「誰かの普通」が「誰かの普通」になるまでに
ちょっと前のこと。
「普通」を求められた。どうやら自分は「普通」とかけ離れているらしい。久々の衝撃だった。幼少期から常々抱えている疑問ではあるがそもそも「普通」ってなんだ?
「我が家の普通」になるまでに
思い返してみると、脚の機能障害が見つかった幼少期には「うちの子に限って…」と家族みんなうろたえていたし、自分でも「まともじゃない・みんなと違う」と感じていた。一方で、「生まれつきですねぇ」という医師の言葉に「生まれつきなら仕方ない」と考えるようにもなった。その後、家族も徐々に「うちの子は脚が悪くてねぇ」と当たり前に受け入れていったように感じる。我が家においては「脚の機能障害がある子がいることが普通」になっていった。家族にはそれなりの葛藤があったに違いないし、両親の苦悩も漏れ聞こえていたことを覚えている。自分はというと、もちろんそれなりに葛藤も苦悩もあったが思春期という大きな荒波を乗りこなす際に、自身の一部分として機能障害を受け入れていったのだと考えている。
大人になって、妻や親しい友人の多くはこんな自分の「普通」を受け止めてくれる。もちろん、生まれてきた娘たちにも「父の脚はこれで普通」という感覚があるようだ。保育園のお友達に「お父さんなんで杖ついてんの?」と問われた娘は「なんで君のお父さんは杖ついてないの?」と問い返し、「お父さんの車椅子かっこいい」と自慢気に膝に乗ってきた。成長した今でも、人工呼吸器をつけてゴロゴロ寝転がる父を踏みつけ、階段を降りる際は自然と一段下で肩を差し出してくれる。家族が抱く「普通」の幸せは、父の機能障害がなくなり元気いっぱいになることではなく、それぞれがやりたいことを叶えるために役割分担してオモシロタノシク生活することなのだ。そのために、機能障害があろうが体力がなかろうが、父は自分の役割を当たり前に担って信頼を勝ち得ていると感じるのだ。これが「我が家の普通」。
それぞれの中に「普通」が蓄積されていく
話を冒頭に戻してみる。
ちょっと前に求められた「普通」について整理してみると、3つの「普通」を求められていることが分かってきた。
①1つ目は「一般的な40代男性のようにモリモリ仕事を」というもの。他のスタッフに身体的な負担がかかるから努力してほしいと…うーん、これはなかなか難しい。
②2つ目は「一般的な作業療法士のようにもっと身体アプローチを」というもの。期待される業務内容が「リハビリテーション=医療モデル」という思考であることがわかる。自分が目指すリハビリテーション内容と周囲から作業療法へ期待される内容との間にズレがあるとわかる。
③3つ目は「一般的な所長のように○○業務を」というもの。こちらも2つ目と同じようなものだが、自分が会社から任されている業務内容と役職者に対して抱くイメージとの間にズレがあるのだ。
上記で求められることになったどの「普通」もきっと、相手が今までに蓄積してきた知識や経験上の「普通」や、社会や環境から通念化された「一般的」なイメージや期待なのだ。そこにきっと悪気はない。
社会におけるマジョリティにとって、自分のように難病患者で身体障害者で作業療法士なんていうマイノリティな存在はきっと「普通でも一般的でもない」存在だ。そんな得体のしれない存在が一緒に働くなんてことはきっと想像もつかないのだろう。それでも、僕の周りに存在するいわゆるマイノリティな友人たちは、「自分なりの普通で当たり前」な生活を営み遊んだり働いたりして人生を楽しんでいる。みんなそれぞれの「普通」を蓄積しつつ生きている。
こんな「自分なりの普通で当たり前」を誰かに伝え想像してもらい受け入れてもらうというプロセスはとてもストレスが大きく時間がかかることは幼少期から味わっているし、中には相容れない人がいることも経験してきている。兎角、相手にとってこんな自分の存在が「普通」になるまでには、時間がかかるし気が折れるし疲れるし忍耐力が必要なのだ。
「ふつうアップデート」が進んでいく
「ふつうアップデート」という素敵なフレーズを某番組では何度も取り扱っている。シンプルに「誰かの普通をのぞいてみようぜ」という取り組みにワクワクする。「私と誰かの普通は違うかも」という疑問や「相手の普通って何だ」というエンパシーの能力をもってすれば、相手に「自分の普通」を押し求めるようなことにはならないかもしれない。いかんせん難しいのは「医療・福祉の現場」で求められやすい「普通で一般的なイメージ(医療モデル・役割・業務内容など)」に、職員も患者もとらわれがちという現状ではないか。もっともっと、医療・福祉の現場にも「普通アップデート」が進んでいけばいいのに。
今回の一件を通して、「もうちょっと自分の身体のこととか、リハビリテーションのおもしろさとか、業務や役割のことなんかを、分かりやすく根気強くあきらめずに相手に伝えていかなきゃならないんだなぁ…」と振り返った。エネルギーと時間を要することだけど、誰かの口添えも借りながら「慌てず焦らず諦めず」で伝えていこう。
そんな良い気付きの機会となりました。
「自分の普通」が「誰かの普通」になるまでに(ダーヤマ)
*ダーヤマ:4歳頃からシャルコー・マリー・トゥース病による四肢遠位や呼吸筋の進行性麻痺あり。2児の父。作業療法士。