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大人の読書感想文:働くということ
超久々です。すいません。
本を読んで感想文をアップする。それだけのことなのだけど、サラリーマン時代よりも時間が有り余っているハズなのに、本を読もうとする感性が減っているのかも知れません。
(単純に新書が購入できる財力が無い、という話もあるけど)
でも、せっかく時間とお金をかけて購入し、更には、筆者の心がこもった書籍を読んだままでは終わらせたくないので、感想文をアップします。
毎度のことですが、このnoteは個人の感想文であり、書籍の内容にはあまり触れませんのでご了承ください。
本を知りたい人は筆者の勅使河原真衣さんのイベント申し込む事をおすすめします!
この本を私の感想をまとめると「人類自身のデジタル化により、主体性の喪失が始まっているのではないか?」というものです。
すいません、これじゃ、何を言っているのかわかりませんよね。まずは人類のデジタル化、そして主体性の喪失について、それぞれ私自身の意見を述べようと思います。
人類のデジタル化
あくまで私の感性ですが、人って、そもそも個々人が異なる精神を持っているし、特性は異なる。だからこそ、一緒に仕事をしていても、合う/合わないはあるし、結婚生活に至ってはお互いの妥協の産物の積み重ねだと思うんです。(これは家庭によって異なるでしょうけどw)
だからこそ、仕事や結婚のような「他者と関わる」というシチュエーションにおいては、その合う/合わないをチェックするには多大な時間と労力を必要とされるのでしょうけど、いかんせん現代人は時間がない!
タイパやコスパと言った、効率性原理主義とも言えるような価値観が跋扈する中で、個々の組合せで、合う/合わないなんか確認しているような非効率な事はしたくない!それこそ80億個もあるジグソーパズルのピースをちまちま組合せしている時間なんてない!
だから、モノと同じ様に、人間も抽象化し、系統化し、分類化し、そこから統計解析のようなものを持ち出したり(中にはスピリチュアルなものを持ち出したり)して、「AさんとBさんは合う!CさんとDさんは合わない!」と実際に対話をしないまま、決めつけちゃうような事例が多く感じるんです。
(何とは言いませんが、16分類に人を分けちゃうようなアレですね。それはそれで重要な考え方だし、活用できるデータだと思うけど、それで思考停止するのはどうかな?と思いますが、あまり書くと角がたつので、、、苦笑)
でも、本来人間って、そんな固定された視点からだけ解析できるものじゃなし、もっと複雑怪奇で、簡単に分類化できるような気はしないんですよね。
この「人の性格の分類化」って、例えるなら、アナログレコードの音源をデジタル化しちゃうような気がするんです。
確かにデジタル化することでコピー劣化する事は無いし、ネットに音源を乗せることもできる。
そしたら物理としてのレコード販売の売上が立たなくても、音声配信で楽曲提供できるようになります。
でもね、人間ってデジタル化しちゃうより、アナログレコードのままでいたいなぁ〜なんて昭和生まれのオジサンは思っちゃったりするんです。
単純にコピーできないけど、デジタルの様に単純化できないけど、、、泥臭くても生きている、そんな人間でいたいと思うのです。
主体性の喪失
こういう言葉を使ってしまうと、巷によくあふれる言葉で「仕事に対して主体性を持て!」みたいなものを思い浮かべてしまうかも知れませんが、ワタシ的には、あの言葉はあまり好きではありません。
だって、他人に対して「主体性を持て」って、そもそも、その言葉自体が主体性じゃないじゃん!それ、他人をコントロールしてるよね?と天邪鬼な私は、いつも思っちゃうんです。
こういっちゃなんですが、別に主体性を持たずに、流されるままに生きるのもアリだと思うんです。それを自分が選んでいる、という事実があれば。
つまり、主体性を持たないことを、主体的に選ぶって感じですね。(もはや禅問答の感覚ですがw)
ただね、私が問題提起したいのは、主体性を持つように従属的に考える。という事なんです。(これまた禅問答ですね。苦笑)
おそらく、どこかの企業に属していたら、その会社の事業方針、経営方針を理解し、共に働く人に合わせながら、労働者として上手く生き抜かなければならない。
この事象を会社組織の目線で見ると、今の現状に合わせてくれる人を採用した方が教育コストもかからないから、そっちを優先して採用するために、選抜試験を行って、効率よく働く人を選抜する。
逆に労働者目線で見ると、本来は自分にあった社風なのか?を見るために面接を受けるのに、逆に会社目線に合わせて、それに気に入られるように自分をお化粧して、採用されるように頑張って振る舞う。
これが、従属的な主体性、だと私は思うんです。
でもさぁ〜、結局そんな所で繕っても、仕事をしていくと合う部分、合わない部分は出てくると思うんですよね〜。だからこそ、実際の現場では、人と人の仕事ではすり合わせながら、トライアルをしながら、そして、悪戦苦闘しながら、仕事を進捗させていくと思うんです。
その悪戦苦闘を少なくするために、考えるべき部分を少なくして、効率化するのはわかる。えぇ、わかってますとも。
でもね、それが行き過ぎちゃうと、「そして労働者は、考えるのを止めた」という感じになっちゃって、すべてを会社に依存しちゃうんじゃないのか?と思うわけでございます。
行き過ぎると、人間性を失うし、やらないと効率的に事は進まない。
もう、こんなのジレンマでしかないのですが、この部分を簡略化して行きていくことに自分としては焦りを感じちゃうんです。
たしかに答えのない問いではあるのですが、この答えのないモヤモヤに対して、日々少しでも前向きにチャレンジし、将来に向かってチョットでも前進するようにしたいな、と、本を読みながら感じました。
多分、「働くということ」を考え続けることって、に水前寺清子の「365歩のマーチ」のように「3歩進んで、2歩下がる」を繰り返すんだろうな、、、と本を読み返しながら感じています。