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夫がTVを設置してくれた、という話。

amazonで購入したTVが届いた。豪雨と言ってもいい雨の中、自宅まで運んでくれる運送業者さんには本当に頭が上がらない。いつもありがとう、お疲れさまです。皆様がいなければ生きていけません。

さて、設置しないといけないな、面倒だ。いや、それより先にお昼ご飯にしないとか。と、休日の夫のために昼食を用意しながら、ふと気づく。

TVの設置、夫に頼めばいいんじゃね?

一人だったら卵かけご飯でいいし、何時に食べても構わない昼食を、「夫が休みだから」それなりに真面目に、かつお昼の時間帯に用意する必要があるのだ。食べ終わったら洗いものもせねばならない。私が今すぐTV設置に取り掛かれないのも、取り掛かれるのがおよそ1時間半後になるのも夫のせいと言える。それに、一般常識で考えて「TVの設置を、休日の夫に頼む」というのは、妻のムーブとして、むしろスタンダードな気がする。
よし、頼んでみよう。

この思考、私にとってはかなり革新的である。
家のことは100%自分一人でやる母を見て育ち、かつ「母のように」ならねばならないと毒されてきた私は、何に寄らず「母と同じ」挙動をせねばならないと考えがちだ。
すなわち、夫の昼食を用意し、片付けをし、その後忙しい忙しいとボヤキつつ、TVの開封から設置までうんうん悩んで一人でやって、最終的に「ゴロゴロしているばかりで手伝ってもくれない、役立たずの夫」への不満を募らせて愚痴を言う。そういうムーブこそ”正しい”と、どうしてもそんな気がしてしまうのだ。
しかし客観的に見て、自分が何の仕事も振らなかったがために「役立たず」なムーブになってしまっている夫への不満、なんてどう考えても不毛だし、夫からすれば不条理の塊である。今私は「TVの設置は面倒だ」と思っているのだし、「新しいTV」というのは夫にとって割とキャッチ―な物体のはずだ。打診する価値はあるだろう。

問題は、果たして夫に「TVの設置」が可能なのかという点だが、仕事柄、車にカーナビを取り付ける作業はやっているはずの夫である。所要時間にさえ目をつぶれば、出来ない理由はない。

よし、頼もう。

昼食を食べつつ、玄関に鎮座する巨大段ボールの正体を明かし、開封・設置を依頼してみると、夫は元気よく快諾した。眉間に皺は寄っていないので、具体的な手順については、今の段階では考えが及んでいないようで、

「うっひょー!やっべー!めちゃめちゃ軽いよ!!TVってこんなに軽いんだってぐらい軽いー!!」

と嬉しそうに叫びながら、食後すぐにTVをリビングに運んでいた。子供か。
どうあれ、楽しそうで何よりである。私はのんびり食器を洗い、夕食の下準備をしてからリビングへ戻った。そしてそこには案の定、

「・・・あー、くっそ・・・これ無理だな・・・」

眉間に皺をよせ、舌打ち交じりに不穏な台詞を呟きながら、開封直後のTVを前に取扱説明書を睨む夫がいた。

以前の私なら、「厄介なこと頼んじゃってごめん!」と慌てて駆け寄り、夫の手から取扱説明書を奪い取って、すぐさま「TV設置ミッション」を引き取ってしまう所である。
が、今の私は一味違う(以下略)。のんびり食後の麦茶を飲みながら、夫の表情も舌打ちも独り言も、夫が取扱説明書を私の所に持って来るまで、完全シカトを決め込む。・・・つもりだったが、あまりに独り言がうるさいので、「困ってる?」と声をかけてみた。
なおこの声かけは、どこかの育児コラムで見かけたものを参考にしている。

「そう、これなんだよ!!ここにさー!」

夫はイキイキと(=眉間に皺を寄せ、怒ったような語調で)解説を始めた。どうも、新しいTVは両端にスタンドがあるタイプで、今まで使っていたTV台ではスタンドが若干はみ出してしまうらしい。中央に取り付けられるスタンドもあるはずなのに、それが同梱されていない、というのが彼の訴えであった。

TV台が小さすぎるのは買い換えればいいが(どうせ古くてボロいのである)、同梱品が足りないというのは由々しき事態だ。もちろんあり得ることだろうが、日本の家電メーカーが、そんなミスをヒョイヒョイやらかすだろうか。
私が取扱説明書を確認すると、やはり「同梱品が足りない」のではなく、取扱説明書が共通な2つの機種の内、「今回購入していない方の機種ならば、中央に取り付けるタイプのスタンドが付属し、つまり今回、中央タイプのスタンドが同梱されていないのは仕様である」ことが判明した。うん、紛らわしいのは同意するけど、メーカーのせいにする前に、説明書をよく読んでね。

その後1時間半ほど、夫はTVと格闘していた。途中「うちの郵便番号っていくつ?」という、大人として残念な質問が飛んできたりもしたが、概ね私が手を出すことなく、夫はTVを無事に設置し、視聴可能な状態にできた。
よしよし、お疲れ様。お陰でnoteがそこそこ書けたよ、ありがとう。

自分でやった方が明らかに早いことを、他人に頼む煩わしさはある。
作業開始から終了まで、不穏な舌打ちや独り言を聞き続けるストレスと、自分でやって忙しい思いをするストレスと、どちらが良いかと言われると、ちょっと即答できない。
だが、昨日の夫は間違いなく、「私の依頼で、新しく届いたTVを設置してくれた夫」だった。少なくとも「家のことを何もしない・できない役立たず」ではなかった。

私は自分の夫を、母のように「何もできない役立たず」とは呼びたくない。
彼の能力の一部が、私を下回ることはある。だが常識的に考えて、毎日働いているアラフィフの会社員が、一介の専業主婦よりも「何もできない役立たず」であるはずがない。少なくとも勤務中は仕事が出来るはずで、「家の事」の領域にも、仕事の能力で解決できる何かは存在するはずなのだ。

母が父にそうしていたように、過去の夫を「役立たず」にしてしまっていた責任の大半は私にある。確かに夫の眉間の皺や舌打ちは、夫に何かを頼みにくい原因だったし、夫の一部の能力の低さは「頼むと余計に面倒」という事態を引き起こす。
だが、「私より高い能力を持ち、あるいは私から頼みごとをされやすいような雰囲気を出せない」からといって、夫を責めるのはあまりに酷だ。

夫を「役立たず」と呼ばなくて済む方法を探すのは、私にとっても毒抜きになる。
「母のような母親、母のような妻にならない」ためにも、まだまだ慣れてはいないが、地道に頑張っていこうと思う。

↓前回の夫の記事はこちら。





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