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自分の心に従って生きるということ

2020年になりました。
あまり実感が湧かない数字です。

この節目の機会に、「これからの世の中に起きる根源的な変化」に思いを馳せてみようと思います。
特に着地はありませんし、結論もありません。五月雨式に書いているので、連続性のない箇所もあると思います。思いを馳せるプロセス自体がコンテンツだと思っていただければ幸いです。
そして、思いのほか長くなり最長noteになってしまいましたが、よろしくお付き合いください。

まずは、今現在進行形で、どんな変化が起きているのかをまとめてみるところから始めます。

①インターネットの普及
この四半世紀で一番の変化は、間違いなくインターネットが普及したことだと思います。

・文章も音楽も音声も映像も、全ての情報はデータ化されて、伝達コストがほぼ無くなり、クラウド上で共有される。

・情報の蓄積コストが限りなく下がり、無限のデータを保存できる。

・知識と記憶の外部化が進み「これについて知りたい」と思った瞬間にその情報にアクセスできる。

・発信コストがほぼ無いため、個人が情報を発信し、それがメディアとなり、社会への影響力を持つ。

・情報伝達は距離的・時間的制約から完全に開放され、「良いもの」は一瞬で世界中に浸透する。

このように、インターネットの普及によっていろいろなものが変化しました。その中でも僕らの社会にもたらした大きな変化は「所有の概念があいまいになった」ことだと思います。そしてこのことはあまり認識されていません。
インターネット以前は、モノや情報は物理的な形を伴っていました。そのため、「○○は××さんのものである」ということが直感的に認識することができました。

インターネットの時代は違います。
一つのデータが0コストで無限に複製され、シェア・拡散されるようになり、情報は物理的に蓄積し所有するものではなくなり「情報へのアクセス権」の重要性が増しました。誰のものかわからない情報がクラウド上に存在し、必要に応じてそこにアクセスすることが自然な状態になっています。
参考:Wikipediaの著作権

<引用>
ウィキペディアの目標は自由に利用可能な百科事典形式の情報源を作成することです。我々が使うライセンスは、フリーソフトウェアのフリーライセンスと同じ意味で、コンテンツへの自由なアクセスを許可するものです。つまりウィキペディアのコンテンツは、他の人々に対して同様の自由を認め、ウィキペディアがそのソースであることを知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布することができます。それゆえにウィキペディアの記事は、永遠にフリーであり続けるでしょう。改変や再配布などの利用に際して多少の制約条件はありますが、そのほとんどは、このような自由を保証するためのものです。

インターネットの時代に入ってから、経済的整備と法整備はギリギリのところで進んでいます。デジタルデータの著作権、発信者情報開示、個人情報保護、不正アクセス禁止法、電子送金。問題が検知されてからの後手対応ではありますが。

でも、哲学的、社会的な意味においては、特に変化はありません。クラウド上に保存してある画像と、デバイスに保存されている画像を、僕らは区別して所有していません。どちらも「私の画像」です。

このような”科学の進歩に合わせて、哲学が適切にアップデートされていない状態”というのは危ういです。気づきにくく、かつどんな問題が起きるかわからないからです。今まで通りのやり方でやっているのに、急にうまく行かなくなる。

問題の構造はこうです。
まず、”インターネットが普及した”ということは、主作用です。ということは、そこに必ず副作用があります。ちなみに、主作用と副作用という言葉は、僕らが恣意的に決めているだけで、どちらも等しく発生し区別はありません。

僕らは「インターネットを普及させること自体」を目的に普及させているので、「それによって、どんな影響が出るのか?」について思いを巡らせることはありません。必要性が無いからです。それを考えなくても、目的は達成されます。
このように、手段が目的化されているところでこの種類の問題は発生する気がします。

「ある変化が巻き起こす、目に見えない別の変化」を丁寧に追っていくことが、これからの時代では重要になってくると思います。


②AIの発達
僕はAIには全く明るくないので、ここでは深い考察はしません。
僕にとって印象的だった事柄を端的に紹介したいと思います。1年以上前の情報ですが…

まず、この画像を見て下さい。

画像1

これらの顔写真は、全て「実在しない人」のものです。
AIが人の顔を学習し、ランダムに生成した「ありそうな人の顔」です。
参考:Emerging Technology Review

もう一つはこちら。

これは、AIで合成された音声です。

これらの2つの例のどちらについても、僕たちは直感的に「あ、これは人間だ」と認識可能です。というより自動的に人間扱いするでしょう。

でも、どちらも人間ではないのです。

僕らは今まで、「人間」と「非人間」は直感的に判別できると信じていましたが、その時代は終わりました。「今自分が相対しているのは生身の人間ではないかも知れない」という疑念が常に付きまとうようになります。
「今自分が相対しているのが生身の人間でない」ということ自体は問題ではありません。ただ「その区別がつかない」という状態への向き合い方を僕らはまだ知らないのです。

このような根本的な認識のアップデートが僕らの社会に浸透するのには、少なくとも10年単位の年数が必要だと思います。
なぜならば、これは知識の問題にとどまらず、僕らの文化に深く根付いているからです。
「今自分が相対しているのは生身の人間ではないかも知れない」ときの向き合い方を表現する流行り歌やドラマ、小説、漫画。そんなものが当たり前に浸透して初めて、それは文化になり哲学になります。

”科学の進歩に合わせて、哲学を適切にアップデートすること” の重要性はどんどん高くなっていくと思います。


③VR、AR、MR

こちらについても素人なので、あまり大したことは言えませんが、僕らのコミュニケーション方法や、体験は大きく変わるでしょう。

VRゴーグルを付けて5.1chサラウンドに包まれて、さらに身体的フィードバック(風、重力や足元の揺れなど)まであれば、もはや現実との根源的な区別は出来ません。残るのは精度の問題です。
ちょうど20年前に公開された "The Matrix" の世界そのものであり、もっとさかのぼると、30年前に岡嶋二人によって描かれた「クラインの壺」の世界です。

画像2

"The Matrix"、"クラインの壺"に共通する、「これは現実の体験なのか、虚構なのか区別がつかない」時代がやってくるでしょう。


④オートモービル
これまた専門じゃないので、中心にある技術よりも周辺環境について考えてみます。

オートモービルの世界で、必ずぶち当たるのは「誰のせいで死んだのか?という憤りを整理する方法が無い」という問題です。
自動運転が浸透するのに合わせて、事故率・死亡率は減少していきます。完全に自動運転だけになったときは、劇的に下がるでしょう。
とは言え、絶対に事故は無くなりません。
すると、こんなことが起きます。

「全体としての死亡率は1/100になったかもしれないけど、それでも私の夫は死にました。このやるせない思いは、誰にぶつければ良いのでしょうか。」

自動運転は、死亡率を劇的に減らしますが、絶対に事故は無くなりません。そして、その事故は、誰か特定の個人によって引き起こされるものではなくなります。システムのバグによって「社会からランダムに殺される」のです。そこに意思は介在していません。

これも、先ほどの議論と全く同じ構造ですね。自動運転を普及する、という主作用だけが注目されています。


⑤コモディティ化と圧倒的に暇になる世界
グローバリゼーションはもはや当たり前の光景になりました。
地球上のどこかで生まれた事象や価値は、次の瞬間に地球上のどこか別のところで実現されます。
資源や労働力の偏りは、資本主義の原則に従って速やかに是正されます。一つの仕事を、世界中の人々で奪い合うでしょう。

同時に、AIとオートメションによって物事は際限なく自動化されていきます。
世界中の全ての工程は、資本主義の原則に則ってコストパフォーマンスが良いもの=経済的に自動化メリットが高いものから順にコストが激減していきます。いわゆるコモディティ化です。

逆に、単価の低い単純作業やマーケットの小さい仕事は最後まで残されます。

多くの人が暇にならない程度の仕事は残るかも?と考えることも出来ますが、民主主義×資本主義にがっちり固められた僕らの世界では、最後までその流れは止められないでしょう。

仕事を通じて社会と繋がり、その繋がりに生きている意味を見いだす。
今は当たり前のそんな生き方も、多くの人にとって関係無いものになります。

こうして「圧倒的に暇」になる人が激増するでしょう。
たくさん働かなくても一定の生活は保障される。
かといってするべきこともあまりない。
いわゆる「タスクドリブンな生き方」では行き詰まることが目に見えています。

圧倒的に暇になってしまった僕らは、どうすればよいのでしょうか?
その前に、もう一つ話を挟みます。


⑥定規を作る
「圧倒的に暇になる世界」の到来とともに、僕らの働き方・価値の出し方も変わっていくでしょう。
「決められた価値軸(=定規)に沿って競う」という手法は徐々に価値を失っていきます。「グローバリゼーション」と「自動化」によって、価値の定規が定められている分野は、必ずコモディティ化するからです。しかもびっくりするくらい短い期間で。

たとえあなたがそこに抗っても、必ず誰か別の人がコモディティ化のボタンを押すのです。これは資本主義の原則です。

翻って、これからの世界で僕らが何か価値を世界に提供し続けるためには、「新しい価値の定規」を作り出す必要があります。その新しい定規は、ニッチ向けでも全く問題なく、オリジナルであることが何よりも重要です(むしろニッチの方がコモディティ化を遅らせることができるでしょう)。

では、どうやってオリジナルな定規を作るのでしょうか。
言い換えると、ユニークで他の人に入ってこられない土俵を作るためには何が必要なのでしょうか、ということです。

⑦自分の心の声に従って生きること

ようやく本題=タイトルにたどり着きました。

去年「ハートドリブン」という本が話題になりました。すごく面白いので読んでいない方は是非読んでみて下さい。今ならamazon unlimitedで読めます。思想的にすごく親近感があります。

圧倒的に暇な時代と、オリジナルな定規の必要性。
そのヒントはこの「ハートドリブン」という言葉の中にあると考えています。
僕はハートドリブンであることを、「自分の本当の心の声=感情に従って生きること」だと理解しました。

これは言い換えると、「周囲の人や環境に囚われない」ということになります。

これが正解だと思うから。
周りがこうしているから。
こっちの方がより論理的だから。
こうした方が良いってみんなが言うから。

そういうのはもうやめにして、他者に流されず、自分の心の声に従って生きることを始めませんか?そんなメッセージをこの本からは感じました。

圧倒的に暇になったら、自分の心の声を聴くことに莫大な時間を割くことができます。そこに制限はありません。

世界に一つしかない「自分の心の声」を定規にすることで、なかなかコモディティ化しない、全くオリジナルな価値を生み出すことができます。

さらに、周囲の環境に従って「やるべきことをやる」のに比べ、圧倒的にエネルギーが湧きます。だって、自分の心の声に従っているのですから。


⑧自分の心は成長させることができる
「自分の心の声に従って生きる」ことは、非常に合理的で競争力のある生きい方ですが、長い間変わらない心の声に従って行動すると、さすがにコモディティ化してしまいます。

だから、時間をかけて自分の心を少しづつ成長させていくことが大事です。

僕は、この「自分の心を成長させること」を、「新しい価値観を取り入れること」と定義しています。今の自分の価値観=定規とは異なる、誰か別の人の相容れない価値観を取り入れるということです。

新しい価値観を取り入れるときには、必ず大きな葛藤があります。
二つの相容れない価値観を丸ごと包み込むような、新しくてより抽象度の高い価値観を見つけ、それを取り入れる必要があるからです。アウフヘーベンです。

最初の拒絶反応を乗り越えるためには、一旦信じてみることが有効です。
「この新しい価値観の良さは絶対にある!自分はそれを絶対に見つけられる!」と。

その新しい価値観にも、背景があり理由があり、歴史があります。
その価値観がそこにあるということは、それが存在する「しかるべきストーリー」があるのです。

そのストーリーを見つけてひも解くことが、新しい価値観を取り入れるコツかも知れません。

このあたりは、人によっていろいろ感じ方が違うので、是非自分にしっくりくる取り入れ方を探ってみて下さい。


⑨最後に
だいぶん取っ散らかりましたが、僕がここで書いたことも一つの価値観です。取り入れるのも、別のものを探すのも自分次第。

ただ、僕みたいに「これが俺の価値観ですーー!」って主張してくることはそんなにありません。

だから、いろんなものに興味を持つことが大事なんだと思うんです。自分が今は興味を持てていない事に。

これってどういうこと?
なんでこの人こんなこと言ってるの?
どうやってこんなことになったの?

そうやって、新しい価値観に触れる機会を能動的に増やしていくことが、僕たちにできることなんだと思います。

思いがけず長くなってしまいましたが、
今日はこの辺で。


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