ヴェッセル・バン・デア・コーク「身体はトラウマを記録する」⑤p400~500
・トラウマの痛みを表現するための安全な場所を見つけるのはとてつもなく難しい。だからこそ、アルコホーリクス・アノニマスやアダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックス(アルコール依存の親の下で育てられた人向け)、ナルコティックス・アノニマス(薬物依存症からの回復)などのサバイバーの自助グループがとても重要になり得るのだ。真実を話すと、敏感に反応してくれるコミュニティを見つけることによって回復が可能になる。苦悶に満ちた人生の詳細に耳を傾けるように訓練されたプロのセラピストをサバイバーが必要とするのもそのためだ。
・PTSDの人のほとんどはトラウマを負って暫くすると、過去への対処に多くの時間や労力を費やさなくなる。彼らはその日、その日をなんとか切り抜けるので精一杯なのだ。トラウマ患者は例え教育やビジネス、医学や芸術に大いに貢献していたり、子供を立派に育てたりしていても、通常の人と比べて日々の生活の課題にはるかに多くのエネルギーを費やす。
→エネルギー使い過ぎて、からっからになっちゃったんだよな。
・認知行動療法の認知の部分は、そうした非機能的思考を変えることに的を絞っている。これは変化へのトップダウンの取り組みで、そこではセラピストはネガティブな認知に疑問を呈したり、そのリフレームをしたりする(枠組みの作り直し)。レイプされたのは自分のせいだというあなたの感情と実際の事実を比較しましょう。運転に対する恐怖心を今日の道路交通の安全性についての統計と企画しましょうというように。トラウマを負った人が、セクシーすぎた私がいけなかった、他の男たちは怖がってなかったのだから彼らこそ本物の男だ、もっと分別があればその通りを歩いたりしなかったのに、といった不合理的な思考を抱いていることに疑問の余地はない。
→私も自分のことに関してはこう思ってる。ここの認知がまだゆがんでるんだよなぁ。他者のことについては怒れるのに。ここの認知を変化させたい。
・トラウマ患者の脳画像研究では、ほぼ例外なく島の異常な活性化が見つかる。脳のこの部分は、筋肉や関節やバランスシステムといった内部機関からの入力を統合して解釈し、一つにまとまった体を持っているという感覚を生み出す。島は信号を扁桃体に伝え、闘争逃走反応を引き起こすこともできる。この時には何かがうまくいかなかったという認知的な入力や意識的な認識は必要なく、いら立って集中できないと感じるだけか悪くすると今にも死ぬのではないかと思ってしまう。こうした強烈な感情は、脳の奥深くで生み出されるもので、理性や理解によって消し去ることができない。
・自分の体と接触する、つまり自分自己と体の芯から結びつくことによってのみ、自分が何者なのかという感覚を取り戻し、自分なりの優先順位、価値観を回復させることができる。質感上昇乖離機能停止はみな私たちが意識して意識を集中させて、自分が感じていることを知り、自分を守る行動を取れるようにしてくれる脳組織と関連している。とても重要な組織なんだ。こうした重要な組織が逃避不能ショックを加えられると、困惑と同様が起こりかねない。あるいは私たちは自分の体との情動的なつながりを失ってしまうかもしれず、これには体外離脱体験。が伴うことも多い。別の言い方をすれば、トラウマによって人は自分の身体が誰か別の人の体であるかのように、あるいは体がないかのように感じてしまうのだ。トラウマを克服するには、誰かの助けを借り、自分の体とセルフ、自分そのものともう一度結びつく必要がある。そのために言語が不可欠であることに疑問の余地はない。私たちのセルフの感覚は記憶を首尾一貫した統一体にまとめあげられるかどうかにかかっているのだ。これには意識ある脳と体の自己システムとがうまく機能するつながりによって結びついていなければならないのだが、このつながりはトラウマによって損なわれることが多い。物語全体を語れるようになるのは、そうした脳組織が修復されて基礎が築かれてからであり、自分の体が存在しない状態から存在する状態へとうつれた後だ。
・すでに見たようにトラウマ記憶はバラバラになった未改変の光景や感覚や感情として存在する。EMDRは求めてもいない、一見したところ、無関係な感覚や情動、光景、思考、元の記憶とともに活性化する能力を持っているように見える。私が思うにそれがEMDRの最も驚くべき特徴だ。古い情報をまとめて新しいパッケージにするというこのやり方こそ、私たちがトラウマではない通常の日々の経験を統合する方法なのかもしれない。
・トラウマを負った人は凍りついた連想の中に閉じ込められている。ターバンを巻いている人は、誰もが私を殺そうとしている私を魅力的だと思う。男性は誰もが私をレイプしたいと思っていると考えてしまうのだ。
→その通り。男性に対する凍り付いた連想、年配の女性に対する凍り付いた連想、対人援助職に対する凍り付いた連想があるな。ここをとりあえず根こそぎブレインスポッティングしてみよう。
・自分の体の中に棲むことを学ぶ―ヨーガ
自分の体の欲求と自分の芯から結びつき直す経験が再びできるようになってくると、自己を心から愛するための全く新しい能力が備わる。自ら思いやる能力に今までにない信頼をおくことができ、そのおかげでわたしたちは自分の健康や食事、エネルギー、時間管理に注意を向け直す。このように前にまして自己を労わるようになるのは、するべき事に対する反応ではなく、自発的で自然なものだ。私たちは慈愛の中に直接的な本質的な喜びを経験出来るのだ。
・彼女は自分の心が愛する人に会うという気持ちの高ぶりと乱暴されるという恐怖と自動的に結び付けていることを初めて気づいた。幼い子供は自分の経験を分割して、それぞれを隔絶させるのにとても長けているので。アニーの父親の自然の代表と父親に暴行されるという恐怖は別々の意識状態に収められていた。大人になった兄は虐待されたのは自分のせいだと考えたかつての自分である。愛情深くて気持ちが高ぶった少女が父親をそう仕向けた。この暴行は自分が招いたのだと思い込んだからだ。理性的な心がそれは馬鹿げた考えだと教えてくれたが、この信念は情動的なサバイバルの奥奥。そこからつまり大脳辺系の。基本的な配膳から生じたものなので、それを変えるにはまず体の内部で充分に安全だと思えるようになる。日虐待の経験に注意深く立ち戻って虐待される前間にその少女がどのように感じ、どのように振る舞ったのかを本当に知っても平気でいられるようにならなければならない。
→自分のせいだって思ってるんだよな。ここは多分母とのことをブレインスポッティングしたほうがいい気がする。
内側が麻痺する。無力感の記憶は、影響を受けた身体領域の筋肉の緊張や各部がばらばらになった感覚として保存されることもある。その領域は、事故の被害者では頭や背中や手足、性的虐待の被害者では膣や肛門だ。多くのトラウマサバイバーは望まない感覚的経験に備えて、それに影響を受けないようにすることを中心に毎日を過ごすようになるし、私がクリニックで見る人のほとんどがそういうふうに自己を麻痺させることの達人になっている。彼は暇になったかと思うと拒食したり、あるいは運動や仕事に過度に熱中したりすることもある。麻痺させることと表裏一体になっているのは刺激を求めることだ。自分の体を切ることによって麻痺した感覚をやろうとする人も多いし、バンジージャンプをしてみたり、売春やギャンブルのような危険な行動を試したりする人もいる。こうした手法によって、偽りの矛盾した自己制御の感覚を抱いてしまうことがある。長期にわたって怒ったり怯えたりしていると、筋肉が常に緊張状態になるために、いずれ痙攣や背中の痛み、偏頭痛、繊維筋痛症といった、何らかの慢性疼痛の症状がでる。そうした人々は、さまざまな専門家に診てもらい、多様な診断検査を受け、オークの薬を処方されるかもしれない。
→避けまくって生活するのがもう少し緩まるといいな。
・自律神経の調節がうまくいってない人は、精神的にも身体的にもバランスを崩しやすい。自律神経系は体と脳の両方の覚醒を司るので。心拍変動が少ないと、すなわち呼吸に連動して心拍数が変動しないと思考や感情だけでなく、ストレスに対する体の反応にも悪影響が出る。
・重点を置いているのは、ポーズを正しく撮る事では無*、*の時々にどの筋肉が使われているのか、に参加者が気付くのを助けることだ。ポーズの順番も工夫してあり、緊張と弛緩のリズムが生まれるようになっている。それは日々の生活でも意識するようになってほしいリズムだ。私たちは瞑想そのものを教えないが、いろいろなポーズをしながら、体の様々な部位で何が起こっているのかを観察するように、参加者に流すことによってマインドフルネスを育んでいる。研究している時にいつも気づくのだが、トラウマを負った人にとって、体の中で完全にリラックスして身体的に安全だと感じるのは非常に難しい。トラウマからの回復に残されてる大きな課題の一つは、完全にリラックスして安心して見委ねた状態になれるようにすることだ。
・自分を本当に知るには身体的感覚を感じて解釈できなければならない。人生を安全に歩んでいくためには、その身体的感覚を認識し、それに基づいて行動しなければならないのだ。麻痺状態に陥る、あるいは埋め合わせとなる感覚を追求することによって、人生は耐えられるものになるのかもしれないが、人はその代償として体の内部で、起こっている出来事に気づけなくなり、そのせいで肉体的感覚を持ちながら思う存分に生きていると感じられなくなる。
・人は自分の体の要求を。自覚していなければ、体の面倒を見ることはできない。空腹を感じなければ自分に栄養を与えることはできない。不安と空腹を取り違えたら食べ過ぎてしまうかも知れない。満腹の時にそうと分からなければ食べ続けることになる。だからこそ、感覚を自覚する力を養うことが、トラウマからの回復にとって必要なのだ。本質とは、体の科学的な特徴と内臓とか親のどやどう?の収縮に刻まれている共同の状態だ。トラウマを負った人は自分の感覚に耐え、内部の経験友達になり新たな行動パターンを培う能力が自分にはあることを学ぶ必要がある。ヨーガでは、その時々のポーズと。その時々の呼吸と感覚に注意を集中する。その結果、情動と体のつながりに気づき始める。ヨガと同じで、セラピーで重要なのは、それに意識を向けてくださいと次にどうなりますか?の二つの言葉だ。恐れでなく、好奇心を抱いて自分の体に接し始めると、すべてが変化する。体を意識すると時間の感覚も変わる。トラウマを負った人は自分ではどうしようもない恐怖に満ちた状態に永遠にはまり込んでいるかのように感じる。ヨーガでは感覚は次第に強まり頂点に達し、そこから弱まることを学ぶ。例えば人、自分にとってとりわけ難しいポーズをとるようにインストラクターに流されると、そのポーズによって引き起こされる感情に耐えられないだろうと予測して、最初は挫折感や抵抗を覚えるかもしれない。優秀なヨガ教師はどんなものであれ、緊張にただ意識を向けるように励まし、どれだけ長い間、それを感じる顔呼吸の回数で決める。この姿勢は呼吸を述懐するあいだと申しますという具合だ。こうすると不快感がいつ終わるのかよくしやすくなるし、新大敵苦しみとジョウ的苦しみに対処する能力が高まる。あらゆる経験が一時的なものだと気づくと、自分を見る目が変わる。
・先生が口にした言葉で、私がトラウマについて思い出したからといって、先生の信頼を失いませんでした。この言葉トリガーであり、誰も言ってはいけない恐ろしい言葉ではないと解ったのです。
・両足を変えるのように上げるものと骨盤に向かってとても深い呼吸をしているもの。このポーズを。するとパニックが始まりかけるのを感じました。特に呼吸をするポーズでは嫌だ。私は体のこの部分を感じたくないのにと思いました。でも、それから自分を抑えてかろうじてこういうことができました。体のこの部分が経験を見込んでいることに気づきなさい。そして、ただそのままにしておきなさいと、そこにとどまる必要もないけれど、さる必要もない。それを情報として使いなさいと。これほど意識的な形でそうできたことはなかったと思います。だから、そんなに怖がらずに意識を向ければ、もっと楽に自分自身を信じられるのだと思えました。
・ただ、自分の感情を抱き、それにのっとられずにいることが徐々にできるようになりました。
・非常時には非常手段を要する屈辱と感じるとどうなるかは誰もが知っている。私たちは全力をあげて自分を守ろうとして、あらん限りの生き残り戦略を講じる感情を抑え込むかもしれないし、激怒して復讐を画策するかもしれない。二度と誰にも傷つけられぬほどの力と名声を得ようと心に誓うかもしれない。大半の自己破壊的行動や一部の強迫観念や脅迫行為、パニック発作といった精神医学的問題に分類される行動のオークワ。もともと自己防衛のための戦略だった。トラウマに対するこうした適用は、時に正常な機能を妨げるおーきな障害となるので。医療医療提供者も患者自身もしばしば完全な回復は到底望めないと思い込んでしまう。だが、攻撃性抑うつ状態、傲慢さや終局性が学習された行動と考える方がはるかに有益だ。トラウマの適用も本人が安全を実感し。トラウマと戦ったり、それを撃退するしたりする状態にはまりこんでしまった。自分の部分を全て統合できるまで続く。サバイバーがしばしば払う代償にも驚きはしない。その代償とは、つまり自分の体や心、魂との愛情に満ちた関係の欠如。問題への対処には犠牲が伴う。多くの子どもにとっては怒りをあらわしたり、逃げ出したりして養育者との関係を危険にさらすより、自分を憎む方が安全だ。その結果、虐待された子供は自分はそもそも愛らしくないと信じ込んで成長する場合が多い。そうでなければこれほどひどい扱いを受ける理由が子どもの頭で説明できないからだ。
→私はそもそも愛らしくないと信じ込んで成長した。そうでなければ、あれほどひどい扱いを受ける理由が私には理解できなかったから。
→実子は私との関係より自分自身を優先して出て行った。自分をあの子はあの時、高校に戻って有名大学に進学する道に戻りたかったから。ぎりぎりだったあの子が傍にいてサポートしてほしかったのは、その価値観を内面化している父親であり、祖父母だったんだ。あの子には価値観が大きく違う親に伝えて自分の行きたい方向性を否定されるかもしれない変数に耐えられなかったのかな。私と実子の向くベクトルが違っていた。ただ、なぜ私に考えを話せなかったのかが、わからない。ここが引っ越しの時の困難な経験によるものなのか、子育てをずっと解離し続けながら続けてきたことに起因するのか、どちらもなのか…。あの子にとっては引っ越しの時の経験は訳が分からず圧倒されたものだっただろうから、それが大きいかな。あとは、離婚のときの圧倒された感覚も処理できなかっただろうし、それも大きいかな。
・彼らの現実の大部分を否認したり、無視したり分離したりすることによって生き延びる虐待を忘れ、憤激や絶望抑え込み、身体的感覚を麻痺させる。もしあなたが子供の頃に虐待を受けていたとしたら、あなたの中におそらく当時の子供のような部分が残っていて。今のそうした自己嫌悪や否認をやめられずに居るだろう。悲惨な経験を潜り抜けてきた大人たちの多くも、同じ罠に嵌まっている。強烈な感情を払えば、短期的には首尾よく適用できる。尊厳や自立を保つのに役立つかもしれないし、専用を救ったり、子供の世話をしたり、家を再建したりといった重要な責務に集中し続けやすくなるかもしれない。だが、いずれそのツケが回ってくる。
・トラウマから回復する上で主要な課題は、現時点で過去の記憶に圧倒されることなく、それとうまく共存するすべを身につけることだ。ところがサバイバーの大半は生活のいくつかの面でうまく、あるいは見事に立ち回っている人も含めて、また別のより大きな試練に直面する。それは最悪の事態に対処するために構築された脳と心のシステムを再形成するという難題だ。トラウマ記憶を統合するために、その記憶に立ち返る必要があるのと全く同じように、生き延びる手立てとなった防衛的な習慣を生み出した自分の中のいくつもの部分のもとにも、立ち返る必要がある。
・自己とは統一された存在ではなく、私たちの内部には幾つもの意識領域が存在し得るという説についてはどうだろう。分離脳の研究から新たに浮上したのは文字通り複数の自己が存在し、しかもそうした自己は必ずしも内部で相互に対話していないという見方だ。人工知能研究の草分けであるマサチューセッツ工科大学のマービンミンスキーはこう断言した。単一の自己という伝説は、自己に関する研究の対象を見誤せることにしかならない。人の脳の中に、異なる複数の心からなる社会が存在すると考えることは理に適っている。家族一人一人と同じく、同じそれぞれの心が協力して、互いに助け合いながら、他の心には決して知りえない独自の心的経験を持っている可能性がある。
→なるほど。武田さんが言ってたのこれかな。これ、教科書の内容と真っ向から対立する理論だわ。
・私たちの心とは、ひとりひとりの成熟度も興奮しやすさも見識の程度も苦痛の大きさも異なる家族のようなものだというものだ。ネットワークもしくはシステムを形成しており、その一部分のに変化が起これば、それが行われる部分にも影響する。
・セラピーでは、記憶処理の場合と同じようにペンデュレーション振り子運動が中核をなす。彼女が自分の窮状や苦痛に対処できるようになるためには、彼女自身の強さと自己愛の力を借りて自ら立ち直ってけるように仕向けなければならなかった。それは、すなわち彼女の中に眠る多くの資源に意識を集中することを意味した。そして私は子供の頃に彼女が受けられなかった愛情優しさを自分が与えることはできないのだと肝に銘じておく必要があった。セラピスト教師あるいは助言者として、幼い頃の窮乏の穴を埋めてやろうとしても、自分が不適切な時に不適切な場所に現れた不適切な人物であるという事実を思い知らされるだけだ。セラピーの重点は十。私との関係ではなく、彼女と内部のさまざまな部分との関係に置かれることになった。
・ご自身は子供の頃にそれなりの苦難を味わってきたけれど、自分を犠牲者とは考えないと心に決めていた。ピーターの強靭さと正確性のこだわりは?素敵だと思ったが。力に固執する内部の管理者はたいてい無力感を覚えないための防衛手段として生み出されている。ということにいずれ彼は気づくだろう。彼は拒絶や屈辱とは無縁の人生を築いていこうと心に誓ったが。皮肉なことに主と拒絶と共に日々を過ごしていた。癌病棟で死に接し、研究の費用を工面したり、研究結果を専門誌などに発表したりするために悪戦苦闘していたからだ。次のセッションにはピーターの妻も同席した。妻夫が自分を批判してばかりいることを話した。服装の好み育児法よく読む本の選択、知性、友人までその対象になった。ピーターはほとんど自宅におらず、気持ちよく通じ合わせてくれることは決してなかった。次のセッションで私はピーターに体を楽にして目を閉じ、自分の内部に注意を集中してもし情け容赦ない非難をやめたら何が起こりかねないか起こりかねない。批判的な部分に聞いてみるように求めた。ピーターは30秒ほどして自分自身に話しかけるの、どこからしく思えると言った。自分はでたらめな試す気はなく、実験により実証されているセラピーを求めて私のところに来たのだという。そこでわたしは自分も彼と同じく実験に基づいたセラピーの最前線に身を置いており、これもその一つだと請け負った。ピーターは1分ほど沈黙した後、こうつぶやいた。傷つけられると思う。私はピーターに、それはどういう意味なのか批判者に尋ねる訪ねるように促した。まだ目を閉じたまま彼は答えたあなたが他者を批判している限り、彼らはあなたを傷つけようとしない。さらに欠点がなければ、誰もあなたを批判できないと。私は彼に気付いたり、薬を受けたりしないように守ってくれてる批判者に感謝するようになった。それと彼を再び黙り込んだが、肩の緊張が解け、息遣いが深まりゆったりして。くるのが見て取れた。
怒れる部分についてもっと知りたいとピーターは答えた。私はそれは何歳なのか尋ねた七歳ぐらいだと言う。その子供が何を思っているのか批判者に教えてもらえるように、私はピーターに求めた。長い沈黙の後、ピーターは相変わらず目を閉じたまま自動機のある場面が見えていると言った。父親が少年、つまり彼を殴っている。彼はその脇に立ち、父親を怒らせるなんてなんか愚かな子供なんだと考えていた。痛めつけられている少年についてどう感じるか私が聞くと、ピーターは軽蔑すると答えた。少年は弱虫で泣き言ばかりこぼしている。父親の高圧的なやり方日本のスポーツカー。抵抗ハンコを示した時にさえ、その後いつもすぐに諦めて泣きながら良い子になると約束するのだ。彼には根性も熱い思いもなかった。私はこの批判者でしょうね。飲みに何が起こっているのかを確かめられるように分野退いてもらえないだろうかと頼んだ。これに対して批判シャワラン限りの勢いで前面に出てきて、少年意気地なし女々しいやつと罵倒した私は再度、ピーターに向かって少年に話す機会を与えるためにもしよかったら批判者脇を退いてもらえないだろうかと尋ねた。それとピーターは完全に心を閉ざし、私の診療室に足を踏み入れることは二度とないだろうと捨て台詞を残してセッションを後にした。だが、翌週から戻ってきた。
・再びピーターの波に向かい。見捨てられることに怯える部分をつけた。ピーターはまず、少年の弱さに嫌悪感を示したら?そうした反応示している部分を退かせるように私が求めると、ピーターの目には少年時代の自分の姿が浮かんできた。両親と暮らす家の部屋で一人。恐怖の森悲鳴をあげている。ピーターはこの場面を数分眺めていたが、その間ほとんどさめざめと泣いていた。少年がピーターに知ってもらいたいことはすべて伝え切れたかと私は尋ねた。それと見てもらいたい場面がまだ他にもあるという。例えば、東口に父親に抱きつこうと走り寄ったところ、母親の言うことを聞かなかったとして平手打ちを食らった場面だ。彼は時折この過程を中断し、両親がどうしてそのような接し方しかできなかったのか?2人がホロコーストの生き残りであり、それがどのような意味を持つのかといった説明を差しはさんだ。私はその子が邪魔だから退いてもらうように依頼してはどうかとピーターに助言した。すると毎回ピーターは自分のしたに立ち返ることができた。ピーターに少年にその経験がどれほど辛いものだったか、ようやく理解できたと伝えるように勧めた。そして、少年に彼を大切に思っている事を示してはどうかと提案した。説得を重ねたら、ピーターは少年を抱きしめた。しばらく間をおいて。ピーターにその場面に戻って、少年をそこから助け出すように促した。ピーターは一人前の男として父親と対峙する自分を想像し、父親にこう告げた。もしこの子にまた手を出したら、私が駆け付けて殺してやるからな。そして想像の世界で、ピーターはその子供を自分の知ってる素晴らしいキャンプ場に連れて行った。少年はそこでピーターに見守られながらポニーと一緒に遊び回ることができた。ある日、ピーター成人してからは過去と決別しようとして毎日を過ごしてきたとかかたり、過去を手放すためには過去に近づかなければならないとなんと皮肉なことだろうとしみじみ言った。
→幼少期のブレインスポッティングしておこう
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