聖句を思いつくのと啓示との違い

今思うと幼いときから霊感があって
その感覚を中心として世界をみていたのに
最近になって気が付きました

これがみんな普通だと思っていて
そのことに触れないのは
ただの価値観の違いだと思っていましたが

実は感性の違いで
しかも霊的感性からみるという習慣性は
普通していないというのに
気が付いた時は
とてもびっくりしました

信仰のある方は多く
この感性を持っているかと思いますが
今一つ混在しているような場合も
あるかと思います

なのでその辺について私も混濁中から
理解できた部分というのがいろいろあり
その辺について研究していきたいと
思います

祈りの中で聖句を思いつくのは暗誦と同じになることも


例えば聖句を祈りで思いつくというのは
多くの場合実は理性的な感性の範囲かと
自分は思っています

つまり聖書を口で暗誦するのと同じで
確かに例的に湧き出てくるものではありますが
実際のところ預言者たちが啓示的なものを
受けるにおいてやっている作業を
私達は特にしていないのです

なので湧き出てきてとんでもない感動があるのですが
それは霊的な意味での暗誦みたいなものと同じかと
思うべきだと思います

私がそう思うのは
実は禅という修行を高校の時に仏教系の高校だったので
したことがあります

勿論初歩的なことだけですが
そしてちょっとしたことから霊界にいった体験がその後にあり

その感覚からして聖句を私も浮かんでくることはあるのですが
悟りに導かれるというのと同じような感じがしています

それは素晴らしい助け手でですが
しかしながら何か物足りない部分もあります

それで違う体験で神様のある種叫びみたいのを聞くときは
聖句の内容と似たようでありながらより生きた形で
伝わってくるという感覚があります

だから聖句の行間ではなく聖句そのものだと
二つの体験からしてどうしてもそれは入り口ではないかと
そう感じてしまいます

どうして同じ啓示なのにそうなってしまうのでしょうか?

聖書はもちろん啓示ですが偶像にもなる


その理由は簡単です聖書の啓示は
受けた預言者みたいな人以外は
完全な生のままでの状態にはならない

どうしてもそこに解釈が含まれてしまうからに
他なりません

それだとじゃあ聖書そのものをいくら
勉強しても仕方ないじゃないかと
そうなるかもしれませんが

別にそうではなくて
そんな偉大な啓示を受けられない
私達に具体的な形で提示してくれている
それが聖句です

なのでそれそのものもそのまま受け止める
必要は当たり前にあります

けれどその判明受け取る私達の霊的な認識
というか霊性みたいなものを深める必要があります

さらに加えていうなら預言者たちですれ
認識の限界があり神の言葉を
そのまま全て完全に受け止められていないと
現代の科学的な見解では考えられます

だから啓示としての価値は変らないにしても
受けた人間の限界値があるということを
考えていないということがある種霊性を
発展させるストッパーになっているのかと
思います

確かに聖書の多くは
無になって祈りの中で
歴史的な預言者たちなどに
啓示されたものです

その内容に間違いもなく
啓示ではありますが

人が受け取れる範囲は
キリストでもない限り
どうしても限られてしまいます

そこにタブーである
像を刻むということが
生じてしまいます

これは仕方ないことです

ただこれを意識してより深い認識に
至れる感性を持つように祈りを
心がけることで

きっと今までにない深い世界を
体感できるかと思います

皆さんによき導きがありますように………

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