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「鬼畜米英」論考。日本の先の大戦、敗戦を挟んでの日本人の米国に対する180度価値観転換を、本論では日本人側ではなく「アングロサクソンの帝国・米英」の特質側から考える=世界文学傑作『ケルト人の夢』『イギリス人の患者』から、植民地支配と戦争におけるイギリス的振る舞いを考察。

 もちろん、これはウクライナの戦争を考える一環としての考察である。

 が、また、この戦争で、まったく手つかずになってしまった、マリオ・バルガス=リョサ『ケルト人の夢』についての論考のいくつかのテーマのうちのひとつ、「英国の二面性」という問題を取り出して、マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』(映画イングリッシュペイシェントの原作)と比較しながら、大英帝国の植民地支配について考察する。という論に、部分的に挑戦しよう、というものである。何を論じようとしたかを忘れないための「メモ」のようなものである。

 それを、直近のこのウクライナ戦争における、私の「米英に対する評価」特に「バイデン・にやにや」への生理的嫌悪の理由とつなげて論考する、という試みでもある。

 「米英」を「アングロサクソン」とひとくくりにするのは荒っぽい。のは分かっている。そもそも、こういう「国としての性格」みたいなものを論じるのは、星座占いや血液型占いくらい、意味のない俗論だ、という批判があるのも重々承知している。「国としての性格」とか「特徴」っていうのは、そもそも論じうるのか。という疑問はもちろんある。漠然とし過ぎている。

 ここで論じようとするのは、「植民地支配」と「戦争」という、国家の暴力性というか、帝国的振る舞いをするときの、ある国の、国としての振る舞いの特徴についての印象論である。「国としての振る舞い」といっても、それはときのその国の政権、権力者の振る舞い、それを支える国民の振る舞い、それを媒介するメディアと世論の関係、といったものについてである。科学的だったり、学問的にだったりという厳密なアプローチではもちろんない。「小説の感想文」×「過去の歴史(素人歴史好き程度知識に基づく)への、ざっくりした感想」×「この戦争をメディアを通して見聞きした情報で考えたこと」と合体、という雑文である。

『ケルト人の夢』

 ペルー人のノーベル賞作家、マリオ・バルガス=リョサの『ケルト人の夢』は、植民地支配における「支配する側、される側」の二重性を描いた小説である。主人公のロジャー・ケイスメントは、19世紀末、イギリスに支配されていた時代のアイルランド北部の生まれ育ったアイルランド人である。実在の人物の評伝的小説である。

 ケイスメントは中流階級の出だったが、父が早くに亡くなってから苦労して、大学には行けず、「英国の植民地と言うのは、未開の人にキリスト教と文明と豊かさと健康を普及する正しい行いだ」と信じて、それに関わる仕事として英国の貿易会社に勤め、コンゴで働くようになる。そこでコンゴの植民地の実態(イギリス植民地ではなく、ベルギー皇帝のコンゴ支配)の惨状を知る。イギリスの外交官となり、「ベルギーによるコンゴ植民地での非人道的行為」を告発し、一躍、イギリスで名声を博する。その後、「アマゾン奥地、ペルーでの、(会社としてはイギリス籍だが)ペルー人経営ゴム会社による、アマゾン原住民への非人道的行為」の調査を命じられ、告発する。そのことでイギリス国王から爵位も授けられる。しかし、こうした経験を経て、「アイルランドもまたイギリスの植民地として支配されている」という意識に目覚め、アイルランド愛国者として第一次大戦中、アイルランド独立蜂起に参加し、イギリスに捕らえられ、死刑となる。

 イギリス人は、はじめケイスメントの「コンゴとアマゾンでの植民地の非人道的行為の告発」を熱烈に評価し、支援する。イギリスの社会も社交界も政界も、こぞって支援、大絶賛し、それを国際問題として取り上げる活動を積極的に展開する。イギリス人、偉い。理想主義、人道主義者で世界をリードするのである。ペルーでの問題においても、イギリス人は、イギリスという国は、正しい正義感でペルー人経営者と、それを守ろうとするペルー政府に圧力をかけ告発し追い詰める。

 アイルランドの独立運動に身を投じてからも、アメリカのアイルランド移民系の富豪や名士たちは、ケイスメントのことを応援してくれる。アメリカ人もまたも正義や自由という価値を理想主義的に応援する人たちである。

 イギリスは世界中で植民地支配をしてきたし、なんといってもまず、お隣のアイルランドを支配し、言葉を奪い(ケースメントはアイルランド人だが、ゲール語が喋れない。数百年に及ぶ植民地支配の結果、一部の地方以外では、アイルランドのもともとのゲール語を話せる人はいなくなっているのである。)ひどい支配をしてきた。その一方で、アイルランド出身者でもイギリス外交官として名声を獲得し、爵位まで得ることができる。

  アングロサクソン、まず、イギリスの植民地支配というのは、東インド会社に始まるわけだけれど、そのインド支配というのも、暴力性もあるけれど、ある種の民主化とか教育とか衛生的生活とか、そういう「近代文明のもつプラス面」を持ち込む側面もあり、最後のインドの独立も、第二次大戦後に「勝手にやれー」といって出て行ったようなところもある。

 第二次大戦後のアメリカの帝国主義的世界支配も、中米各国での軍事政権支援の際のひどい暴力と陰謀の歴史を考えると「共産化を防げるならどんなひどい軍事政権でもOK」、中東との関係で言えば「共産化、ソ連側にいかないなら、どれだけ独裁的封建的なイスラム王族の国でもOK」というところは全然褒められないのだが、建前としては「自由」「民主主義」の体制を広めようとする「価値観のおしつけ」型帝国主義である。

 第二次大戦前までのイギリス大英帝国の植民地支配、それに代わって世界を支配した戦後のアメリカの世界支配。このふたつ連続するアングロサクソン系海洋帝国国家の帝国としての振る舞いは、「妙に理想主義的な、自由と人権と民主主義」という価値観を、単なる建前ではなく、本気で信奉しているところがあり、それを、自国にとって不都合でない範囲で、植民地の人たちに根付かせ、できるだけ公正に扱おうというところが、たしかにある。インドの扱いでも、戦後日本への理想主義的憲法の押し付けでも、そういうところはある。否定できない。しかし、その皮の一枚下には、戦争と経済的搾取を一体化させた、「アングロサクソン戦争商法」とでもいうべき世界支配の振る舞いがあって、それが帝国支配の下部構造になっているのも事実。理想主義的上部構造と、戦争経済の下部構造。そのふたつが、イギリス人、アメリカ人の中では、あまり大きな疑いもなく、共存してしまっている。イギリス人、アメリカ人、BBCやCNNの報道なんかも、そのふたつの合体は「当たり前のことで、批判されても困るなあ」というような風なのである。

 「理想主義的価値観と戦争経済の合体」というアングロサクソン型帝国は、戦前はイギリスが、戦後はアメリカが主役となって、世界各地で戦争の当事者となり続けてきたわけだ。(そのバトンタッチタイミングが、第二次大戦と太平洋戦争、ナチスドイツと日本相手の戦争だったわけだ)

 その太平洋戦争において、アメリカの日本に対する戦後の支配が、当時最新型の「民主主義と自由」をご親切にも押し付けてくださるというものであったのに対し、戦争中の、無差別な市民への爆撃と言うのは、これは人類史上まれにみる最悪の戦争犯罪だったことは間違いない。戦勝国だったから裁かれていないだけで、もし連合国が負けていたら、原爆投下に関わった政治家も軍人も、これは人道に対する罪で死刑だったと思う。それくらいの蛮行だろう。このコントラスト、その相反する振る舞いがアメリカというひとつの人格の中に納まっている。

『イギリス人の患者』は、実は、その原爆投下を、インド人がどう受け止めたかに関わる小説でもあるのだ。

『イギリス人の患者』

 第二次大戦太平洋戦争のイギリスのあり方を、ものの見事に描いたのが、大英帝国セイロン(現・スリランカ)に生まれイギリスで育ち教育を受け、カナダに移りカナダ国籍となった作家、マイケル・オンダーチェの『イギリス人の患者』(映画、イングリッシュ・ペイシェントの原作)である。映画のイメージはアフリカの砂漠を舞台とした戦時の大河ラブロマンス、みたいな感じかと思うが、実際の小説の主人公は、インドのシク教徒、シク兵としてイギリス軍人として従軍した、爆弾処理の専門の工兵、キップである。彼は、イタリアフィレンツェ郊外の、野戦病院となっていた修道院で、謎のイギリス人患者を看病するカナダ人看護婦と恋愛をする。(連合軍はさらに進軍していってしまい、移動できないイギリス人患者、彼を看病するために残ったカナダ人従軍看護婦、その古い知り合いのイタリア系の叔父、そして、そこに爆弾処理に訪れたシク教徒のインド兵キップの四人が、終戦間際の1年間ほど、戦争から取り残されて共同生活をしていたときの様々な物語なのである。

 この小説のクライマックス、ラストというのは、実は、インド兵キップがラジオで広島ヘの原爆投下のニュースを聞いて衝撃を受けての、突発的行動のシーンなのだ。

 「自分はインド人だが、爆発処理工兵として極めて優秀だったために昇進もし、軍隊では差別を感じることはほとんどなかった。ここでもカナダ人看護婦と恋愛に落ちた。そこでも差別された感じはなかった。しかし、イギリスも開発、投下に関わったらしい原子爆弾を、連合国が広島に投下し、何万人もの日本人を、非戦闘員市民を一度に焼き殺すという蛮行に出るということは、イギリス人は、アメリカ人は、連合国は、アジア人を人間だと思っていなかったのだ」ということに思い至る。そして、修道院から去る。

 『ケルト人の夢』の、アイルランド人ケースメントの「自分も植民地として支配されている側の人間なのだ」ということへの気づき。

 『イギリス人患者』の、インド人、シーク兵キップの「自分も植民地の、アジア人として、イギリス人から見れば、日本人と同様、原爆で焼き殺してもいい側の人間なのだ」ということへの気づき。

 こういうドラマが生まれるのはなぜか。というと、「はじめからめちゃくちゃ差別されていた」のではないから。ケースメントはイギリスの外交官として爵位までもらうし、シーク兵は工兵として、白人イギリス人を部下に持つ、白人より昇進して、上官になっている。大切に扱われている。イギリスの植民地支配には、そういう「公正さ」みたいなものが、ある。あるのだ。

 ナチスドイツの、ドイツ人のユダヤ人差別と弾圧と虐殺、みたいな分かりやすい『絶対悪」が無い。アイルランド人もインド人も、植民地支配されている人も、大英帝国の中で、教育も受け、同じようにイギリスの名誉ある仕事につき、公正に評価もされる。

 しかし、ある瞬間、「アイルランドが独立運動を企ての蜂起をしようとしたとき」や、「連合国として、アジア人、日本人に原爆投下をしたとき」に、イギリスの持つ、「植民地を支配する、アジア人を支配する帝国の支配者としての残虐な暴力性」が、突如、浮かび上がる。

 『ケルト人の夢』と『イギリス人の患者』は、イギリスの植民地支配の、「ある種の公平さと穏健さ」をもった植民地支配と、その底にある、暴力的本質というものを、「その狭間に生きた、両義的に属した主人公」を通して鮮やかに描き出す、という傑作小説なわけだ。

さて、現実の、現在進行中の戦争に話を進めよう。

 私は、最近書いているnote投稿で一貫して、「米英は影の戦争主体である」「NATOの中心として戦争への流れ作った張本人であり、かつ、自らは戦わない形でウクライナの人たちに、戦え、最後まで戦えとけしかけている」として、特に米国、バイデンのことを批判する立場を取っている。

 これは「ロシア、プーチンが正しい」と言っているわけではない。プーチンは、上記のふたつの小説で言えば、「コンゴでめちゃくちゃをするベルギー皇帝」くらい、「第二次大戦でめちゃくちゃをするナチスドイツ」くらい、はっきりとわかりやすい悪の振る舞いをしている。「絶対悪」といってもいい、非人道的暴力、殺戮の主体だから、それを非難するのは当然である。

 小説の中で、イギリス社会、イギリスの国家は、そうした絶対悪を止める正義の振る舞いをする。自由とか公正とか民主主義とか、そういう正しい価値観を掲げて、明らかに「極悪な」ベルギー皇帝、ナチスドイツ(や大日本帝国)と戦うのである。

  しかしいったん、主人公が「イギリス人」であるよりも「アイルランド人」「インド人」としてのアイデンティティに目覚めると、イギリス人の植民地支配や、アジア人を人間とも思わない原爆投下の行為に、「イギリス人って、全然よくない」と思えてくるのである。「ベルギー皇帝、ナチスドイツ」という敵の悪と戦っている過程でうすうす気づいていた、身内、味方だと思っていた「宗主国イギリスの悪」。それと同様、プーチンとの戦いを見ていたら、日本にとっての宗主国アメリカ様の「悪」が、はっきりと見えて嫌な気分がしてきた。というのが、「バイデンにやにやが止まらない」への生理的嫌悪の正体なのである。

 この戦争でも、プーチンの「非人道的戦争」に対して、それを止めようとするバイデンの振る舞いは、とりあえず「自由とか民主主義とか人権とか」という正義を守る戦いであることは、否定できない。その通りなのである。

 しかし、アングロサクソンの、イギリスやアメリカの、正義を掲げた正しい戦争も、「大英帝国、その後継としての米帝国」に植民地支配されているということに気づいた日本人の目から見ると、ウクライナ人に戦わせてプーチン政権を打倒しようとするバイデンの振る舞いというのは、日本への原爆投下で戦後の世界支配構造を構想していたチャーチルと同じような、トルーマンと同じような、残虐さを見てしまうのである。アングロサクソン帝国国家としての、「理想主義から、民主主義や人権のため、という善良さの上部構造」と「戦争と経済を結び付けた帝国主義的エンジンがついている下部構造」の全体が透けて見えると、「アメリカがんばれ、バイデン偉いぞ」とは、言えない気持ちになるのだ。

 イギリスやアメリカの、こうした「理想論・正義を振りかざす振る舞い」と「その底の、戦争経済の暴力を他国おしつける」その二重構造を「偽善的だ」と批判するつもりは僕にはないのだな。なんというか、アメリカ人というのは、疑いなく、自然に「自由や民主主義を守る」という本気の信念と、「そのためには戦争が必要で、最強の武力が必要で、世界の自由と民主主義を守りたい人には、最強の武器を売ってあげるから、まずは自分でがんばって戦いなさいね。それでアメリカが儲かれば、ますます強い武器を開発できるんだから、悪い話ではないでしょう」と本気で信じていると思う。偽善と言うにはあっけらかんとしすぎているのだ、その構造が。

 そういう、アメリカという国を成り立たせている「理想主義と戦争経済の好循環」というものが、ひさびさに、プーチンという絶対的悪役を得て、世界にアピールできるなあ。という喜びが、バイデンの、戦争が始まって以来の「にやにやが止まらない」表情に現れていると思う。

 東京大空襲はじめ全国の民間人を焼き殺す爆撃を実施し、仕上げに原爆を二発落としたアメリカと、理想主義的平和憲法を押し付けてくれたアメリカは、全く矛盾なく、ひとつの人格なのだと思う。戦争中、日本人が米英のことを「鬼畜」だと思ったのは間違いではない。戦争経済を全開でぶん回しているときの米英は「鬼畜」の一面がある。しかし、戦争が終わった国を「民主化してやろう」というときは、それを素直に受け入れている限りにおいては、もう「鬼畜」ではなくて、理想主義の押し売り屋になるだけだ。イラクやアフガンの戦後支配が上手くいかなかったのは、イスラム教の国に「西欧型米国型民主主義」は受け入れにくい要素があまりに多かったからで、そうすると戦後支配でまで「鬼畜」米英のまんまだったので、イラクもアフガンも大変なことになってしまったわけだ。

 日本人が戦争中「鬼畜米英」と言っていたのに、敗戦後、マッカーサーを神様のように、ヒーローのように歓迎熱狂したのは、日本人の「強い者にまかれろ」体質のせいだ、と普通は論じられるけれど、そういう態度180度反転をもたらす「上部構造下部構造」が、アメリカ側にあるのもその要因のひとつなのである。

 英国の植民地支配というのは、英国が直接ひどい暴力を働く局面もあったけれど、それ以上に。支配した国、地域の中に、面倒な対立をわざと作るようなところがあって、インド・パキスタンの問題も、イスラエルの問題も、イラク周辺のサイクスピコの後遺症の地域も、今に至るまで、厄介な後遺症を世界各地に残している。

 アメリカの戦後日本統治も、わざと北方領土問題をソ連をけしかけて紛争が解決しないような形で残したのはアメリカだと言われている。あれは、イギリスの後継者として「めんどくさい問題を残す」技がきまったのだと思う。

 歴史の皮を何枚か剥くと出てくるイギリスやアメリカのこういう特質というのを理解した上で、今の戦争を見る。私はそうする。戦争の専門家でも歴史の専門家でもないが、小説を読むということに関しては、職業にはしていないが、まあ半分、専門家というくらいには読んでいるから。そういう視線で、戦争を読むのである。


 

 


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