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涙が出た=感動したとは限らない
登場人物が可哀想な目にあっているドラマや映画を見るといつも涙が出るけど、涙が出るからといって自分が感動しているのかどうか疑うべきだと思うようになった。
私にも感情があるので、可哀想な人や辛い出来事が映像として目や耳から入ってくると、どうしたって脳みそやら心やら神経やらが反応して涙が出てしまう。けどそれって生理的な反応の一つな訳であって(人間がなぜ泣くのかはよく知らないけど)、それに自分の心が喜んでいるとか救われているとか、そういう反応と必ずしも一致するわけではないんじゃないだろうか。
「泣ける」とか「感動作」と冠言葉がついているドラマや映画は多いけど、泣けるとか感動するとかって一体何なんだろうって思う。自分の心の奥深くの深くのところに尋ねてみると、少なくとも今の私が見て聞いて心が本当に喜ぶのは、例えば『うっかりペネロペ/いいゆめをみるおまじない』でコアラの女の子たちが蜂みたいな羽をつけて花畑で羽ばたいているシーン。「夢の中でいたずらしよう」って歌ってまわるあのシーンを見ると、なんでだか分からないけど胸の奥底がじわっと満たされる感じがして、ずっと自分に足りなかった部分がいっぱいになっていくようで、嬉しくて幸せで涙が出てくる。これはきっと感動なんだと思う。
だけど可哀想な話、辛い話、例えば普段考えないようにしているようなテーマをグサグサ刺してくるような話、そういうのを見て聞いて生理的な反応として涙が出て、これって感動してるような気がしてるだけで自分で自分の心を傷つけてるようなものなのではないだろうか。そういうことをする心の余裕があれば、娯楽の一つとか学びや教養を得るための行動の一つとして捉えられるのかもしれないけど、自分から泥沼に足を踏み入れるみたいで、幸せって何なんだろう。
例えば私が世の中の悲しい出来事や難しい出来事のことをたくさん学んで、たくさん悲しんで一緒に傷ついて、それが原因となっていつも沈んだ顔をしていたとしたら、私の周りに暮らす人たちは喜んでくれるだろうか。幸せな気持ちになってくれるだろうか。
例えば私が世の中の何も知らなくても、楽しいこと好きなこと嬉しいことで目の前がいつもいっぱいで、ワクワク笑顔で生きていたら、私の周りの人達はそれを見てやっぱりうれしさが伝染して、喜びとか笑顔が増えるんじゃないだろうか。
遠くの人よりもまずは目の前の人を幸せにしていかなきゃって昔読んだ言葉がずっと忘れられない。
賢い人にならなくていいからいつも何か喜びが目の前にある素敵な人になりたいな。
おわり
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