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昨日の続き 『こころ』と『ノルウェイの森』(と「Tomorrow never knows」)。日本人の純文学観を登場人物年齢から考える。〈36,37歳と20,22歳問題 パート2〉

『こころ』と『ノルウェイの森』の話なのに、タイトルに「Tomorrow never knows」(ミスター・チルドレン)が入っているのは何でだ。というと。

「Tomorrow never knows」は、いまだミスターチルドレン最大のシングルCD売り上げ、最大のヒット曲。1994年、木村拓哉、萩原聖人、鈴木杏樹らヤングスターの群像劇、フジテレビのドラマ「若者のすべて」の主題歌であった。木村拓哉は主役じゃないんだよ。まだそういうポジションだったのだ。

「無邪気に人を裏切れるほど
何もかもを欲しがっていた
分かり合えた友の愛した人でさえも
償うことさえ 出来ずに ただ痛みを抱き」
(作詞作曲 桜井和寿)

 という若さの中で、人を傷つけても 親友の恋人であっても奪ってしまい、その痛みを抱いて生き続けること。というのって、まあ『こころ』の先生の悩み、そのまんまじゃん、というのは、まあ、すぐわかる。

このこと、この設定、その悩み、分かり合えた友の、愛する人を、若気の至りで奪ってしまい、その末に、誰かが、悩んで、死んでしまうこと。

 どうも、これが小説でも、歌であっても、「最大のヒット」というのに結びつきやすいらしい、ということなのだな。日本人、それ大好物なのだな。

 『ノルウェイの森』は、親友キズキが生きている間は、「僕」は、別に直子のことを好きとか、どうこうしようとか思っていないから、ちょっと違うじゃないか、とも思うが。

 しかし、この三作に共通しているのは、自分が加害者である、加害者になってしまったという設定なのだな。恋人を奪われた悩みではなく、自分が傷つけられたという悩みではなく、自分が決定的に人を傷つけてしまったということへの悔恨。

 村上春樹の小説で、この「主人公が加害者」設定と言うのは、実は非常に珍しいことなのだよね。村上春樹小説の構造と主人公について、以前分析したnoteから引用する。(村上春樹『納屋を焼く』原作の「バーニング」(イ・チャンドン監督 2018年)と、三島由紀夫『金閣寺』原作「炎上」(市川崑監督1958年)を、続けて観た。そして考えたこと。いろいろと。①『納屋を焼く』と「バーニング」について。)

 ①主人公は自分の生活の細部をきちんとすることで、社会から距離を置きながら、自分を守って生きている青年。②ひょんなことから知り合った女性と性的関係も持つ。(そこには何の障壁もないかのように、性的関係には行きつくのも、村上春樹小説の特徴。)が、③その女性が不意に姿を消す。それを主人公が追いかける。④女性の失踪には、謎の、経済的、政治的、文化的に力を持った、第三の人物の関与が暗示される。⑤そして、井戸の底とか、パラレルワールドとか異界とか、何か非現実的な世界での対決があり、暴力もそうした非現実世界でのみ、ふるわれることになる⑥女性は戻らないが、その結末を主人公は静かに受け入れる。





そう、村上春樹小説の主人公は、人と関りを持たないように注意して生きているわりに、親切な善人として感じられるように描かれている。愛や激情や執着や嫉妬、というものを表面には出さず、むしろ、善良さや親切さゆえに、急に消えた女性を探しに行くことになるような印象を、読者に与えるのである。しかし、冷静に考えてみれば、人を探しまわるという行為は、大変な時間と労力を使い、仕事やその他日常を放棄せざるを得ないようなことである。映画にして、映像にして、主人公の行為を描写すれば、それは、そうした必死さ、ことの重大さから、それが「親切心」などではない、「愛や執着」に基づくものであることが、露わになってしまうのである。





 この、映画「バーニング」についてのnoteでも書いたけれど、村上春樹の小説には、「女性を性的に傷つけてしまう、政治的・社会的な強者である悪役」というのが出てくることが多い。『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルなんかが典型だけれど。主人公の大切な女性が、そうした悪役によって傷つけられて失踪する。あるいは失踪したのを追いかけていると、そういう悪い奴がいるということがわかってくる。

 『ノルウェイの森』に出てくる東大を出て外交官になる、素敵な恋人がいるのに女漁りをし続ける先輩・永沢が、その類型人物。その素敵な恋人ハツミさんは結局、その後、自殺することになる。

 『ノルウェイの森』以外の小説では、そうした「政治的権力志向・政治的暴力と女性への性的な支配」という、悪を煮詰めたような存在は「敵」であって、主人公は「善」の側に立って、異世界で対峙する、というのがクライマックスになるのだが。通常は。

 しかし、『ノルウェイの森』では、主人公「僕」が、性的な行為で、傷つけるつもりはなくても、直子を決定的に壊してしまう。加害者なのである。

 親友キズキの自殺の原因は分からない。主人公にも、恋人だった直子にもわからない。しかし、直子とキズキには、セックスしようと思っても直子が性的に反応しない、濡れない、痛い、ために出来ない、という悩みはあった。そうであっても二人はものすごく仲が良かったし、別に悩んでいる風には、僕には思えなかった。キズキが唐突に自殺した後も、そのことだけが原因だとは誰も考えなかっただろうが、直子はそのことも原因のひとつかと気にしていて当然だ。

 そんな直子が、「僕」と東京で再会した後の、直子の誕生日、「僕」とのセックスでは、ものすごく感じてしまう。そのことを、直子は受け入れられない。

 これは、大人になってしまえば、性的体験を様々に積めば、「まあ、そういうことはある」で済んだとしても、恋人の、親友の自殺という事実の後に、そのような事態が起きれば、そして20歳の若さであれば、そのことを受け入れるのは難しい。

 セックスで、女性の精神を、決定的に壊してしまうという「悪」。村上春樹は、他の小説ではその存在を「敵」として描いているが、『ノルウェイの森』でだけ、その「悪」の立場に、主人公「僕」がいることを告白しているのである。

 前回、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』が、『ノルウェイの森』の直接的後日譚である、と書いたのは、あの小説はまさに、学生時代にそのような形で、性的に女性を傷つけたと周囲に思われ、急に友人を無くした多崎つくるが、その青春の「加害者としての傷」から回復して人生を取り戻す話だから。なのだが、なんというか中途半端なのは「自分が性的に女性を壊してしまったという加害者だというのは、誤解だ、身に覚えがない」という自己弁護小説になってしまっているから、なのだな。という感想文はかつて書いたことがある。
 (以下のリンクのブログで、かつて感想を書いているので、よろしければ。下線部クリックすると飛びます。Oさんへの返信 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を巡って ネタバレ注意)

 『ノルウェイの森』の主人公「僕」は、表面的に読むと、いつもの村上春樹の主人公同様、何の悪気もない、善意の人のように読める。誕生日に直子とセックスするのも自然な成り行きだし、それで直子が激しく感じてしまうのは、それは直子の側の事情反応であって、「僕に」は責任が無い、ように読める。しかし、結果として、直子は、直子の精神は、決定的に壊れてしまうのである。

 話がすこし飛ぶが、トラン・アン・ユン監督の映画『ノルウェイの森』の、僕(松山ケンイチ)と直子(菊地凛子)のセックスシーンは、えらく評判が悪い。のは、小説を読むと、ものすごく淡々とした、清潔なものに思えるのに、映画では、とても生々しいからなのだ。「菊地凛子の喘ぎ声が生々しすぎて気持ち悪い」という女性村上春樹ファンからの苦情がかなり多く寄せられたのである。でも、起きたことをきちんと小説から読み取るならば、直子は、いまだかつてなく、初めから激しく欲情してしまって、そうなる前から激しく濡れてしまっていて、キズキとはけしてそうならなかったくらい激しく感じてしまって、ということが起きているのだから、あの描写で正しいのである。小説で起きた事実を正確に読み取るならば、あの描写で全く正しいのに、多くの読者が、小説を読んでいるときには、あのときのセックスを、そのように生々しいものとして読んでいなかった、なにか清潔な、かわいらしい、淡々としたセックスを想像していた。というのが、村上春樹小説の、ずるいところ、売れる原因、しかしなんというか、ある種、詐欺的なところなのである。

 本当はすごく性的な話なのに、性的なことがたくさん書かれているのに、そのことを生々しく感じさせない。それをしている主人公「僕」も、性欲ぎらぎらした男性とは感じられない。すべてが淡々と清潔に行われている感じがする。小説を読んでいる限りでは。

 しかし、映画にして、生身の人間が演じてしまうと、あの映画でも、小説に忠実に、松山ケンイチ演じる「僕」は、やたらとセックスをしているのである。いろんな女性と。それを映像でみせられると、「おいおい、こいつは、本当にいいやつなのか」と思えてくる。というか、大学生の、20歳ちょっとくらいのころというのは、それくらい「何もかもを欲しがっていた。分かり合えた友の愛した人でさえも」であり、かつ「恋人が自殺して性的なことで悩みを抱えていたに違いない女性に対して、欲望成り行きにまかせて、普通にセックスしてしまった」という、若気の至り、その若さ、その年齢だと、仕方ないよね、ということが、映画だと、伝わってきてしまうのである。

 とここまで縷々述べてきたように、『ノルウェイの森』の、村上春樹作品の中の特殊性というのは、単に自伝的、私小説的な感じが村上春樹作品の中でも特に強い、というだけでなく、「主人公が悪の側、加害者側」に設定されている、例外的な作品だということなのだ。そうは感じさせないように書いているけれど。

 これと比較すると、『こころ』の先生は、遺書で、いかに自分が利己的であったか、そのことでKを自殺に追い込んでしまったかが告白されている。その点では誠実である。一方、『こころ』を現代人が読むと異常に感じるのは、静=先生とKが取り合った、今の先生の奥さんが、何を考えていたのか、どう感じたのか、そこのところがほとんど描かれていない点にある。女性の心理について、ほとんど何も語られていない。というか、理解したり尊重したりしようという気が無いように見える。こうした事情を静は理解できない存在として描かれているし、「私」にも、妻には伝えるなと念を押しているのだ。

 静を主人公にしたら、あの小説はどんなことになるのだろう。Kが自分のことを愛していたこと、Kの自殺が、自分をめぐる二人のやりとり関係が原因であることを静はわかっていたのか。先生が結婚後も悩み続けているのは、そのことであると分かっていたのか。

 そういう静を残して、勝手に自殺しちゃう先生と言うのは、あまりに無責任じゃないのか。自分とKとの間の「罪の意識」なんていうのにかまけて、静さんを幸せにするという責任のことをほとんど考えていないのは、これはどうしたことだろう。

 ここで、話はあらぬ方にスライスしていくのだが。先生が自殺したとき、静さんは30歳。主人公「私」は24歳。これ、十分に、アリな年齢差だと思うのだが。つまり、先生は、私に「静をよろしく」と「私」にお願いしたのではないか。というか、私が静のことを好きであること。静も私のことを憎からず思っていること。そのことが分かったので、先生は、Kへの償いに自殺することを選べたのではないか。

 「先生と静さん」を、50絡みの老夫婦、と思い込んで読んでいた時には、全く思わなかったことなのだが、これは、本当にそうのではないか。

 またまた話は思いもしないところに飛ぶのであるが、『坊ちゃん』における「清」、東京での、お手伝いさんの「清」というのは、何歳だと思って読んでいた?

 みんな、ある種「ばあや」的に思って読んでいたと思う。50代後半とか、そんな感じ。

 しかしあれ、清さんが14、5歳で坊ちゃんが生まれた頃に住み込み女中さんになったとすると、年齢差はそれくらい。大学を出て先生になった坊ちゃんが22歳とすると、清さんは36,7歳。そう、全然、ありの年齢なのだ。また出てきた、36歳と22歳。

 『坊ちゃん』の主題は何か。という問いに対して、たいていの文学者は「坊ちゃんの、清への愛」と答える。これ、乳母的に育ててくれた老婆への、若い男性の、まさに「清い愛」という風に、みんなイメージするのだけれど。

 でも、松山で大暴れした坊ちゃんは、東京に戻って「清と世帯を持とう」というのが、小説の終わりなのだ。そして清の希望は「坊ちゃんと同じお墓に入れてください」なのだ。これ、青年と老婆の、坊ちゃんと老女中さんの、不思議な関係としか、昔、読んだときは思わなかったのだけれど。

 今、自分が60歳近くになって、「36、7歳の女性なんて、若い、現役バリバリ、むしろ女ざかり、人によっては、生物学的には女性性欲的ここからピーク」みたいなことを思うようになってから『坊ちゃん』を読むと、なんか、全然違う景色が見えてくる。

 坊ちゃんというのは、若い女性に対して、あんまり興味がない。松山でも、マドンナをめぐる他人の三角関係に義憤を感じるだけで、坊ちゃんはマドンナに別に恋をしたりしない。

 このことと、『こころ』の、私と静さんの年の差を考えると、どうも、夏目漱石と言う人は、「22歳の大学出るか出ないかの年齢の男性にとって、同年代や年下の女性と言うのは、なんとなく面倒でたいして魅力的ではなく、むしろ30代の女性の方が魅力的に見える」という、そういう人だったのではないかと思われてくる。

 そういえば、『三四郎』では、主人公は、上京途中の宿屋で同部屋に泊まることになった人妻に、手を出さずにどきどきして夜を明かし、翌朝人妻に「意気地なし」みたいなことを言われてびっくりする、という話から始まるんだよな。

 ということからして、夏目漱石にとっての「36歳22歳」問題と言うのは、そういう性的距離感の、もっとも魅惑される年齢差問題だった、という発見も、こうして考えてくると出てきちゃうのである。

 そういう認識が根底にあるから、先生は、「静をよろしく」と思えたからこそ、自殺をしたのではないかと思うのだよな。

話はまた、『ノルウェイの森』に戻る。

 『ノルウェイの森』でも、僕は、緑のところに戻る前に、直子の自殺の後、年上の、謎の女性レイコさん(直子とサナトリウムで同性愛的関係にあったと思われる)とセックスをするわけだ。レイコさんの年齢は、明らかに30代後半なのだな。

 22歳の「僕」、「私」は、『こころ』でも『ノルウェイの森』でも、30代の、年上の女性と、改めて、新しい三角関係を築くことで、その先の人生を生きていくことになるのである。人生の誠実な悩みに対して、性欲が、それとは無関係に駆動してしまって、周囲の女性も親友も傷つけてしまう、そういう22歳の男子が、30代女性に、精神的にも性的にも受容されることで、なんとか社会と折り合いをつけていく。『こころ』も『ノルウェイの森』も、実は『坊ちゃん』までもが、そんな、男性のファンタジーのような小説だった、ということがこうして分析してみると、見えてくるのである。

 さて、このような、なんというか、未熟な青春の物語が、日本文学・最大のヒットなのである。

 人生の後半を描かない村上春樹。同年代、年下の女性と全く心を通わせられない夏目漱石。そういう、モラトリアムな若者を主人公にして、人生を振り返るとしても、36、7歳という「人生の折り返し地点」から、青春の過ちを振り返るばかり。

 ノーベル賞を受賞する小説家の多くが、人生のまるごと、世界のまるごとを、その過酷な状況の中で小説にしようとしていることから見て、村上春樹がなかなかその賞に手が届かないのは、やむを得ないかなあ、という気がしてくるのである。もちろん、村上春樹小説も、様々な形で、日本の政治的社会的状況の中に生きる人間を、先の大戦だったり、学生運動、その後の悲惨な展開だったり、オウム真理教事件だったり、そういう状況と、そこから距離を取ろうとしても、避けきれずに巻き込まれていく人間を、様々に描いてはいる。あるいは、、現実世界では、そういう政治的暴力と直接対峙゛するのはむずかしく、対決しようとすると「井戸の底」のような、異世界を舞台にしないと正義の暴力をふるえない。そういう日本の奇妙な現実というのが、描かれる。(平和憲法のもとで政治的暴力を正義の側で振るおうとすると、異世界ファンタジーにするしかないのである。)

 政治的暴力が奇妙な親切さで日常を包み込んでくる。政治的対立や圧力、人種差別の暴力が日常の中に直接狂暴な形で介入してくることが諸外国と比較してすごく少ない。それは村上春樹のせいではなく、日本と言う社会がそういう社会だからなのだ。じんわりと、いつのまにか政治的暴力が日常に満ちてくる。そういう不安については、村上春樹は、とても上手に表現していると思う。しかし、それは世界標準で言うと、わかりにくい、ゆるいぬるいものに見えると思う。村上春樹の、ノーベル賞もらえない問題と言うのは、多くはそのせいだと思う。

  話を戻そう。「純文学と言うのは、青春という病に悩むという、若さの特権のようなもの」というのが、日本社会の中の純文学の位置づけなのだよなあ、ということを、この「37歳 22歳」問題を考えると、思ってしまうのである。

 人生も折り返し点を過ぎたら、そういう純文学から、ほとんどの人は卒業するものだと、多くの人が考える。小説を読むにしても、歴史小説とか、政治経済企業小説とか、そういう、現実ともうすこし折り合ったジャンルを、人生後半の大人と言うのは読むものであって。青春の悩みには37歳で、ひとまず決着をつけて、純文学からは卒業しなさいねと。日本では、純文学とか小説というものは思われているのだ。

 最近、しむちょんを追いかけて、世界の現代文学を読み漁っているが、多くの「老年から死に向かう年齢の、特別なひとではない(小説家とか文学者とかだけではない)様々な人の人生まるごとを描く小説」というのを数多く読む。谷崎や川端が「老年の性」は描いたが、それはまるで、三島が同性愛を描いたのと同じように「珍しい、今まで語られなかったものを描いた」という点で評価されたように思う、日本では。

 しかし、世界の「人生まるごと」小説では、老人の、老年の、死に向かう道のりの上に、ごく当たり前のように、性も、恋愛も、存在するのである。

 世界一の速度で高齢化が進む日本で、書き手も高齢化しているのに、「人生前半、折り返し前」ばかり書く村上春樹がいまだに大人気、というのも、なんというか、不思議な感じがするのである。

 人生の後半を主題にした小説が、純文学が日本でもこれからはもっと増えていく、売れていく、読まれていくようになるといいなあ。そういうのを期待する読み手は、けっこうな数、いると思うのである。

 

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