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知るとか、言葉にするとか、伝わるとか。

いまこうして世界各地で起きていることを知れるような気がして。でも、結局何を持って「知った」ことになるんだろうと途方に暮れるほど、情報が溢れかえっていて。そのように情報が「ある」とあたかも「知っている」ように思いこんでいること自体が間違いなのかもしれないと、ふと考える。

自分のささやかな日常の、ほんの目の前にある大切な人や出来事。一方でそれらを日々愛でながら、他方でそれらを囲い込みすぎずに誰かに対する配慮や想像力、つまり「別のあり方」をも認めることを大切にすべく自らの日常を相対化しようと努める。しかし、そのとき言葉がなんだか丁寧になりすぎる感じがする。自分の日常で語れる言葉でないからかもしれない。

多少無理をしてでも手に入れようとする価値や言葉は、まだ履き慣れない新品のスニーカーのようにちょっと硬くて、履きこなしたいのだけどでも汚したくもない気持ちも働いて、とにかくぎこちない。でも、その新しい靴を履いて「これは大切なんだよ」と、まるでそれなりに履きこなしてきたような顔をして言うときの感覚はなんだろう。嘘はついていない。でも距離がある。それでも手繰り寄せたい。諦めたくはない。

この気持ちは、自分の日常が脅かされる可能性を誘発する。本当は地続きなのだ。思い返せば本当はこの日常だってぐらついている。しかし、「地続き」だと強く自覚してしまったら、別の意味で「言葉」を話せなくなるかもしれない。少なくともそれは「情報」ではない。そのとき、「表現」というものに対する当事者性が増すのだろうか。あるいはそれが「引き受ける」ということなのだろうか。

断片として降り注ぐ情報に、やはり日々疲れているのだ。情報から「考える」ことにつなげるのは、当たり前のようでいて、難しい。多分、そのあいだを架橋する作業が大切なのだ。各々の断片が形を失って溶け合ってゆくときに、新しい色彩や質感が生まれるということ。その手触りのある状態を、頭の中から引っ張り出したときに、やはり再び「情報」になってしまうのは、もったいないじゃないか。

ちょっと待つのも重要かも。
カップ麺なら3分間、どんべいならば5分間。人それぞれの熟す(こなす)時間。
すぐに蓋は開けない。
あるいは、中身よりも湯気かもしれない。
すなわち、「伝わる」とは、どういうことか。

とか。

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