言葉は器かそれともクッキーの型か(エッセイ)

英語の授業は分かる。
英語が喋れないからだ。

数学の授業も分かる。
たくさんの公式を知らないからだ。

でも国語の授業は分からない。
だって私たちは日本語でコミュニケーションをとっているからだ。

私の自慢は四カ国語で自己紹介できることだ。
まず日本語。あとは英語、フランス語、中国語だ。
日本語はいわずもがな母国語だ。だから喋れる。
英語は中学生の頃から習い始め、大学三年生までやった。本来は二年生までで済むところを三年生までやった。なぜなら単位を落としたからだ。
フランス語も大学で学んだ。副外国語という枠があり、フランス語を選んだ。しかし単位を落とした。
フランス語がダメだったらから中国語を履修した。単位は取れたがC評定だったと記憶している。

そんなわけで私は四つの言語で挨拶をすることができる。ボンジョルノ。

どれも中途半端ですらなく、きちんと「できない」わけだが、それでも一端に触れて感じたことがある。
単位を落とした私の言えたことではないが、それは

日本語は別格に難しい

ということである。

日本語の難しさとは何だろうかと考える。
ひらがな、カタカナ、漢字があること。
一人称や二人称を表す言葉がたくさんあること。
敬語ひとつとっても尊敬語、謙譲語、丁寧語など細かくニュアンスが分かれていること。
様々あるけれど、一番はひとつひとつに宿る「語感の繊細さ」だと感じている。

悲しい。
切ない。
儚い。
虚しい。
侘しい。
やるせない。

どれも大雑把に片付けるならおんなじ箱に放り込まれる言葉である。
ただ、自分がA型であることを自信をもって公言するような女の子に片づけさせるなら、これらはきちんと別々の箱に収まることになる。

私は言葉を

感情の器

だと思っている。

自分の感情を知りたい。
誰かの感情を知りたい。
自分の感情を誰かに伝えたい。
自分の感情を残したい。

きっと言葉をもたない人たちの中にはその願いをもち続け、叶えることができずに命を終えた人もたくさんいるはずだ。
彼はきっと、絵を描き、音楽を奏で、抱きしめ合った。そして、それでも通わせきれないお互いの感情にやきもきしたに違いない。

それが言葉を器にするだけで簡単に自分の感情を触れることのできる形にすることができる。
抱き合いながら「愛している」と言い合えるだなんて、こんなに素晴らしいことはないのである。

日本語は語感が繊細だと思う。
似たような言葉がたくさんある。似ているが別の言葉であるからには、別の意味を、感情を入れることができる。少し持ち手が長いとか、表面の質感が違うとか、重量感があるとか、触れてみないと分からなくとも、確かに別の器であるはずなのだ。

特にオノマトペ。擬態語。
きらきら、ふわふわ、もちもち、つるつる、ぴかぴか、ざらざら、はらはら、さくさく
その種類と、ひとつひとつの語感の違いの多さと面白さはコレクションしてガラスケースにいれて飾りたいほどである。

それだけ様々な種類の言葉の器があるのはなぜだろう。
それはきっと、私たちが複雑な気持ちを持ち合わせる生き物だからである。
そして、それを誰かに伝えたい、誰かと分かり合いたいと切に願う生き物だからである。

複雑な感情を伝えるためにそれに見合う形の器をたくさん生み出した。
それが日本語の魅力だと思っている。

しかし、である。
私たちは分かり合うことはできない。どんなに慎重に丁寧に言葉の器を選んでも、そこに薄い壁がある。器に入った水と水そのものはやはりどうしようもなく別のものになる。
だから分かり合えない。
だから分かり合いたいと願う。
だから言葉を選ぶのである。

そうやって伝え合おうとする思いにある種の感動があるのだが、今私が伝えたい感動を入れる器にたる言葉はやはり見当たらない。
でもとにかく心が動き、琴線に触れ、胸が熱くなるのである。

一方で私たちの感情が言葉によって退屈な枠組みに収められてしまうということはないだろうか。

今感じている心の機微を丁寧に表現する手間を省いて、近くにあった分かりやすい言葉の器に入れ込んでしまう、そんなこともきっとあるように思う。
もしそれを音楽にすれば、絵にすれば、もっと近付けたかもしれないのに、「嬉しい」「悲しい」「むかつく」なんてつまらない器に入れてしまっていたとしたらそれは本末転倒な気がする。

言葉は器である。
同時に私たちを定型に区切ってしまうクッキーの型になりうる。

せっかくなら自分の複雑極まりない感情にしっくりくる言葉の器を見つけ、それを誰かの器と交換しながら生きていけたらなあ、と考える。

そしてきっと国語の授業は、そうやって誰かと通じ合うための苦しみや喜びを学ぶ場だったのではないか、なんて今になって思っていたりする。メルシー。シェシェ。

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