共感
性別がないように感じる状態がベースラインとなっているためか、いつもにもましてジェンダーの変化によく気づくようになっています。良い機会なので、その変化を注意深く観察しているのですが…
…とつぶやいたように、共感の感情はジェンダーを呼び起こすような気がします。感じるジェンダーは、そのときどきによってfemaleとmaleの割合が違うandrogyneなのですが、何が割合の変化をもたらしているかまではよくわかりません。もともと割合は流動的なので、性別がない状態からジェンダーを感じたときにもその点は変わっていないだけなのかもしれません。
少し前のつぶやきですが、
ある匂いを感じたときに、と書いたのですが、実際はこのとき、昼食を食べている私の横を通りかかった女性が物を落とし、それをお互いに拾おうとして彼女の髪の毛が私の顔にかかるということが起きていました。それから間もなくして弱いジェンダーを感じ、それが半日ほど続いたわけです。改めて思い返してみれば、きっかけは髪の匂いではなく、彼女に共感を感じたことであるように思います。「すみません」「いえいえ。大丈夫です」との短いやり取りでしたが、その人は少し疲れている感じがして、同じく少し疲れていた私は共感を感じたのでした。
このことに気付いた後、こういうことはnonbinaryや、とりわけandrogyneやgenderfluidの人たちにとって普通にあることなんだろうか、としばらく考えこんでしまいました。普通か否かについて考えても何も意味がないことはわかっているのですが、同じ経験をした人がいることがわかれば素直に嬉しいですし、自分が「変わっている」わけではないと知ることができます。これまでに「変わってる」と数えきれないぐらい言われたことがありますが、別に何も変わっていない、ごく一般的な人間であると証明できる気がします。
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考え込んでいるちょうどそのとき、この記事を見ました。
日本の新聞社の記事はしばらくして消されることが多いので(良くない習慣だと思います)、概要を書いておきます。この記事は、解離性障害に関するものです。
この記事をきっかけにいろいろと調べてみたのですが(記事にある柴山先生の著書がとても参考になりました)、幼い頃に過酷な環境から心を守るために自分自身の一部を切り離して切り離した部分(「犠牲者」や「守護天使」)に守ってもらっていたことに起因する障害のようです。
もしかして複数のジェンダー(と感じているもの)は、一度はバラバラになった自分自身の一部の名残りでは?
柴山先生の著書に書かれている解離性障害のエピソードに多くの心当たりのあるものがあり、自然と疑問を感じました(noteに書いたコアのエピソードも、解離性障害としてはマイナーなエピソードのようですが共通しているようにも思えます)。他者に対する共感がジェンダーを呼ぶ。呼ばれたジェンダーは、過去、自分自身を共感で守っていたのではないか、という疑問です。これが正しいのであれば、そもそも自分は、複数のジェンダーを感じるからといってnonbinaryとは言えないのではないかとも思いました。
おそらく実際には、いろいろな要素が複雑に絡み合って今の私が形作られているのでしょうし(たとえば性別についての身体の違和感は解離性障害のエピソードではないようです)、nonbinaryかどうかを考えることにあまり意味があるようには思えません。ただ、もし、過去に私を守っていた自分自身の破片がジェンダーとして残っていて、それが私以外の他者への共感に導かれて表に出てくるのであれば、それは悪いことではないように思えます。過去の心の破片を認めて慰めているようにも感じます。
自分自身のことながら理解できないところが多いのですが、今の私の状態については好ましく思っています。
少なくとも、あの常に不安に満ちた頃に戻る必要がないだけでも安堵を感じますし、とても幸せです。