【あらすじと解説】安部公房『砂の女』男が砂穴に残る理由と、反復がもたらす充足感について
『砂の女』は1962年に刊行された安部公房による書き下ろし長編小説。
・あらすじ
八月のある日に学校の教師をしている男、仁木順平は三日の休暇をとって昆虫採集に出掛ける。
新種発見のために砂丘地帯を訪れ、そこにある部落で老人と会い、部落に一晩泊めてもらうことにする。
だが、男は深い砂穴の底に閉じ込められることになる。そこにはひとりの女が住んでおり、毎日砂掻きの労働を強いられることになる。男はその労働のために拉致されたのである。
男は幾度か脱出を図るが、いずれも失敗する。
三ヶ月ほど過ぎたところで、鴉を捕らえるために作製した罠装置《希望》が、偶然にも砂から水を確保する貯水装置として作用することに気づく。
冬を越えて春になると、女の妊娠が発覚し、ある日女が痛みを訴え、子宮外妊娠の診断を受けて砂穴から引き上げられた。
その際用いられた縄梯子は掛けられたままであり、これは男が砂穴から脱出する好機であったが、男は自身が作った貯水装置の話を村の者に話してやりたいと思い、逃げるのはまたでいいだろう、と砂穴に残る。
あらすじを纏めると、『砂の女』は「社会に属していた人間が、砂の部落という見捨てられた場所で(監禁という形で)暮らし、その中で、極めて単調できりのない反復というものは発展した社会においても同様であることに気づくという物語」である。
始めの内はその不便で不潔で意味のない砂掻きをするという究極的な反復に対し、反抗的であったが、次第に男はそれが元居た世界(発展した社会)においても同様の反復(労働)をしていて、そこから逃れるために砂丘を訪れたことを思い出すのである。
このことはP208の3行目から始まる男と女の会話からも見て取れる。
ここでは『砂の女』で語られている「現代社会→部落」というかたちとは逆の「部落→現代社会」という移動が語られる。農家の長男が家出をし、就職先を見つけて社会に出てくるという内容である。
だがここではなんとも皮肉な会話がなされている。
(引用)
「それで、その跡取り息子のほうは、それからどうなりました?」
「どうって、そりゃ、あらかじめ計画的にやっておいたことだし、就職先ぐらい、前もって決めておいただろうさ。」
「それで・・・・・・?」
「だから、そこに勤めたんだろう・・・・・・」
「それで、その後・・・・・・」
「その後って、まあ給料日になれば給金をもらうだろうし、日曜日には、シャツを着替えて、映画にでも行ったりしただろうな。」
「それから?」
「そんなこと、直接本人に聞いてみなけりゃ、分りゃしないよ!」
「やっぱり、貯金がたまったら、ラジオを買ったりしたんでしょうねえ・・・・・・」(『砂の女』新潮文庫 P208,209 より引用)
ここで社会に出てきた農家の長男も結局は労働という反復に勤め、部落での生活となんら変わらないそれを送るということが示されている。
金を貯め、ラジオを買うというのはどこであっても同じなのである。
・男が砂の部落に残った理由
男は物語の最後、脱出する機会があったにも関わらず、それをしなかった。
その理由のひとつとしては、上に書いたような気づきが挙げられる。
砂穴での生活も教師としての生活も、同じようなものであると感じるわけである。
ただこれだけでは理由としては不十分だし、部落と社会の生活の価値が五分五分であっても部落に残る妥当性は脆いものになるだろう。
つまりそこには「部落での生活のほうが良い」という結論に至るだけの+αの理由があるはずだ。
まず、彼には妻がいた。作中、男は妻のことを「あいつ」と呼んでいる。
男と妻との間には問題があった。男は淋病にかかっていて、それを妻に伝染させたという負い目があったし、妻はそのことで夫である男に文句をつけていた。
男は妻とセックスするのにコンドームを必要とした。
仕舞には妻は夫である男に対し「精神的性病患者」と言うのである。
それは男のことをひどく傷つけたようだった。
それに対して砂の女とは、コンドーム無しであっても性交することができた。それは妻とのゴム製品を用いたセックス――作中では「商品見本の交換」と表現される――とは異にした種類のものであった。
これは正しい夫婦としての形をもつことができるという面において、男が砂穴に残った理由として機能するのではなかろうか。
この「男と女という番」であることの証明というものが、部落における村人としての承認としても機能していることは、男が外を歩くことを要求した際に村の老人が見えるところで性交することを条件としたことからも見て取れる。
そしてそれに応えるため外で女と性交しようとしたこと、加えて女が妊娠したということから部落の人間として承認され、それが最後に縄梯子が回収されなかった理由としても考えられる。
このように男と女という夫婦のかたちを正しく形成することができたことは間違いなく大きく作用しているだろう。
また、彼が作製した貯水装置《希望》も理由として挙げられる。
この《希望》は、気づかない内にたゆみなく行われていた水の補給という循環を断ち切るものである。
これは男が水を獲得することのできる特別な手段であると同時に、循環=反復を断ち切るものの象徴として作用するのではないだろうか。
そして男はその《希望》によって承認されることを心待ちにし、とうとう砂穴から脱出しなかったのである。
この小説が単なるSF的な小説であるだけでないことはわかっていただけただろうか。
その砂の部落での生活という過酷さを伴う物語の中で、この小説は高度経済成長により発展した現代社会における労働、反復について説いた政治小説の側面を有しているのである。
・個人的感想
ここからは個人的な感想になるのだが、僕はこの究極の反復の象徴である「砂掻き」というものに、既視感のようなものを感じた。
その正体は「ゲーム」であった。
ソーシャル・ゲームなどはその最たる例である。
実際僕は本の虫であると同時にゲームにも随分時間を割いてきた。
ソーシャル・ゲームはそのタイトルによって内容こそ異なるが、それら一般はユーザーに対して「周回」を求める事が多い。
そして恐ろしいことに、僕たちゲームユーザーはその周回という反復に対して、ある種の幸福すら感じることがあるのだ。
効率的な周回の模索、毎日こなす日課、それに伴って得られる報酬。
―――これはまさしく、『砂の女』における砂掻きであり、ラジオである。
ユーザーたちは社会に属し「反復」という労働をして勤めながらも、家に帰ると娯楽であるゲームにおいても「反復」に努めているのである。
僕自身大変ゲームというものを好んでいるし、これをゲームというものに対する批判であると捉えるのはどうか控えていただきたい。
(読んでいただき、ありがとうございました。)