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光と闇
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はじめは子宮の中だったと思う。
その暗闇の中で、生命となり、人間の形になった。
母の胎内。暗闇で約10ヶ月。
変形を繰り返す私たちは、最初に闇に守られる。
だからそもそも“根暗である”というのは割と、エスカレーターですいーっと導かれるようなものだと思っている。と友人に力説してみた。
「いやちょっとそれはよくわかんないわ。」という事であった。
子供になった頃は少し、闇が怖かった。
裏山にある墓場の雰囲気や、“見えない”事への恐怖。気配と想像力だけで構成された世界。
大人になり、泳ぐ気持ちで夜を散歩するようになって。
闇と少し仲良くなったのだと思う。
大好きな漫画のドラゴンヘッドに出てくる、あの登場人物も、大切なのは闇と友達になるんだと言っていた。
闇と仲良くできるようになったのは何故か?
そこにはいつも光があったからだ。
メガネレンズに乱反射する街灯。
点滅する自動販売機。
車のヘッドライト。
閉店する事のないコンビニエンスストア。
闇にいながら、闇の心地良さを利用して。
光と戯れて夜を歩いた。
さて、ここからは会話をしたい。
昨年開催されたあいちトリエンナーレ2019のプログラムの一つ。
サカナクションが出演した「暗闇-KURAYAMI-」その会場で私は、新たな感触を得たのです。
ライブの演出はとてもユニークで、アーティストが出演・演奏するも、観客からは全く観る事ができない状態で展開され、ライブの、音の、空間の価値を問い直す、試みであったのですが。
“目を開けているのに見えない”という状態はきちんと不安で、今、音がどこにあるのか?何か見えるものはないのか?と脳にどんどん問いかけの指令が走って、ずっと何かを探しているけれど見つからない、見つからないけれど探してしまう。の繰り返し。
最小限の演出の中で、火の玉のような光が右手に。ふわっと浮かんだことを目でとらえた瞬間。
あ——————っ———っ。
これは、あれだ、創作の初期段階。
何かが掴めそうでつかめない、不安、不安、不安。
その暗闇の中で見えた光は、どんなに微かでも、心をあたためた事だろうと思う。そんな事が急に腹落ちして、多くの創作者達の事を思ったのです。
そしてまた、演者と観客という立場でもそうだろう。
暗転した中で見つめる先、その光の下にてライトを浴びる人たちを、暗い所からじっと見ているのが、好きなのでしょう。
決してそちら側にいく事は無いと、太い線を引いているからなおさら、暗い場所からそっと見ていたいというのがある。
Kanaさん、そちらはどんな場所で、どんな音が鳴っていますか?