![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157880465/rectangle_large_type_2_c2d9b3d27b0f53de9d7b5299680acaa7.jpeg?width=1200)
『朝と夕』ヨン・フォッセ(著), 伊達朱実(訳)昨年2023年のノーベル文学賞ヨン・フォッセの小説がつい二か月ほど前にやっと出版されたので読んでみた。今の私の心にあまりに深く響いた。余韻でしばし何も言いたくない。が感想は書く。(ちょいネタバレあり)
『朝と夕』
単行本 – 2024/8/26
ヨン・フォッセ (著), 伊達朱実 (翻訳)
Amazon内容紹介
演劇、詩でも文学の新境地を切り拓いて注目され「言葉で表せないものに声を与えた」としてノーベル文学賞を受賞した、ヨン・フォッセの珠玉の小品。
〈第一部 誕生〉ノルウェー、フィヨルドの辺の家。息子の誕生を待つオーライ。生まれた子はオーライの父親と同じヨハネスと名付けられ、やがて漁師となる。
〈第二部 死〉コーヒーを沸かしパンに山羊のチーズをのせる……老いたヨハネスの、すべてが同じでまったく異なる一日がはじまる……フィヨルドの風景に誕生の日と死の一日を描き出した、神秘的で神話的な幻想譚。夢を見るような味わいの傑作。
本の帯の裏面
言葉にすることはできない、それは言葉より悲しみに近いものだから
ここから僕の感想
昨年のノーベル文学賞受賞者ヨン・フォッセは戯曲の方が有名だということで、昨年の受賞時点では日本語訳になっているのは代表作の戯曲『だれか、来る』一冊しかなかった。僕は戯曲を読むのが苦手(というか、詩も苦手、小説しか読まないのだな、考えて見れば)ので、それは読まなかったのだが、一年たって、次のノーベル賞が話題になるころ、やっと小説としての代表作『朝と夕』が翻訳出版されたので、読んでみた。
ノルウェーの漁師の子どもが生まれる第一部と、その子供が老人になっての第二部、二部構成とはいえ、とても短い、中篇小説でした。短いけれど、心に深く深く響く。
本文、本の方には第一部、第二部それぞれにタイトルはついていないのだが、どういうわけか、カバーの折り返しには「第一部 誕生」「第二部 死」と書いてあってあらすじも書いてあり、ある漁師の、生まれた一日と、死んだ一日が描かれていることは、カバー折り返しを読んじゃうと分かっちゃうのだな。まあ、そこを読まなくても、第二部を読みはじめてしばらくすると、作者のたくらみはすぐ理解できる。これから死ぬんじゃなくて、本人は気づいていないけれど、死んじゃっているんだなって。
でもね、もうそういう仕掛けとかいうことはこの本の価値とは何の関係も無くて、人が生まれる時の、死ぬ時の、その間に広がる人生。短い小説なのに、人生の「朝と夕」を描くことで、全体を一篇の中に凝縮しているのである。
加えて、ノルウェーの人の考える「神」ということが、キリスト教のそのままではなくて、おそらくはその底にある北欧神話の古い世界観とか神と悪の存在の対立のようなものが、生死を考える時ににじんでくること。それがもう静かなんだけれど切実に心に迫ってくるのだな。
Amazon内容紹介では「神秘的で神話的な幻想譚」とあるけれど、そうなのか。そう感じるのかなあ。僕には、この上なくリアルに感じるのだけれどなあ。それは僕がすでに、死のことばかりを考える、死の世界に半分、足をつっこんでしまっているからかなあ。
生・誕生について
いや、死のこと第二部だけではない。第一部ヨハネス誕生のシーンの妻マルタについて、産婆は「疲れているだけだ」と繰り返すが、夫の目から見たマルタは何か日常の妻を超えたものに見えていることが何度も描かれる。
それでもオーライは立ったままマルタと、母の乳房に吸いく小さなヨハネスを見つめていた、マルタの乳房はこれまで見たことがないほど大きく盛り上がり、大きくて白くて、いちめんに青い静脈が透けて見えていた、マルタは健やかそうで綺麗だったが、疲れていて、驚くほど落ち着いていた、目を閉じて、ゆっくり深々と息をして、まるでどこか別の世界の静けさの中にいるようだ、とオーライは思った、
(文体、余談だが、そう、この作家、ほぼピリオドを使わないらしいので、翻訳もほぼ句点が無い。読点だけでえんえん文章が続いていくのである。)
子供を産んだ直後の妻と、生まれたばかりの赤ん坊というものを、生の瞬間こそいちばん死にも近くて、そこを無事にすり抜けた妻と子供のことを、この世界にいながら、別の世界との境目を体験した人として、生命力とともに背後に死の世界がある存在として見つめるという、この描写。それは
「神話的で幻想的」と言うこともできるけれど、限りなくリアルな描写ともいえるよなあ。生死を描くことは、聖なるものに人が近づくことでもあるし、いちばんリアルな瞬間でもあるということなんだな。
第一部で、父オーライは、赤ん坊が生まれる前から(男の子なら)決めていた名前はヨハネスである。ヨハネスの姉はマグダで、第二部に登場する親友はペーテルである。キリスト教のイメージが自然に広がり重なるような名前が使われている。あとがきによれば、読み込めば細部にさらにいろいろなキリスト教的な設定が隠されているそうだ。しかしまた、神について、神と人間について、悪の存在についてときおり登場人物(第一部では父、オーライ、第二部ではヨハネスが)考える時、それは善と悪が常に争う北欧神話のイメージが、キリスト教の底に流れているのを感じてしまう。
老いと死について
第一部で生まれた赤ん坊ヨハネスは、第二部では老人になっている。漁師として七人の子どもを育て、引退し、妻に先立たれ、一人で暮らしている。子どもたちは同じ島に暮らし、中でも末娘は近くに暮らし頻繁に訪ねて来てくれる。孫も何人いるのか分からなくなるくらいいる。
朝起きる時も、身体が、筋肉が骨が、毎朝、動かない。起き上がってしまえば動くのだが、寝床の中で、身体が動かない感覚がある。
毎朝タバコ、コーヒー、チーズを載せたパン。そして散歩に出かける。もう漁はしないが、小舟で海に出ることはある。家の中はそれまでの人生生活の積み重ねがそのまま様々な物と思い出が結びついて溜まっている。
この身体感覚と境遇、私がそうなることを何より恐れていること(今は妻は健在、妻に先立たれることが自分が死ぬことよりずっと不安である。)しかしそうなる可能性はある。どっちかが先に死ぬわけだから。そうなったらどうなるのだろうと日々恐れ想像していることに重なる。
子だくさんの子育てを終って、仕事も引退して、夫婦で年金隠居生活をし始めたところで、妻に先立たれる。いかん、本当にいちばん恐れていることがここに書かれている。
まず、 仕事を引退するということについての描写も、僕は漁師ではないけれど、なんだかすごくよく分かるのである。
あの時、あれこれ試しても擬餌針が海に沈まなかったあの時から釣りはもうやめたのだ、もう十分過ぎるほど魚は獲った、獲るのは他の人に任せればいい、自分の分は獲り終えたのだ、
もう自分の分のプレゼン仕事はやりつくしたのだ、あとは他の人に任せればいい。もう二度と広告の仕事はしないぞ、と思ったのだ。自分の分の仕事は終わったというこの感じ、なんてしっくりくる表現だろうと思って読んだ。
子だくさん子育てを終えた気分というのもものすごくリアルに描かれている。
七人も育て上げたんだ、俺とアーナとで、そしてみんな立派に育ってくれた、一人残らず、
今朝のパンはいつにまして硬かった、しかし俺はパンを食べ切らないうちに新しいパンを買ったりはしない、いいや俺に限ってそんな無駄遣いはしない、いつだってあるものでやりくりしなければならなかったんだ、そうでなくては、俺とアーナでどうやって七人の子どもをそだてられたというんだ、
俺とペーテルは街に繰り出して酒を飲んだのだ、水揚げのあと魚を売って、その後いつも港町の酒場でビールをたらふく飲んで、身も心も温めたのだ、家にはアーナと子供たちがいて着のみ着のままでひもじい思いをしていたのに、よくもあんなことを、でもその習慣は途絶えた、
自分は一生懸命子育てをしたんだ、という思いと、いや、子どもや妻を顧みなかったときがある、という後悔とがないまぜになるこの感じ、なんとリアルな老いの境地での育児人生の振り返りだろうと思って読んだ。
どうやって老いていくのだろう。どうやって死ぬのだろう。その間に一人になったら、一人になってから死ぬまで、どうやって生きていくのだろう。
この小説を書いたとき、1959年生まれのフォッセが2000年に発表してるので、おそらく40歳のときに書いたんだな。すごいなあ、小説家の想像力。ここまでリアルに、この境遇を描き出すのだな。
不幸として書いているのではない。人生は必ずそういう地点に人を運んで行き、そのことは避けることもできないし、それを受け入れながら、死ぬまでは、そうやって生きていく。妻だけではない、親友も、知人もだんだん死んでいなくなる。そういう、老いから死に向かう中で、その静かな寂しさと悲しみがにじむ心象を、静かに美しく書いていくのである。
そういう中で死が訪れた一日に、主人公にどんなことが起きるのかを、これまた淡々と美しく描いていくのである。
ラストの部分、胸に迫るという意味では、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』の最終章に匹敵するものがあったなあ。人が死ぬというのは、こういうことなんだろうなあ。あるいは、こういうことであったら、それはそれでいいなあ。自分に起きることとして、恐れかつ望む、そういう最後の一日が描かれているのである。
恐れよりも、そうだなあ、死がこういう体験だったらいいなあ、という気持ちの方が、考えると強くなってくる。
老いと死をみつめようという年齢にある人には、本当におすすめの小説です。いままで老いと死を描く傑作小説として大好きなものはいくつかあったけれど、たいてい、すんごく長いのだよな。『アウグスティス』(ジョン・ウィリアムズ)とか、『コペルニクス博士』(ジョン・バンヴィル)とか。なので、人にすすめてもあんまり読んでもらえなかったのだが、これ、短いです。だから、「長い小説読むのはいや」という人にも、とてもおすすめ。