『ガラスの街』ポール オースター (著), 柴田 元幸 (翻訳) いろいろ事情があって読んでみた。出世作らしく、やりたいことてんこ盛りで途中で破裂、みたいな小説でした。ポストモダン思想、文学の時代だったとはいえ、それはあんまり。
『ガラスの街』 (新潮文庫) 文庫 – 2013/8/28
ポール オースター (著), Paul Auster (原名), 柴田 元幸 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
この前、すごい老人になって記憶も定かでなくなったポール・オースター本人が若いときに書いた自分の小説の登場人物たちに監禁される、という小説『書字室の旅』を、若い時書いた小説代表作というのを全然読んでいないのに、間違って読んでしまった。ので、ちょっとあの登場人物たち、どんな小説にどんな人として出て来たのか知りたくなって、まずは出世作実質的デビュー作というこの『ガラスの街』を読んでみたわけだ。
そしたらね、まあいろいろ出て来てなるほどとなったのだが、作中に主人公でも語り手としてでもなくポール・オースターという人物が出て来て、まあいろいろひねくりまわしてあるのだな。
自伝的要素と「小説を書く」ということと「言葉の発生」みたいなことについての思索を、とりあえずスタートラインは探偵小説的枠組みで書きはじめた話の転がりにつれて展開していくのだな。
僕はこれでポール・オースター三冊,四小説目なのだがどうもこの作家、初めのある程度の目論見からお話をスタートさせた後、主人公が勝手に行動しだすのを良しとするタイプで、初めの目論見を途中でなんか中途半端に放棄したり、それについてはここまででおしまい、みたいにした後で、そこまでのことから飛躍したり、それまで語ってきたことの中でそんなに中心じゃなさそうだったことに重心が移って、かなりとっちらかった小説の終わりに向けて、わしゃわしゃわしゃと進んでいっておしまい、みたいな小説の書き方をする人のようだな。この出世作から老人60歳を過ぎて書いた小説まで、そうだもんな。いちおう伏線が回収されつつ着地ということも意識しているのは分かるのだが、「そこが破綻してジャンプしてもうひともがきしてこそ小説」みたいな感じである。
訳者あとがきで柴田元幸氏はこう書く
なんだが、僕は出版を断った十七社の編集者のほうに共感してしまうな。作中登場人物のポール・オースター氏は小説家ではなく、『ドン・キホーテ』の評論を書いているのだが、そのおよその内容を、主人公、こちらは小説家のクインに語って聞かせるの。この『ドン・キホーテ』論と、この小説自体が入れ子構造みたいになっている。とか、そういう「思いつきとして面白そうな知的仕掛け」が、いろいろとたくさん入っているのだが、デビュー作出世作によくあるように、そういう「こういうこともこういうこともこういうことも書きたい、自分の中にはあるのだ」ということが、あまりにたくさん詰め込まれていて、結局、破綻と言うより、詰め込み過ぎて破裂してしまった小説になっている。その破裂具合が面白い、と思った唯一の出版社、編集者がサン&ムーン・プレスだったんだろうな。普通の編集者は「破裂しちゃっているよ、もうすこし整理しなさい」って言いたくなると思う。
というわけで、ポール・オースターが世界的大作家になり、もう死んじゃった後でそのデビュー作として読めば、いろいろ、それこそあと知恵で「なるほど」と思うこともできるのだが、これ、リアルタイムに1985年に、僕はその年というのは大学出て社会人になりたてなわけで、あのバブル経済がスタートし、ポストモダンブームばりばりのあの時代に読んだら、「いやいくらポストモダン思想の時代のポストモダン文学だといっても、破裂しすぎだろ」と思っておしまいだったかもしれないなあ。でもまああの時代、ニューヨークへの憧れっていうのは今よりすごくあったから、この小説の主人公や謎の人物がニューヨークをぐるぐる歩き回った、その道筋をたどってみたいとは思ったかもしれないけれど。
初期ニューヨーク三部作というのは読んでみようと、『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』も買っちゃったのだが、とりあえず、積んでおこう。
何十年ぶりにFacebookで再会した高校の陸上部同級生が、『偶然の音楽』『幻影の書』の二冊は面白いと勧めてくれたのだが、そっちにしようかな。