マルホランド・ドライブ
デヴィッド・リンチ監督が亡くなったらしい。
小学生のときに流行ったエレファントマンも、大学生のときに流行ったツインピークスも観たことがない。でも、なぜかマルホランド・ドライブだけは公開当時に劇場で見た。しかも1回目を見たときのあまりの衝撃に、翌日だか翌週だかにもう1回見に行った。あまりに深く心に刻み込まれたためか、「バンドはいません!(There is no banda!)」というセリフを折に触れ、未だに口ずさんでいるぐらいである。あの超怖い無表情口パクの歌を歌うこともある(どちらも彼女とふざけているときにやる)。ちなみにbandaはタイポじゃないよ。なんでか、「いません」は英語で、「バンド」はスペイン語なんである。
この映画に終始流れているのはとにかくわけのわからない(そして解決とは程遠い感じのする)不穏さで、初めて見たときはその不穏さがとても魅力的だった。自分は夢をよく見る。夢の中では様々な役を演じて様々な出来事が起こり、それが明晰夢である場合には起きたときにはとても疲れていることが多いのだが、基本的にはマルホランド・ドライブまでの不穏さを感じる出来事は起きない。せいぜいが、シックスセンス程度どまりの不穏さである(まあ、あれも大概だと思うが)。だから、突き抜けた不穏さに魅力を感じるのかもしれない。
ところが、監督が亡くなったと聞いてマルホランド・ドライブを見直してみたら(4Kレストア版をアマプラで観れる)、感じたのは不穏さではなく、ベティ(ナオミ・ワッツ)に対する深いシンパシーだった。何かが少しでも違っていれば自分もそうなっていたかもしれないという気持ちが、そこにあるように思えた。なので初見のときとは全く別の意味で、この映画に強く惹かれることになった。
不思議だよね。
これは歳をとったからなんだろうか?
あるいはベティが落とされた状況のようなことは、自分のいる世界で普通に起き続けていて、今ではそれがよくわかっているからだろうか?
深いシンパシーがどこから出てくるのかわからなくて、ちょっと悩んでいる。