イヌだからって舐めんなよ
我が家にはラブラドール・レトリーバーがいる。
ラブラドールと聞くと大抵の人は盲導犬の大人しいお利口ぶりを思い浮かべるかもしれない。
中にはそういうお利口さんもいる。
ラブラドールにはガイド系と言われる大きくておっとりしたタイプと、フィールド系と言われる小柄で運動能力が高く端的に言えばヤンチャでハイパーなタイプがいる。
うちはどちらかと後者で、小さい頃はヤンチャな破壊魔で悪戦苦闘した。
1番悩まされたのは噛み癖で、特に私の腕が好物だった。
覚悟の上で迎えたものの腕を前足で押さえながら堂々とガブガブ甘噛みをする愛犬を見ていると、可愛いという気持ちが少々薄れるものだ。何しろ甘噛みと言ってもそれなりに痛い。
一方ヤツは上目遣いでこちらの様子を伺っていた。
どこまで許されるのか?
これくらい噛んでても良い?
あまりの痛さに私も鬼の形相で怒る。
女性は声が高いから叱られたと分からないと言うのを聞いたので、とても人様に聞かせられないような、ドスの効いた声で。
こちとら怒ってんだぞー‼︎
それを解らせなければ。
ところが愛犬は叱られたのが悔しいのか、よりいっそう強く咬んでくる。それどころか終いには噛み逃げする始末。
手をグーにして口の中に入れると甘噛みしなくなると聞いてやってみたけれどこれも逆効果。
舐められてるんじゃない?と言われ、これは普段から厳しく上下関係を教えなくては…なんて思った時期もあった。
そんな時期に愛犬と散歩をしていた時の話である。
愛犬はいつものように歩道の植込みが気になってすぐに顔を突っ込む。
私は上下関係を教えなくてはといきり立っていたのでその都度ダメ!と叱る。
すると道の向こうから年配の女性が歩いて来るのが見えた。この辺りではあまり見かけない、シックな装いの上品そうなオバ様である。
あぁこれは躾の行き届いてないダメ犬とダメ飼い主に見られる…
大型犬なだけに凶暴な犬に見られるかもしれない。
焦りまくりの私と格闘する愛犬を見た女性は優しい笑顔で言った。
可愛い子ね
話を聞くと以前ラブラドールを飼っていたそうで、懐かしそうにうちの愛犬の鼻先に手の甲をあてて匂いを嗅がせながら言った。
この子は良い子になるわ。
そうね、あと2年辛抱なさい。
そしてこう続けた。
決して怒っちゃダメよ。
叱るのは良いの。
でも怒っちゃダメ。
胸にズンと来た。
確かに叱るのと怒るのは違う。
そしてその頃の私は怒ってばかりの毎日だった。
叱るのは躾のため。
だが怒るのは感情任せで、自分の思い通りにならないからだ。
自分の未熟さゆえである。
ほんのちょっとすれ違っただけの人なのに、すごく見抜かれたような気がした。
その日から愛犬が甘噛みをしても怒るのをやめた。
そして代わりにガリガリ噛める鹿のツノでできたオモチャを手に持って、気の済むまで噛ませてあげることにした。
たまに腕の方まで噛んで来ることがあったけれど、その都度辛抱強くツノに口を誘導する。ヨシヨシと体を撫でながら。
そんな風にして30分近くツノをガリガリしていると眠くなるのか、そのまま20キロの身体で私に覆いかぶさるようにして眠りにつくのが日課になった。
しばらくの間はそれが毎晩繰り返された。
ツノは私が持たないと噛まない。私の腕の延長だと思っていたのかもしれない。
やがては私の手に歯が当たるとゴメンとばかりに舐めるようになり甘噛みの加減を覚えていった。
幼い犬にとって何かをする手段はいつも口である。知らないものは噛んで確かめる。用があれば袖口を噛んで引っ張る。
眠りに着く前に儀式のようにツノを噛む愛犬は、ただ私に甘えたかっただけなのかもしれない。
そんな風に考えるとガリガリ噛む音が「ママ大好き」と言ってるように聞こえなくもない。
親バカが過ぎるか(笑)
あの女性に会ってから3年が過ぎた。
その後会うことは無かったが、今ではすっかり落ち着いた良いイヌになっている。
怒らずに叱る。
難しいなと思うこともあるけれど、イヌは飼い主を良く見ている。
教えようとしている声と闇雲に怒鳴る声を区別して聞いている。そして理解しようと考えている。
舐められていたのはイヌの方か。
怒ると余計に噛んだのは舐めんなよと言うことだったのかもしれない。
いや、これも人間の勝手な思い込みだが。