亡き父とセルビア語の辞書
15年近く前、セルビアの田舎町で開催されたセルビア語のサマースクールに参加した。
サマースクールを終えて田舎町を後にして首都ベオグラード駅近くにあるバスターミナルに降り立った。
夜行列車でブルガリアの首都ソフィアに向かうまでに、まだ時間がある。
バスターミナルを出て、セルビアの町に向かって歩き出した。
町を歩いていると、公園にフリーマーケットのような感じの店が出ていた。
眺めながら歩いていた。
ふと一軒の露店の前で立ち止まった。
古本屋のようだ。
セルビア語のサマースクールに参加したといっても、私のセルビア語のレベルは超初心者。
一般向けの本が読めるわけではない。
それでも、どんな本があるんだろうか、並んでいる本を眺めていた。
そこで目に留まった一冊の本があった。
「セルビア語⇔英語の辞書」である。
値段を尋ねると、日本円に直すと決して高くない値段だった。
この後、日本にすぐに帰るわけでなく、10日近く寄り道する予定。
正直、荷物を増やしたくない。
今日セルビアを離れると、このまま戻ることもない。
日本で辞書を手に入れようとすると時間もお金もかかる。
そこで荷物になるのを覚悟で買うことにした。
その後、セルビア→ブルガリア→ルーマニア→ドイツ→日本
2週間近く、持ち歩く羽目になった。
そして、日本に帰国してから久々に実家に立ち寄った。
珍しく父親がいた。
カバンから荷物を取り出している時に、辞書も一緒に出していた。
それを目にとめた父親が声をかけてきた。
「その本、何の本?」
普段は、私の所持品には無関心なのに珍しい。
「セルビア語⇔英語の辞書」と答えると、
手に取ってぱらぱらとめくり始めた。
そして、ひとこと。
「紙質がずいぶん日本のと違うんだな」
父に言われるまで気にしていなかった。
部屋に戻り、手じかにあった国語辞典を持ってくる。
確かに、国語辞典で使っている紙は薄い。
加えて粘りが強い。
(だから破れにくい)
一方セルビア語の辞書の紙は厚くて破れやすい。
なるほどな。
話しかけられないと気づかなかったな。
その後セルビアで買ってきた辞書を使う機会はほとんどなかった。
そして翌年の夏、父はなくなった。
父親が亡くなってから、ずいぶんと時間が流れた。
本箱の本も何度か入れ替え、使わなくなった本はその都度処分してきた。
そんな中、ほぼ使ったことのないこの辞書は本箱の片隅にずっと残る。
今日久々に辞書を本棚から取り出したら、表紙の絵が退色し一部消えていた。
太陽に当たりやすい場所に並んでいるわけでもないのにな。
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