるかは証明は難しいであろう。

(2)二つの伝説の持つ意味

 ここまで現代と近世の伝説の例を紹介し、その時代ごとの社会的背景を伝説との関連で捉えたが、ここでは、この二つの伝説の差異が何を意味するかを考える。 この二つの伝説は、〔現代/近世〕という通次的比較と、〔木ノ氏/新納家〕という共次的比較が可能であり、表を参照し、比較検討し、本稿のまとめとしたい。
 近世期における伝説においては、新納家と木ノ氏の者との共同作業である正覚寺代参のための理由付けという側面が強い。「新納家に七代祟る」といった七代目に当たる時升の時代に、この伝説に基づく供養(法要)などが盛んに行われているのは、禊ぎを済ませるためと捉えられる。そうしたなか真宗禁制も解け、伝説と一向宗との関連を強調する必要もなくなったため、代参を中止することが可能になった。代参を中止したため、正覚寺への土地勘が無くなり、「細島」ということばが強調され、「彦右衛門伝説」から「細島婆伝説」へと変容し現在に至っている。なお、この調査を進める上で、鹿児島の多くの研究者に話を聞いてみたが、細島婆の話は知っていても、正覚寺が浄土真宗の寺であるとは知らないことが多かったが、このことは、さらに正覚寺が真宗寺であることも重要視されなくなったということを意味しているのであろう。
 【伝説1】と【伝説2】の間には、時代の差があるのみならず、木ノ氏集落の伝承と新納家の伝承という伝承母胎の違いがあり、二つの地域でそれぞれの伝説は成長してきた。
 【伝説2】「九郎物語」にみられる伝説の語り手は、新納家の者であり、その物語は代々新納家に伝えられただけではなく、島津本家にも公認の伝説であったのであろう。祟りの範囲は新納家に止まらず、新納家とつながりのある島津家にまで、空間的制限なく祟りが及んだと信じられ、その結果、島津家の菩提寺である福昌寺に船頭等四人の霊が祭られるほどの伝説の力を持つに至った。さらにその伝説の持つ力が禁制であった浄土真宗の寺への代参をも可能とした。逆に言えば、代参を可能とするために「一向宗門徒」による祟り伝説という点が強調されていったとも考えられる。
 はたして、木ノ氏集落の住民が代参をしていた先が、浄土真宗寺であることを知っていたのであろうか。もし知っていれば藩の政策(真宗禁制)との矛盾を産んだであろう。
 船頭殺害の理由の違いは何を意味するのだろうか。【伝説2】では、⑫「家隷共恩を仇にて報し虎狼もしかさる振舞、天地の悪みも受べき事也」として、木ノ氏の者が勝手にやったこという立場をとる。こうした見解が木ノ氏に受け入れられていたはずはなく、この伝説は当時の木ノ氏の人々に伝わっていた伝説とは考えにくくなってくる。祈祷師がその依頼者の因果応報を説くのと反対に、伝説は言い訳や合理化をする。【伝説1】においては、④新納家には経済的余裕もなく、秘密漏洩の恐れもあり、忠増が命じた通りに殺さざるを得なかったという立場をとる。
 【伝説1】は少なくとも明治期にまでしか遡れない伝説と考えてきたが、【伝説2】が「一向宗門徒による代参せざるを得ないほどの祟りを及ぼした」伝説として新納家に語られていたのに対して、近世期においても「木ノ氏の者が殺害した船頭の妻の怨霊」伝説として、【伝説1】は木ノ氏集落に伝えられてきたのかもしれない。

 近世期における伝説においては、新納家と木ノ氏の者との共同作業である正覚寺代参のための理由付けという側面が強い。「新納家に七代祟る」といった七代目に当たる時升の時代に、この伝説に基づく供養(法要)などが盛んに行われているのは、怨霊との関係を終結させるためと捉えられる。そして明治に入り真宗禁制も解け、木ノ氏の人々は真宗寺の門徒となる。そこで伝説と一向宗との関連を強調する必要もなくなったため、代参を中止することが可能になった。「美々津」の正覚寺代参を中止したため土地勘が無くなり、「細島」ということばが強調され、「彦右衛門伝説」から「細島婆伝説」へと変容し現在に至っている。なお、この調査を進める上で、鹿児島の多くの研究者に話を聞いてみたが、細島婆の話は知っていても、正覚寺が浄土真宗の寺であるとは知らないことが多かったが、このことは、さらに正覚
寺が真宗寺であることも重要視されなくなったことを意味していよう。

<註>
(1)小松和彦『悪霊論』二一八~二六四頁 青土社 平成元年
(2)瀬戸山計佐儀『都城盆地物語』一一二頁 三州文化社 昭和六十一年 

五、おわりに

 これまで二つの伝説をそれぞれの時代背景を元に事実関係を整理し、さらにその相違点からそれぞれの伝説の持つ意味を見いだすという二つの作業を行ってきた。本来は二つの分けるべき作業を、短い紙面で行うことに無理があったかに思われるが、この「細島婆伝説」が持つ広がりを理解していただければ、この稿の目的は達せられたのではないかと思う。
 「細島婆伝説」を通して様々な疑問が湧いてきているが、歴史資料の扱いになれていないため、資料の収集・整理に不十分な点が多かった。なかでも民俗研究の上で重要である、伝説と宗教者の関係に、資料不足のため触れられなかったのは残念であるが、今後の課題としたい。
 最後に、大口市での調査に際して御協力いただいた大口市教育委員長の永井利實先生には、その後も史資料の相談にのっていただき、終始御世話になった。また、県史編さん室の若山浩章先生には、古文書の筆耕や史料の扱いについて御教示いただいた。鹿児島大学の下野敏見教授、県立図書館の山口保明先生にはこの稿をまとめるにあたって多くの御助言をいただいた。その他、多くの方々に御世話になったが、ここに感謝の意を表する。

<関連年表>

永禄二年(1559) :忠元が知行地として木ノ氏を希望
慶長五年(1600) :関ヶ原の合戦敗走中、忠増を助けた彦右衛門が殺される
慶長九年(1604) :五月七日、忠増病死
慶長一一(1606) :忠元の家臣四八名、真宗を信仰しない旨を起請する
貞享四年(1687) :五月七日、修善院が祈祷して霊が現れる
天明九年(1789) :久保田可市他、日州美々津正覚寺へ代参
文政三年(1820) :福昌寺にて大施餓鬼の法を修す
天保六年(1835) :この年以降、真宗門徒の弾圧が厳重となる
弘化四年(1847) :大口で二千人の真宗信者が無罪
嘉永二年(1849) :木ノ氏宮田新左衛門、真宗を信仰せることが発覚
嘉永四年(1851) :新納時升「九郎物語」
安政二年(1855) :泉徳寺の船頭両夫婦の位牌を修理
安政二年(1855) :船頭両夫婦と主従の牌を造り替えて建立す
文久二年(1862) :右代参の儀仕来りの通、折節家来どもへ申付差越候事、但代参の節々、末家弥太右衛門方よりも香典銀など差遣わすしきたりに候、
文久三年(1863) :「新納久仰覚書」亥二月
明治二四(1891) :牛尾の山坊主中村亀吉のすすめで木ノ氏墓地に細島婆の供養墓を建てた

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