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【#熟成下書き】物語が消えるということ、生き延びるということ

これは、とある作品から物語のいのちを考え出したオタクの、心境と布教である。

最初の疑問

ふとした時にTwitterにのぼる話題、「若者が忠臣蔵を知らない問題」。

その議論は波及し、時代劇番組の少なさや忠臣蔵を中心とした仇討ち作品の存続に関する話題も見られた。

Twitterサーフィンをしていた私は、とある意見群にたどり着いた。

「仇討ちなんて現代人からすればよく分からない復讐劇だ」
「絆とか忠義といった価値観への共感が薄れている」

たしかに、現代では復讐はなにも生まない身勝手な行為だ。
絆という言葉を依存的な関係への皮肉ととる解釈も知っている。

その視点で見ると、仇討ちモノは大衆の共感を得られるコンテンツではないのかもしれない。

共感が得られないからおおやけに取り上げられずに時が過ぎ、世代の移り変わりでフェードアウトしていく。

ほんとうに、それでいいのだろうか。

語られなくなったものがたりは、どこへ行ってしまうのだろうか。

物語を消すということ

あえて能動態で書いた。

物語は、人の手で書かれ、話され、演じられ、次代へと伝わっていく。

そこになんらかの記録媒体が介在したとて、その核は無形である。

歴史資料のように、ふとした出来事で読めなくなったりすると、遠い未来へじかに繋がる記録媒体は断たれてしまう。

つまりは、人の記憶や口伝をなるべく太く長くつなげることが物語の生命線だと私は考えている。

語られなくなった物語はいつか未来で掘り起こされる、なんて考えてはいけない。私たちが記憶の中継点を果たす役目を持たなければ、いつか突如として物語は立ち消えかねない。

「古い価値観の物語なんだから消えてもいい」というわけではない。
そのような時代があったという事実が忘れられた物語とともに消滅するのは、価値観の優劣で決めていいものではない。とんだクソリプである。

価値観の違いを割り切り、そのような考えが過去には存在したという事実だけでも残すべきである。

共感できない物語を継ぐには

しかし、現代の人が共感しがたい物語を人の記憶に残すというのはたいへんに難儀なことである。

そもそも興味を持たれなければ、食わず嫌いをされる。
言ってしまえば、「売れない」。

売れないから、作らない。

作らないから、知られない。

知られないから、忘れられる。興味を持つ人もいなくなる。

マイナーになればなるほど、インパクト抜群の起爆剤が必要になる。

ほかの知名度を活かし、ほどほどに大衆に寄り添った、新しいものが。

古い物語のアレンジの例示としてみる「SOGA」

「ミュージカル刀剣乱舞 髭切膝丸双騎出陣2019/2020 ~SOGA~」
もしくは歌舞伎などの題材となる古典「曽我物語」をご存じだろうか。

曽我物語の中心的事件、曽我兄弟の仇討ちは忠臣蔵、鍵屋の辻の決闘と並ぶ日本三大仇討のひとつである。

平安末期、所領争いの巻き添えで河津佑通が工藤佑経の刺客に襲われ亡くなった。
(2022年大河ドラマである鎌倉殿の13人のメイン登場人物・伊藤祐親は曽我兄弟の祖父にして所領争いの当事者である。果たして大河で描かれるのだろうか。)

幼くして遺児となった佑通の子、一万(いちまん)と筥王(はこおう)は将来に父の仇を討とうと誓う。

兄弟は一度引き離されるも成長後に再会し、ふたりで時の将軍・源頼朝の重臣となっていた工藤佑経を討った、という話だ。

「SOGA」では、この物語を約1時間と少しのミュージカルに翻案し、刀剣乱舞のキャラクター、髭切・膝丸兄弟による劇中劇に近いポジションで描いた。語り部・母・箱根別当は花組芝居の加納幸和氏によるひとり3役で演じられた。つまり刀剣乱舞のキャラの関係性を知らなくてもいち新作ミュージカルの感覚で鑑賞できる。

曽我物語から比べると人間関係をなるべくシンプルに、そして劇中に一貫して「雁が音」というモチーフを設けて心情描写を強めている印象を受ける。

特に取り上げるとすれば、曽我物語とラストの展開が大きく異なる。直接的なネタバレは控えるが、他の方が書いている考察などでこの違いはよく取り上げられているため、事前に知りたければそちらをご覧いただきたい。

話を戻すが、これも仇討ち、復讐劇である。

しかし武士の世ではこの兄弟のひたむきさ、気高さがひとつの手本ともなった。

ここのずれをどう見せたかについて述べたい。

曽我兄弟は仇討ちを果たすも、その激戦の末にまもなく亡くなった。
薄暗く雨音のやまない舞台に兄弟の死を知った母がなだれ込むように登場。
仇討ちのために生き先立った兄弟を想い泣き崩れ、兄弟を、そして夫の死に少なからず思うところのあった自身を「ほんとうに愚かよのう」と嘆く。
「私はただ、貴方たちに生きていてほしかっただけなのに」

本編のほとんどを通して、矜持をもって仇討ちの誓いを果たそうとひたむきに生きる曽我兄弟に強くスポットを当てて描き、
すべてが終わった後にそれまで立派に育てようと兄弟を窘めていた母が複雑な嘆きに暮れるさまを描き出す。

どちらも価値観として存在する/した、どちらも完全な間違いではない。

そんな書き方が、「SOGA」の神作たるゆえんだと私は考える。

この布教の元となる自分のスレッドのトップ部分を添えておく。

あえて翻案しない粋の例示としてみる落語

NHKの地上波やラジオではよく落語が流れる。
(もしや西のローカルではあるまいな。)

私はまだ落語ファンではないためわざわざチャンネルを変えてまで見はしないものの、点けていた流れでしばしば鑑賞する。

ゆるりとしたコメディ感と語感のキレがなんともいえずおもしろいものだ。

その前説でしばしばこんな感じの定型文が流れる。

現代において不適切と思われる表現がありますが、上演当時を尊重し、そのまま放送いたします

現代のいわば後出しの倫理観よりも原典の時代のセンス、同一性をとったパターンだ。

この前説のおかげで私たちは
「まあ、そういうものだよね」
と頭の中で時代を逆行させてその時代の表現として楽しむ手助けになる。

小説や漫画でいう「これはフィクションです」
同人誌でいう「なんでも許せる人向け」

これに類する上のような注意書きがあってなお表現を指して食って掛かる人間はむしろモラルに反している、野暮ったい、ということだ。

総括

現代に合わせて極端にアレンジしてでも物語の存在を市井に認識させる、そうすればいつかは原典にたどり着く観客が現れる。

もしくは、時代にそぐわないことを前置きしてそのまま語り継ぐ。

物語という命をを生かすも殺すも人間次第である。

現代の私たちの「不適切」のひとことで故意に殺された物語はいくつあるだろうか。

そして今の私たちの姿勢はきっと、未来での私たちの時代の物語の存否というかたちで返ってくるだろう。
私たちの名作もいつ消えるかは誰も分からない。

物語という多くの命に言祝ぎという生存戦略を。未来へ語り継ごう。

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