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「第一子を愛せない」私が危うく第二子を持ってしまう所だった、という話。

ぼーっとnoteを徘徊していて、「日頃旦那の愚痴をよくこぼしているが、”なんでそんな旦那さんとの間に第二子を作ったのか”という論法をSNSで見て、キツイと感じた(意訳)」という話を見かけた。
確かにその論法はキツい。かくいう私も、第一子の育児で死にたいと思っている真っ最中に、危うく第二子を持ってしまう所だった。欲しいと思って第二子を持った人とはまた状況が違うだろうが、どう考えても地獄への片道切符だった。そんな私なので、「子供を複数持っているが、配偶者に文句がありまくりの人」を責める気にはなれない。

ただ、本音をボヤくならば、「第二子・第三子を望んで持っている人、持とうと思っている人」は、私からすればその時点でめちゃくちゃ羨ましい。
そもそも「もう一人産みたい」と思えるということは、一人目の乳幼児期の子育てが、総合的に見て楽しかった・幸せだったと記憶しているはずだ。
旦那さんがイクメンでなくても、実家の手助けが不十分でも、仕事やその他のストレスがあっても、それでも赤ちゃんが可愛かった。成長を見られて嬉しかった、楽しかった、幸せだった。そういう感覚があって、それが色んなマイナス面の記憶を凌駕しているから、もう一人産みたいと思えるのだろう。想像だが恐らく、間違いないと思う。

私は、二人目を欲しいとは思えなかったし、今も思っていない。
夫に期待できないと理解してしまったから、というのはある。母が毒だと気付いたから、というのもある。でも、それらは今の私の「もう産みたくない」を補強する要因ではあるけれども、あくまでも要素の一つであって、主な原因ではないのだ。

読んで下さっている方を不快にさせたら申し訳ないが、率直に、ボヤかさずに書こう。

私は、息子が乳幼児期の間、息子を愛おしい、とは一度も思えなかった。
子猫を見たときと同じ温度の「ああ、小さいね。可愛いね」という感想なら何度か抱いたことがある。朝顔が開いたのを見たときと同じ温度で「寝返りが出来るようになった、良かった」という種類の感想も抱いた。
しかし、それだけだ。
「我が子を見て、愛おしい気持ちで胸がいっぱいになる」なんてことは出産時もそれ以降も一度もなかったし、母乳を飲ませても感触が不快なだけだった。寝不足が酷い時期は「このうるさい奴、明日になったらいなくなっててくれないかな」「いっそSIDSとかで死んじゃってくれれば楽になるのに」と毎日思っていた。
子供を産んだことを心底後悔したし、子供が欲しいと考えてしまった自分の浅はかさを呪った。
泣く赤ん坊のうるささに耐えながら抱っこをし、不快な感触に耐えながら母乳を飲ませ、面倒くさい以外の感情を持てずにオムツを替え、着替えさせ、お風呂に入れていた。私を支えていたのは、なけなしの倫理観と義務感だけだった。
子供を産むまで「乳幼児を虐待する親」を安易に批判していた自分を恥じた。「自分の子供を自然に愛せる」というのは、当然ではなかった。
自分に何の喜びももたらしてくれない、多大な負担ばかりを強いてくる生命体を、「赤ちゃんは大切にしなくては」という理性だけで育てるのは、本能で自然に自分の子を愛せた人には分からない種類の苦行だと思う。産前産後のボロボロになった肉体に課される、ほとんど1時間おきに起こされる細切れ睡眠、数十分から数時間継続させられる、重りつきのスクワット。飴のない鞭だけ、ただの拷問といっても過言ではない状況だった。過労で辞めた、残業120時間越えのシステムエンジニア時代の方がどれだけ楽で、楽しかったか。

私が息子を虐待せずに済んだのは、辛うじてギリギリ運が良かっただけだ、と今でも私は思っている。間断なく襲いかかるストレスで私の理性のタガが外れるよりも早く、私の体は、眠りに逃げた。
息子が生後半年を過ぎた頃から、私は息子の面倒を見る最低限の時間以外、殆ど眠り続けていた。それまで私に「良い母親がするべき、理想の育児」を毎日せっせと説いていた母は、少なくとも私が眠っている間に家事はしてくれていたので、それが可能だった。
私がひたすら眠っていた期間、息子の生後半年から3歳あたりまでは、殆ど記憶がない。息子が初めて座った日も、立った日も、言葉を話した日も、母子手帳には記録があるが、私は何の喜びも感動も、そうした日があったことさえ覚えていない。私が覚えているのは、ただ毎日布団の中で、「いつになったら私は死んでも良いだろうか」「この子が成人するまでは、生きていなければいけない」と泣きながら考えていたことだけだ。
「自分で望んで子供を産んだ以上、私には育てる責任がある。この子を『母親がいない、あるいは母親に虐待された、可哀想な子』にするわけにはいかない」――この義務感、責任感が、もうひとさじでも少なかったら、私は息子を置いてどこかに出奔していたか、息子を虐待していたか、自殺していたか、間違いなくどれかを実行していた。結果的にではあるが、私のストレスの原因でもあった”母の毒”は、ある意味では息子や私の生命を守ったことになるのかもしれない。

私の記憶が再開する「息子が3歳になった頃」、私の夫と母は、それぞれ別個にではあるが、私に第二子を産むように言い始めた。
三人兄弟で育った夫にとって「兄弟がいる」のは自然なことで、母もそうだった。二人とも、心からの善意で言っていた。あくまでも無邪気に明るく、「そろそろもう一人作ってもいいよね」「作るなら早い方が良い」と二人はそれぞれ口にした。
そして、それを聞いた私が感じたのは、絶望だった。

――あぁ、夫も母も、この3年が「楽しかった」んだ。
「あと18年たったら死ねる」がようやく、「あと15年たったら死ねる」になったのに。また「あと18年」になってしまうんだ。
もう一度、またやらなくちゃいけないんだ。息子がいるのに、今度は最初よりもっと辛くなるのに、もう一度、初めから。

「二人目を作らない正当な理由」を、私は探せなかった。
子供を二人持つことは、世間一般で見て不自然なことは何もなかった。夫の年齢を考えれば、先送りにできる話でもなかった。
「もう一人欲しい」という夫と母の希望は、「もう二度と育児をやりたくない」という私の希望と等しい価値であるということを、毒に浸されて育った私は、認識できなかった。
夫に、母に、二人目が欲しいと言われてしまった以上、作らなければならない――と、私はあらゆる意味で諦めて、受け入れようとした。

そして、私はあっさり妊娠し、初期流産した。それも2回立て続けに。
望んでいなかったとはいえ、悲しみはあった。でもそれ以上にホッとして、ホッとしている自分にまた自己嫌悪した。
流産の処置の時も、その後に39℃の高熱が出て点滴のお世話になった時も、夫に送迎を頼んでも仕事だからと断られ、私はふらふらしながら自力で車を運転していった。タクシーを利用するという手段を思いつく思考力すらなかった。夫は最初から最後まで「大丈夫?」の一言も発することはなく、通院が終わった報告をすると「次はいつから作れる?」と聞いてきた。

そこで、ようやく私は理解した。
――夫には、私の心身を心配する機能が、そもそも搭載されていない。
ならば、「死にたい」と言ったことがない私が、「息子を捨てたい」と言ったことがない私が、育児を楽しんでいないことなど、分からなくても当然なのだ、と。

夫のポンコツ加減をやっと理解した私は、吹っ切れた。
どうせ生きていても何も楽しくないし、私を思いやってくれる能力がない相手のために、嫌なことを我慢してやる必要などない。そう開き直り、母と夫に「二人目はもう作らない」と宣言した。
どちらにも理由は聞かれなかったので言わなかった。夫は私がそう決めたなら仕方ない、という顔で頷き、母は勝手に「流産が辛過ぎたのだろう」と解釈して一人で納得していた。
皮肉なことではあるが、二回の流産は、周囲に対する「二人目を作らない理由」として十分に機能したのだ。

「二人目を作らない」宣言で気が楽になった私は、大学を留年して以降は封印していたネットゲームを解禁し、無駄に眠っていた時間を丸ごとゲームにつぎ込んだ。世界に色が戻り始め、ゲームができる夜の時間を生きがいに日々を送るようになると、不思議と息子を可愛いと思える瞬間が増えていった。
診断を受けたわけではないので憶測にすぎないが、恐らく産後うつ・育児うつ状態にあったと思われる私の脳に、ストレス解消や気分転換として、ゲームが良い影響をもたらしたのではないかと思う。

ゲーム内で、家族以外の他人と交流できた意味も大きい。夫のアスペルガー的な傾向や、自分のカサンドラ症候群的な症状、さらに母の「毒」に気付けたのも、ゲーム内で出来た友人と話す内に、世間一般の常識と自分の概念のズレを感じ、認知の歪みを自覚できたお陰だ。
母の「毒」を理解し、距離を置くようになってからのここ2年で、息子を自然に可愛がれるようになってきた、とも思う。

小学4年生になった息子は、もう謎の生命体ではなく、幼いけれどしっかりと人格を持つ人間として、私と交流を持っている。
時折、息子が私に向けてくれる好意や愛情の大きさを感じると、怯む。私が彼に向けることが出来る愛情は少しずつ育ってきているけれど、まだまだ息子がくれる愛情には遠く及ばない。
本能で我が子を愛せない私が母であるのは、息子には申し訳ないとしか言えないが、こればかりは本当にどうしようもないので、私の理性や知恵や思いやりを振り絞り、何とか愛に似た形のものにして、釣り合わせていくしかないだろう。
少なくとも、これから先、いかなる毒も彼に与えないようにする、という種類の努力ならば、私にはできる。「良い母親」には恐らくなれないが、「そう悪くはない母親」なら、目指せる。
3歳までの彼に、毎日虚ろな目をしていたであろう私が深刻なダメージを与えてしまっていませんように――と祈りながら、ではあるが。

本能で我が子を愛せない私は、もう二度と子供を産むつもりはない。
既に産んでしまった子供を、誠意をもって育てきることで、理性での愛を証明していくのが限界だし、それで良いと思っている。
息子が成人するまで、あと9年。それが終わったとしても、今の私は死ぬつもりはないけれど、出来る限り精一杯、私なりの「親子の愛」を育てていきたい。









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