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パブロ・ピカソの『盲人の朝食』という絵画がある。頬のこけた盲目の男性がテーブルにつき、パンと水だけを摂っている。部屋も男性もその服も、すべて青みがかった重い空気をまとう。この絵を見て、ある美術評論家は「青の時代に描かれた一作品」と解説し、ある小学生はそれを「ちょっと不気味だ、お隣の井上さんに似てる」と思うかもしれない。ある通りすがりの鑑賞者は例えば「画家が盲人を描くということは、絵画に伴う『見る』行為そのものを問い直す営みか」と考えるかもしれない。一つの絵(コンテント)が複数の解釈の糸口(コンテクスト)を纏っている。

illustration by Maki Ota (Takram)

コンテクストには作者が意図的に込めたものと結果的に含まれるものの両方がある。青の絵をたくさん描いたのはピカソ自身なので「通りすがりの鑑賞者」の感想はある正統性をもった解釈「かも」しれない。比較的「意図的に仕組まれた」コンテクストに近い。一方小学生の解釈はピカソ本人とはつながりがないので「結果的に含まれる」もの。さて単に「文脈=コンテクスト」という単語を美術やデザインの世界で用いるとき、狭義には「歴史的経緯やその時代・環境における位置づけ」くらいの意味を持つ。すると「意図的に仕組まれた」もの、あるいは「重要な識者の評価」、を特に指すように響く。でも本連載でいう「コンテクスト」はそれだけに閉じない、あらゆる解釈や共感の糸口を指している。社会的に認められた正統的な解釈だけではなく、ある無名の個人の解釈をも包含したい。だから、ここでは小学生のいう「井上さん」も、正統。

制作物そのものをコンテント(content)と呼ぶなら、多くのデザイナーは、コンテントをつくる仕事に注力している。カーデザイナーはクルマ、グラフィックデザイナーはグラフィックというコンテントをつくる。そのとき、コンテクストにも同じだけの注意を払いたい。この連載は「コンテントデザインとコンテクストデザインの両立」をテーマにしている。

クフ王のピラミッドはひとつのコンテントだが、その位置づけ、解釈は複層的で多様。国王の墓であり、当時の国の公共事業であり、今は世界的な遺産であり、エジプトの観光資源でもある。これらすべてがピラミッドのコンテクスト(一度途絶えた文明の痕跡を辿りながらコンテクストを紐解く作業には、なんともロマンがある)。いずれも、いま史実・事実と捉えられていることなので、狭義の正統性を持っている。クフ王という作者が意図的に仕組んだものや、あらゆる人がほぼ納得して受け止めるような「強い文脈」と呼べる。

ピラミッドはしかし、それと同時ある夫婦にとってのプロポーズの場所(※1)であり、ある小説の冒険の行き先(※2)かもしれず、ある学生にとってはその後の働き方を考え直すに至る旅の光景(※3)であった(全て僕の見聞きした話です)。このような、ある個人にとってだけ本当である「弱い文脈」、結果的に含まれる文脈も、同時に大事に扱いたい。そのような個人の解釈を積極的に引き出すこと自体が、コンテントの持つ力だから。



注:
※1:私の知人のあるフランス人カップル
※2:パウロ・コエーリョ『アルケミスト
※3:筆者のワークショップ型講演、三越伊勢丹「もてなしの教室」の参加者の発言
※4:ピカソの原画はPablo Picasso "Le repas d'aveugle" wikiart.org より


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渡邉康太郎 / Takram @『コンテクストデザイン』青山ブックセンターにて発売中
記事執筆は、周囲の人との対話に支えられています。いまの世の中のあたりまえに対する小さな違和感を、なかったことにせずに、少しずつ言葉にしながら語り合うなかで、考えがおぼろげな像を結ぶ。皆社会を誤読し行動に移す仲間です。ありがとうございます。