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HSPビジネスと精神医療

まず最初に私がなぜこの話を書くのかというと、私が危惧しているのは、『HSP』という言葉によって、心療内科や精神科に行く機会が奪われている方がいないかということです。

HSPを否定する意図はありませんし、これはいい影響もあると思っているので、この言葉を使用されている事に対しては何も抵抗などは感じません。
否定ではないのであしからず。

ご存知かもしれませんが、HSPというのは、医学用語ではないです。
病名ではありません。
『感覚処理感受性』をベースに生み出された心理学的な概念の言葉であり、ミームとも言えるかもしれません。
〇〇占いのそれと同じです。

感覚が過敏で、日常生活を生きづらく思っている人は間違いなくいます。私がそうですから分かります。
大きい声にビクビクするし、ドサっとカバンなどを置かれると何事かと神経を素手で触れられたような感覚を覚えます。
電話音も怖いし、チャイムも恐ろしく感じる。
なにより、周囲の人の目が恐ろしくて仕方がない。いくらか改善したとはいえ、いまだに公共交通機関や人混みには恐怖を覚えます。

ここで、私の身の回りで起きた話をします。
私の職場で、仕事と家庭の事で疲弊しきっていた女性がいました。
私はその人と雑談をしている時に、HSPの話をしたら、「教えてくれてありがとう!私、まさにこれだー!」と、喜んでいました。自分の生きづらさに代弁してくれたように、そして共感を得たように思えたのでしょう。
私はその後すぐにうつ病になってしまい、その職場を退職せざるを得ない状況になってしまい、その女性の状況を把握できておりませんが、先日職場に近況報告がてらご挨拶に伺った時にその女性を見かけましたが、とても暗い顔をしていて、私はその方の助けになれずにドロップアウトしてしまった自責の念もあり、声をかけることができませんでした。
声がかけられないほどに苦しそうな表情をしていたというのもあります。

後日、その方にメールにてなるべく自分の近況報告のつもりで声をかけましたが、なんとか気丈に振る舞っていたように見受けられました。
私の目からは今にも折れそうに感じましたが、無力な自分では、あれ以上自分にできる事は無かったと思いますし、自分自身がかなりまだ病んでいたので、そんな人間になにができると卑下していた部分もあります。

その方は、心療内科で診察はしてもらっていないそうです。

病院に行く事がすべて解決につながるとは言っておりません。
あえて診察を受けずに、環境に耐える道もあるかと思います。

HSPという言葉で救われた方もいるでしょう。
私も、この話を書籍等で目にした際は、自分の生きづらさを証明してくれたように思えて、また他にも同様に仲間がいることに安堵の念を感じた記憶があります。

私は最終的に、うつ病から双極症となり、併発しているのは全般性不安障害、パニック障害、摂食障害、回避性パーソナリティ障害と診断を受けました。
診断を受けてどんな心境になるかは人それぞれだと思いますが、私は心療内科にかからずに10数年生きづらさを感じながら、時に仕事に支障をきたしながら生きてきて、診断を受けてようやく納得がいった思いでした。
なるほど、だからこんなに苦しかったのだ、と。
今は投薬治療と独学の心理療法で、闘病しております。一時期よりはかなり回復していると自認しております。

もう一度書きますが、HSPは病名ではないので自立支援医療制度、精神障害福祉手帳、障害年金、これらの国の経済的支援、市区町村の福祉サービスも受けられません。

HSPという言葉はなかなか手放せないものかと思います。
所謂自己証明にもなり、仲間意識にもなり、意識共有のツールになっていると。

精神医学的に『なぜ過敏になってしまうのか』『なぜ生きづらさを感じるのか』、
“なぜHSPなのか”。
これを、病気として、服薬治療や心理療法で改善できる機会を失われていないか、私はこれらを危惧しています。

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