性別の混乱と,予測できない攻撃と,最終的には平穏が得られたけれども深い傷が残った話 前半
はじめに
この記事には、家庭内/親族間での虐待(精神的虐待)のエピソードが出てきます。もし、読んでいる間に辛い気持ちになったときは、一度、記事から離れてみてください。辛い思いをさせてしまい、ごめんなさい。
少し前の記事「コア」で小学生のころのことを書いています。今回は、その後、私の人生で一番酷かった時期である10代のころの話です。noteの記事はできるだけ丁寧に書こうと思っているのですが、(心理的に楽でもあるので)素の言葉で書いてある部分があります。とても長いので2回にわけます。
性別の混乱
性別の違いを(知識としてではなく)はじめてはっきりと認識したのは中学3年(14歳)の夏休みでの学校のキャンプのときだと思います。当時、依然として、自分が男性だという認識はあまりありませんでした。中学から男子校に通っており、同年代の女性が周囲にいないことが大きかったのかもしれません。そもそも性別を問わず、他人にあまり興味を持っていなかったように思います。後から聞いた話では、父は(中学生であれば普通は持っているであろう)性欲がないと思っていたようです。本人からすると、別になかったわけではないように思うのですが。
キャンプでは、広間で雑魚寝をします。その広間で、夕方ごろに何人かで雑談をしていたところ、一人に体を触られました。どこを触られたかは覚えていないのですが、強い嫌悪感を感じて、若干過剰ともいえるほどの対応をしました。相手は足の方にいたのを覚えているので、多分、真剣に蹴ったかなにかしたはずです(ということは、多分、太ももかお尻のあたりを触られたのだと思います。これ以前にも触ってくる同級生がいましたし)。相手は、「そんなに真剣に怒らなくても」とか「女の子みたい」か何かを言ったのですが、そのとき、性別の違いをはじめてはっきりと認識しました。
違いを認識することで、性別の混乱が生じました。ただ、混乱が生じていたことは、その後、とくに高校卒業後に起きたエピソードを後から振り返ってわかったことであって、当時は混乱に気付いていませんでした。自分にはそんな余裕はなかったのです。性別について疑問に思う余地は残されていませんでした。
予想できない攻撃
与えられた役割
本来、安らげるはずの家は、決して安らげる場所ではありませんでした。家は、完全にその機能を失っていました。物心ついたときから両親の間には常に争いが絶えず、いつ自分にも火の粉が降りかかってきてもおかしくない緊張状態が毎日毎日、何年も続きました。大人とは違い、子どもの時間はとても長いです。緊張した状態はまるで永遠に続くかのように思われました。自らの性別について考える余裕はなく、逆に考えられなかったことで家庭は崩壊しなかったという悲惨な状態でした。
争いの原因は、主に、経済的な問題と同居していた父側の祖母にありました。父も母も(程度は異なりますが)酷い虐待を受けながら育った人で、どちらも兄弟姉妹のなかで自分だけ学校に通わせてもらえず、日本が繁栄していた時代であったにもかかわらず経済的にとても苦しい状況にありました。
母の父はお酒に溺れた人です。学校に通わせてもらえなかったこと以外、どのような酷いことをされていたかについて母から聞いたことはありませんが(話そうとしない)、アルコール中毒の親が子どもに対してやるようなことは想像がつきます。父が受けていた虐待はかなり異常で、ここに書くことはできません(あまりにも異常過ぎて、かかわった親族を含む人間は私のことを特定できると思う。一度書いたけれど削除しました)。一つ重要なことは、男性であるために(性別を理由に)、父は酷い虐待を受けていました。私は父を保護しない祖母に問題があると思っていましたが、最近、必ずしも全てがそうではないらしいことがわかりました。親族が直接又は祖母を介して父を虐待してコントロールしており、母側が虐待を受けて育ったことを含めて、私の家にかかわっている周囲の人間の悪意や冷酷さによる歪みが、一番上の子どもである私にのしかかっていたようです。
機能していない私の家では、家を守るために母に与えられた役割をこなすことが求められました。例えば、
大学に行って学歴を得るという母自身の希望を代理でかなえること。
妹の面倒をみること。
母を支えること。悩みを聞き、アドバイスを与え、怒りのはけ口になること。
祖母や父の味方は一切しないこと。
1つ目と4つ目がシビアでした。次に3つ目で、妹の面倒を見ることは一番最後でしょうか。本を読むことが好きで、学校と地域の図書館を使ってかなりの量を読んでいたため、家は学習する環境では全くありませんでしたが、勉強をほとんどすることなく(後半に書くようにかなり悲惨な経験をしたのですが)最後には大学に行くことができました。それに、学歴はともかく、大学に行って学ぶことは自分自身の望みでもあったのです。世界のすべてのことに興味があり、好奇心を抑えることはできませんでした。
妹の面倒をみることは苦ではありませんでした。小学生のころは、大きくなったら自分で子供を産むと思ってたぐらいですよね。長期の休みには、毎日市場に出かけて買い物をし、妹と自分のための昼ご飯を作り、たまには向かいの家に住んでいた幼なじみの女の子と一緒に食べていました。むしろ、自分にとってとても楽しい側のエピソードになります。
一方、3つ目と4つ目は、明らかに私がやるべきことではありません。やるべきではないことをやらせるために、母は、おそらく自分が親にやられていたのだと思います。子どもを脅迫するという手段を無意識に使いました。
「このままではお前は学校に行けない」
「お前がいたから離婚しなかった」
「生むんじゃなかった」
「あなたを抱いて何度も飛び降りて死のうと思った」
さらに、虐待を受けていたために常に大きな不安を抱えており、経済的な問題もあって、それが突然の怒りとなって自分にふりかかってきます。いつ怒りが発生するか予測できませんし、怒っている本人が疲れるまで長時間続きます。しかも、日を変えて同じことが蒸し返されたり、以前とは違うことを言い始めたり、どちらを選択しても怒りにつながったり、異常な状態が続きました。酷いときには、学校の歯科検診で歯医者に行くように言われたことを一言伝えただけで、怒りが爆発したことがありました。
本当のところはどういうつもりだったのかはわかりませんが、母は、無償で甘えられる親か兄姉の役割を自分に求めていたように思います。怒りと対になっているのは、悲しみでした。不幸にも、私は、マルチジェンダーの特性を最大限使うことでこの役割を果たすことができました。しかし、子どもがこの役割を果たすには、大きな代償を払わなければなりません。代償は次第に積み重なっていきました。しかも、ある出来事について祖母はこう思ってるんじゃないかとふと口にしたときに、祖母の味方をしたと思ったようで、あろうことか、その出来事の当事者でもある父に対して「私が裏切った」と泣きながらいったのです。いかにコアが暖かいとはいえ、私の心はヒビが入る寸前でした。
後半に続きます。
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前半での大事なこと
・「若干過剰ともいえるほどの対応」は、当時はそう思いこそしたものの、改めて考えてみると決して過剰ではないですよね。信頼関係のない人に同意なく体を触られることを、徹底的に拒絶しても何も問題ありません。むしろそうするべき状況は、いくらでも考えられます。
・与えられた役割には父が出てきません。父は、まさに自分自身が祖母と親族からやられていたように、基本的に家族に無関心でした。母の暴走を止めることも一度もなかったです。
・脅迫は、現在では、ブラック企業や新自由主義の人たちがよく使う手であるようにも思います。彼らは、脅迫以外にも、「希望のすり替え」をよく使います。彼ら自身の希望をかなえるために、コントロールしたい人に対して、まるでその人自身の希望や義務であるかのように話をすり替えるのです。とくに若い人たちは注意してくださいね。
・おそらく私がシス+モノジェンダーである典型の女性か男性として生まれていれば、とても耐えられなかったように思います。とくに女性であった場合は、かなりつらい思いをすることになっていたのではないでしょうか。後半に自罰の話が出てきますが、自らの身体や心を傷つけることになっていたように思います。
後半はこちらです。