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楢木範行投稿1 夭折した研究者 楢木範行のこと


 昨年は宮崎県の民俗学界にとって記念の年であった。日本民俗学の創始者、柳田國男が『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を刊行して九〇周年。その舞台となり、民俗学発祥の地として知られる宮崎県東臼杵郡椎葉村の椎葉民俗芸能博物館では、その記念として様々な企画展が行われた。また、地元紙でも柳田國男特集を組むほどであった。

 そうしたなか、えびの市出身で、柳田と交流のあった楢木範行という研究者の遺族の家に、二四通の柳田の書簡が残されていることが分かった。

 楢木範行は、明治三十七年、西諸県郡真幸村(現えびの市)に生まれ、大正十一年、國學院大学高等師範部に入学。この時折口信夫に出会い、民俗学を志すようになる。
 昭和三年、鹿児島県立商船学校(現鹿児島大学水産学部)の教員になり、教職のかたわら民俗学の調査研究を続け、中央の学会や雑誌に宮崎や鹿児島の調査事例を積極的に報告し、地域における民俗研究のあり方を模索していた(『みやざき民俗』五三号参照)。その答えが昭和十二年に刊行された『日向馬関田の伝承』(大空社により復刻)である。

 書簡は、昭和十年二月十二日から始まっているが、東京在住の頃から交流があったと思われる。
 昭和十三年四月一日、真幸村に帰省中、脳溢血が原因で満三三歳十か月の若さで亡くなる。
 この報告を受けた柳田の狼狽ぶりは、残された書簡からも読み取れる。

 「突然の御報にて今なほ真偽をうたがふばかりに候、どふいう御様子にや、更ニ野間君などよりの通信も有之べく哉とまちをり候も、只此まヽにても居られず、一応御見まひ申上候、最終ニ御目にかヽってから一年になり候も近頃も御通信をたまはり、殆どこの様な出来ごとがあらうとは夢にも考へられず茫然といたし候、さりともまちがひとも考へられず、如何に皆様御動顛且ツ御悲傷被成候ことかと深く御察し申上候、野田氏の御名も知らず電報もさし上げかね、もどかしく候へ共、書中御様子うかかひ申上候。」
(昭和十三年四月三日)

 柳田は、その後も遺族の相談などに応じ、昭和三十二年一月まで連絡をとり続けている。これらの書簡は、現在刊行中の『柳田國男全集』(筑摩書房)に掲載予定である。

 この他、大間知篤三や最上孝敬といった民俗学者の書簡も残されているが、これらからうかがわれることは、当時の中央の研究者と地方の研究者の親密な交流である。当時、柳田は、『郷土研究』や『旅と伝説』などの雑誌を通して、民俗学の輪を全国的に広げようとした。鹿児島の基点は鹿児島民俗研究会であり、楢木との交流もこの会の発足によって深まることとなった。

 鹿児島民俗研究会は、昭和十一年、野間吉夫や宮武省三らとともに発足した。昭和十二年四月、機関誌『はやと』を創刊。

 柳田は「鹿児島県と民俗研究」と題した文を寄せている。

「鹿児島県は日本に於ける民俗研究の為に、極めて重要な地域であって、我々は深い興味と関心とを抱いている。」

「今日旧来の民間伝承の多くが急速に消え失せつつある時、
鹿児島県の民俗研究の一日も早く進捗することを望むのは、
独り我々のみではない。」

 楢木は、初期の会員の中でも唯一民俗学を学んだ者であり、それだけに期待が大きかった。

 野間は、当時、鹿児島朝日新聞の記者で、以後、福岡の新聞社に勤務。多くの著書の中でも、昭和四十五年刊行の『椎葉の山民』では、三人の先輩として、柳田國男・早川孝太郎・楢木範行の名をあげている。

 宮武は、研究会の最古老で、南方熊楠とも懇意の博覧強記。大阪商船会社鹿児島支店長をはじめ九州を歴任し、『九州路の祭儀と民俗』(昭和十八年)を刊行。

 『はやと』は、昭和十三年四月、『はやひと』と改題し、第二巻第一号が再開されたが、これが楢木の追悼号となった。鹿児島民俗研究会は、楢木が亡くなり、宮武・野間が相次ぎ鹿児島を離れたため、わずか三号で廃刊した。

 昭和二十五年一月、鹿児島民俗学会が組織され、その後の、全国にも稀に見る盛んな学会として日本民俗学会をリードすることとなる。

 民俗学混迷の時代と言われる現代。最も庶民に身近な学問であるはずの民俗学が力を失いつつある原因がどこにあるのか。学問が専門化するにつれ、中央と地方の研究者、あるいは大学と在野の研究者の間の親密な関係が失われてきたことがあげられるのではないか。

そうした意味で、柳田と楢木の親密な関係をうかがうことのできるこれらの書簡からは、民俗学の設立が最も熱望されていた時代を彷彿とさせ、今後の民俗学が得るものは多いであろう。

『毎日新聞』2000.1.21原稿

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