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誰かを簡単に納得させるための手段として、使ってたまるものか。この大事な「なんとなく」を。
「なぜ滋賀に移住を決めたの?滋賀のどこに惹かれたの?」
そう聞かれると、少し挙動不審になる。
正直なところ滋賀に行こう!と決めたのは「なんとなく」なのだ。
けれどそれは、相手をがっかりさせてしまう答えのような気がしてなんだか挙動不審になってしまう自分がいる。
私は昔から「何で?」に弱い。
「何で?」に対して燃え滾るような熱い想いを伝えられない申し訳なさから、それらしい理由を作り出してはその理由に縛られ、自分を苦しめた経験は一度や二度ではない。
たとえば
「天ぷらは断然塩で食べる派ですね。素材本来の美味さが際立ちますから」
などと言って、その後市販の天つゆにシャバシャバに浸して食す姿を誰にも見せられなくなった経験なんかがまさしくそれだ。(書きながらすこし違う気もしている)
極力正直に「なんとなくでして…」と答えるようにしているものの、「なんとなく」という理由は会話をする気がないようにも、そもそも伝える気がないようにも見えてしまうことが分かるからこそ、申し訳なく思ったりする。
しかしその一方で、自分の「なんとなく」に絶大の信頼を寄せていたりもする。
自分の「なんとなく」をなめちゃいけない。
なんとなくだけどやめておく。
なんとなくだけどやってみる。
大なり小なり、そんな風に決めてきた私の人生における「なんとなく」の判断は、私の人生に限っての話だがおおむね合っていたように思う。
「なんとなく」の奥の奥では、いつだって自分の経験が太鼓判を押してくれているのだ。
たくさんの人に答えを乞い、その都度たくさんの人の教えに胸を打たれてきたけれど、簡単に手に入れた問いの答えは失礼なのだが本当にすぐに忘れてしまって、判断材料にならないことが多かった。
答えが知りたくて仕方がなくて、めんどくさいけど考えて動いて試行錯誤して手に入れた経験だけが私の大きな判断材料になっている。
それが、私にとっての「なんとなく」の正体だ。
私がなんとなくこうした方がいいと思っているのだから、今はわからなくても後から何かがついてくるはずだ。そう思うのだ。
ただそれは、自分以外の人にはなかなかあてはまらないことも忘れないようにしたい。
自分の拙い経験から、誰かのこれからを簡単に見積もることがないよう、自分に念を押すこともしばしば。
なので、誰かに何かを伝える機会をいただいた時は、こんなことはすぐ忘れてくれたっていいと思いながら一生懸命熱弁している。
(といいつつ実際すぐに忘れられたら「うそーん」となっている…!)
「なんとなく」が通用しなそうな世界に飛び込んで4ヶ月目。
やはり簡単に知ったことは覚えられない。
私の大事ななんとなくをしっかりと言葉にしなきゃいけない時がきたのだろうか。
言葉にした瞬間興醒めしそうで、まだこのままでいたいのが本音。
というか、互いを知る時間を惜しむが故に誰かを簡単に納得させるための手段として、簡単に言葉にしてたまるものか。この大事ななんとなくを。
言葉よりも先に体が動いてしまうような渇望まではあともう少し時間がかかるか。
渇望はいつも悔しさや怒りや悲しさと一緒に訪れていた。
そう思うと、滋賀は人も土地も優しいのだろう。
いつのまにか毒気が抜かれてふんわり過ごしていたりする。
足るを知る。
そんな言葉を滋賀に来てから随所随所でよく思い出す。
渇きたい私と、足るを知りたい私と。
渇望まではまだかかるが、自分でしか抜くことのできない棘のような悔しさはすぐここまできている。
心が混沌としていて忙しい。
つまり今、いい感じということなんだろう。
おわり。