『わたしの名は赤』オルハン・パムクを読んで。エンターテイメント満載の中に多様で深いテーマを盛り込む、極上の長編小説。なんだけど、知らないことが多すぎるのを、どう楽しむか。
『わたしの名は赤』〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫) (日本語) 新書 – 2012/1/25
オルハン パムク (著), Orhan Pamuk (原著), 宮下 遼 (翻訳)
Amazon内容紹介
「内容(「BOOK」データベースより)
1591年冬。オスマン帝国の首都イスタンブルで、細密画師が殺された。その死をもたらしたのは、皇帝の命により秘密裡に製作されている装飾写本なのか…?同じころ、カラは12年ぶりにイスタンブルへ帰ってきた。彼は件の装飾写本の作業を監督する叔父の手助けをするうちに、寡婦である美貌の従妹シェキュレへの恋心を募らせていく―東西の文明が交錯する大都市を舞台にくりひろげられる、ノーベル文学賞作家の代表作。国際IMPACダブリン文学賞(アイルランド)、最優秀海外文学賞(フランス)、グリンザーネ・カヴール賞(イタリア)受賞。」
ここから僕の感想
エンターテイメント満載の中、多様で深いテーマを盛り込む、極上の長編小説。なんだけど、知らないことが多すぎるのを、どう楽しむか。
僕の、外国小説の読み方、邪道のようで、正しいと思うので、まず、その話から。
なぜ、日本の小説のように、外国の小説をスラスラすいすい読めないか、というと、小説で特にこまかく説明されていない地名とか歴史上の有名人とか、そういうものを言われても、知らないし、何も思い浮かばないから。たいていの小説は、読者がある程度の、その時代やその土地についてのイメージを持っていることを前提に、書かれている。
日本の小説で、例えば、「銀座の三越の前を」とか、「江の島の海水浴場を」とか言われたら、だいたい、地方の人で行ったことは無くても、テレビで見たことはある、なんとなく頭に浮かぶ。
「織田信長が、千利休に腹を立て」も、「西郷隆盛が死に場所を求めて」とか言われれば、ああ、あの時代の、そのことか、と、人物像含め、思い浮かぶ。
別に、日本の固有名詞だけじゃなく、例えば、「ルノアールの描く裸婦のように肉付きの良い女性」と言われれば、たいていの人は、頭に思いうかでしょ。
トルコの、イスタンブールの、オスマントルコ時代16世紀末を舞台にした小説、と言われて、「ああ、あの時代の、あんな雰囲気の町で、こんなだったよね」と思い浮かぶ人は、ほとんどいないでしょう。細密画の絵師たちの間の、と言われて、「ああ、ああいう絵のことだな」と思い浮かぶ人は、相当の美術マニアだけだと思う。
そういうことは、小説を読んでいけば、なんとか、おぼろげに分かってくるが、頻繁に言及される伝説の細密画士ベフザートの書いた「シーリーンとホスロー」の恋のかけひきを描いた絵、と言われても、全然、わからない。
ので、まずは、その絵を、ベフザートの細密画、というやつをGoogleで探して、見てしまう。それから、イスタンブールの観光案内YouTube画像で、市内の名所を、ぐるっと見てしまう。オスマントルコのざっくり歴史も、Wikipediaでざらっと読んでしまう。
こういう都市で、こういう絵を描いていた人の話なんだ。初めの何章か読んだところで、こういうことをやってしまいます。そうすると、なーるほど、そういう世界だから、こういうことが大問題で、ドラマが展開するんだ、ということが納得できます。
今回、いちばん有意義だったのが、観光案内で、モスクの中の華麗な装飾を見た時。
イスタンブールは、東ローマ帝国のコンスタンチノーブルだったから、正教のキリスト教教会もあり、その中、天井や壁面には、一面に、絵画が書かれています。日本人にもおなじみの、キリストだったり天使だったりマリア様だったり、そういう絵がいっぱい。
でも、モスクの中には、絵が全くない。人物を書いた絵が全くない。文様の装飾と、あとは、コーランの文章を、見事に書き上げた「書」が、一面を飾っている。
そう、イスラム教の偶像崇拝禁止、というのはものすごく厳しいもので、人物を描いた絵を壁に掲げるというのは、厳しく禁じられている。ものすごく厳格なものなのだ、ということが、観光案内YouTubeを見て、すごくよく分かった。
だから、イスラム世界の細密画というのも、あくまでも、神話や皇帝をたたえる本の、物語の本の挿絵としてしか、描いてはいけないもの。
もうひとつ、ものすごく大事なこととして、イスラム世界は『下降史観』だということ。これは、中田考先生の本とか、飯山陽の本なんかを読んで、理解しておかないと、あまりに、西欧近代にどっぷり浸かった僕らには、そうとうにわからない感覚。
どういうことかというと、ムハンマドがいた時代が、人類のピークで、その後、人類はどんどん愚かになっていく、ということ。
絵画においても、先人の描いた傑作をそのままうけついで描くことが正しく、自分の個性とか新しい試みとかは、一切してはいけないということ。署名することも、当然ダメなわけ。
そして、絵画とは、現実を写実的に描くのではなく、神が見たこの世界をそのまま映し出すことを理想とすること。ということで、神の視点からすべてを描くので、特徴がふたつある。 一つ目は、こういう用語では説明されていないけれど、「馬は、神の見るイデアとしての馬をそのまま描くのが理想」であって、一頭一頭の違いを描かないこと。人物も一緒。一人一人の個性を描くことは無い。
二つ目は、神の目からはすべてが等距離にこまかく見ることが出来るから、遠近法がない。ひとつの絵の中で、あらゆる部分のものは同じ大きさで同じ細密さで描かれる。
まとめます。①画家の個性を出してはいけない。②写実的に書いてはいけない。③遠近法を用いてはいけない。それらをすることは、すべて神への冒涜と見なされる。
この小説、16世紀末のオスマントルコの皇帝が、同時期のヴェネチアの、ルネッサンスの絵画に興味をもって、その技法を使った装飾写本を作らせようとしたことに端を発する、殺人事件をめぐるミステリー小説なのである。ルネサンスのヴェネチアの画法と言えば、写実的な肖像画だし、それを壁にかけまくるし、遠近法バリバリなので、神への冒涜性満載。だから、殺人事件だって起きるわけである。
この作家の小説を三作続けて読んだのだが、ノーベル賞作家ではあるのだが、どれも基本、ミステリー・サスペンス小説なのである。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』『フーコーの振り子』のような、本格ミステリーなのだが、歴史や宗教や科学や、そういうことをめぐる非常に深い教養や議論を盛り込んだ小説。そのトルコ版、イスラム版、といえば、だいたいあっているような感じがする。
というわけで犯人捜しミステリーなので、これ以上、中身には踏み込まないが、映画化したら、アクションあり、ラブシーン、というか大胆な濡れ場から、同性愛のいろいろ、ジャニーズみたいな「老師と若い絵師」のなんちゃら、とか、イスタンブールの観光案内的魅力もあり。一大娯楽大作になること間違いなし、という内容なのである。
もうひとつ、西欧とイスラム社会の違いは、女性の地位。現代でも大いに問題になっている。女性は未婚のうちは父親に従属し、結婚した後は夫に従属する。
「濡れ場」と書いたけれど、この小説の、絵画をめぐるのと並行して語られる、男女関係。ヒロインは、幼い二人の子供を抱えたまま、兵士である夫が出征して、生死不明。なので、はじめは夫の家にい続けたが、義理の弟に言い寄られ、逃げ出して、父親の家に戻っている、という宙ぶらりん状態。
夫の死亡が証明されれば、父親の家に戻るのは合法だし、再婚もできるのだが、今は、厳密にいうと違法状態だし、再婚もできない。
主人公は、この女性を思い続けて放浪した後、イスタンブールに戻って、宙ぶらりん状態の彼女と再会するわけだ。イスラム社会の女性は自立していない、かというと、こういう社会的制約の中で、ヒロインは、いろいろと考えて、幸せを追求していく。その姿、生き方もなかなか、「フェミニズム文学批評」的にも、興味深い題材だったりするのである。
と、ここまで書くと、すごく面白そう、と思うでしょうが、冒頭に書いた通り、知らないことを知らないまんま、小説の中だけの情報で読もうとすると、イメージできない固有名詞、知らない神話、知らない絵画、知らない宗教、知らない習俗が多すぎて、結構、苦戦するのである。
ということで、どうやってこの小説に向かうと、この小説の楽しさを、最大限、引き出せるか、ということで、冒頭に述べたような、「邪道なようで正しい」、Google先生やグーグルアースやYouTubeやWikipediaを活用しまくって、どんな世界のどんな都市で、どんな絵をめぐって物語が展開するのかを、調べながら読むのが良いと思います。
わたしが見た、動画と絵画
YouTube【トルコ大紀行】エピソード1 ~オスマン帝国の記憶~