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<新版画展>千葉市美術館 その5. 第一世代の外国人作家 バーサ・ラムの画業と生涯

前回の記事より続く)

 この回ではヘレン・ハイドと同じく女性で、第一世代の外国人作家のバーサ・ラムを取り上げます。

 外国人作家の活動の全体を知るために、これまでの記事に掲載した年表を最初に示します。

表1.外国人作家の活動年表

3.バーサ・ラム Bertha Lum 1869-1954

■略歴

米国アイオワ州に生まれる。シカゴでデザインを学び、1903年(明治36年)新婚旅行で初来日、1907年に再び来日し、岩村透の紹介で彫師井上凡骨、摺師西村熊吉から日本の伝統木版技術を学ぶ。1911年以降に、数度にわたって来日、彫師・摺師と家に同居し、木版を制作。生涯7回の来日をはたす。

大正新版画展図録 246頁
About Art Nouveau ~ Blog about getting to know Art Nouveau
https://aboutartnouveau.wordpress.com/2014/10/15/bertha-lum-1869-1954/
Bertha Lumの章に掲載の肖像写真をもとにイラストを作成した。
muse Watercolor Paper Pad TOUCHII B5  ペンとインク

■作品例

(1)日本に関係する作品

図1 日本に関係する作品
出展:全てwikimedia commons、public domain
図2 日本に関係する作品
出展:全てwikimedia commons、public domain

(2)雨と霜を表現した作品

図3 雨と霜を表現した作品
出展:全てwikimedia commons、public domain

(3)日本の伝説、民話に触発された作品

図4 日本の伝説、民話に触発された作品
出展:全てwikimedia commons、public domain

(4)日本以外、中国に関係する作品

図5 日本以外の国、中国に関係する作品
出展:wikimedia commons、public domain

■作品について

 前項で示した「作品例」は、全てwikimedia commonsから採ったものです。それらは大半が日本に関連するテーマの作品でした。これまで調べた画家で、wikimedia commonsに載った作品は、全生涯の作品をくまなく取り上げていたので、バーサ・ラムの作品も大半が日本をテーマにしたものだと思い込んでいました。
 実際、日本の展覧会で例示される作品は主に日本をテーマにする作品でしたので特に疑いもしなかったのです。

 ところが今回記事を書くにあたって、末尾に示した参考資料の(2)「バーサ・ラムにささげたウェブサイト」を見つけました。主催者の名前は分からないのですが(フランス人らしい)、大変熱心な人で、バーサ・ラムの全作品を調べて(現在も手に入らない画像は調査継続中)、その全画像をアップしているのです。

 そこで、その全作品の画像を利用して、制作年代順に、テーマの分類を試みました。(下図)

表2.バーサ・ラム全作品の年代別テーマ分類

 上の表から読み取れることを下記にまとめます。

●全体の(版画)作品数256の内、日本は74。一方、中国(110)、アジア(24)、米国(9)で、中国をテーマにした作品が半数近くを占める。
●日本のテーマの作品は、主に長期滞在を繰り返した初期の1904年から1913年の間に集中しており、中国およびアジアの作品は、後年中国に滞在した時に制作されている。
ヘレン・ハントと同様、母子像、子供を一生描き続けている。
●日本のテーマの作品では雨、霧、雪、風などの気候、時刻は夕べ、夜のテーマの作品を多く描いており、日本の浮世絵に倣っている。一方、中国の作品では、構図は別として、日本の浮世絵の特徴が影を潜めている。
●風景や人物の写実的な作品だけでなく伝説やおとぎ話に基づく幻想的なテーマの作品を創り続けていることが大きな特徴となっている。

 さらに個々の作品について、線スケッチの立場で感じた私の感想を以下にまとめます。

●人物は当初比較的癖がない線描表現。しかし日本のテーマを離れるにつれて、絵の表現が個性的になっていく。例えば風になびき、巻き上がる着物の表現や、うねるような樹木の姿、滴る水滴などダイナミックな動きのある表現である。
●このような表現は人により好みが分かれるところだが、伝説やおとぎ話に基づく作品ではその表現が作品の魅力を増している。
●中国で作成した作品は、販売を意識したためか、異国趣味を感じさせる作品が多い。中国の建物や、葬儀の行列、人々の暮らしの風景を描いた作品が個人的には好きで、私も描いて見たいテーマである。

■人となりについて

 さて、ヘレン・ハイドの項でも設けましたが、バーサ・ラムについても「人となりについて」の節を設けたいと思います。

 略歴のところで、お気付きの方もいると思いますが、独身で日本を訪れたヘレン・ハイドと違い、バーサ・ラムは7週間の新婚旅行で日本を訪れます。日本を訪れたのは、彼女自身の発案で、新郎を説得したのだそうです。

 このエピソードからも、ヘレン・ハイドと同様に、日本の版画習得について大変な情熱を持っていたことを知ることができます。

 実際、二人の娘が出来た後も、夫を米国に残したまま二人の子供を連れて半年という長期間日本に滞在し、木版画の制作を続ける生活を何度も繰り返すなど、当時の女性(妻)としては、かなり変わり者に見られたようです。

 それが原因かどうか分かりませんが、1920年代には離婚して、その後中国に移り住んで制作活動を続けます。

 また、二人の娘も長じて作家や芸術家となり、両親から受け継いだ才能を開花させます。

 晩年、長女の夫(イタリア人)が、毛沢東暗殺の容疑で逮捕・処刑されたときに、たまたま家を訪れていたバーサ・ラムも軟禁されるなど、波乱の人生を送ることになりました。

 日本に来た頃のバーサ・ラムの手紙が残っており、彼女の情熱が彼女自身の言葉で書かれていますので、その手紙を引用してこの節を終わります。

 以下、新婚旅行で訪れた時の手紙です。

 日本に行く前は、版画家は提灯や着物と同じくらい簡単に見つかると思っていました。しかし、6週間かけて、ガイド、人力車の少年、ホテルの経営者、珍品商など、英語を話す人すべてに、道具を買えるか、版画を作るところを見られるかを尋ねました。出航の前の週に、古い版画を複製している店に案内してもらったのですが、そこで過ごした1時間で、本から学んだ以外のすべての知識を得ることができました。

 この店は好意で、13個の道具に20ドル払うことを許してくれた(私はどんな値段でも喜んで手に入れた)のだが、後で調べてみると、それらは粗悪品だったようで、私はその後、最高のものを50個、5ドルで購入した。

 帰国後、私はこの短期間に得た知識に加え、このテーマについて入手できるものはすべて読み、版画を作り始めた。

 しかし、なかなかうまくいかず、自分ではどうにもならないので、3年後に日本に帰ってから、店で働きながら技術的なことを勉強しようと思った。

出展:BERTHA LUM Le Catalogue raisonné
翻訳は「DeepL翻訳」による。(一部修正)
 

 7週間の新婚旅行の間6週間も、教えてくれる日本の版画家を探し続けて結局見つからなかったことが描かれています。

 しかし、最後の1週間でその情熱が報われます。

 道具を売ってくれた版画店の主人への手紙と、出航した時の乗客名簿に載っていた彼の名前の2通がありました。

 彼は英語を話しませんでしたが、共通の友人を通じて、私が作った版画を見せ、私が何をしたいかを伝えました。彼は、自分の店に入れてくれるが、一流の版画家の下で仕事をしなければならないので、非常に高くつくという。

 私は、1日10ドルを払って、1日75セントももらわないような彼の部下の下で働く前に、せめてもう1通の手紙を見せようと思いました。この手紙は、セントルイスの万国博覧会の委員であり、アメリカやヨーロッパ、そして自国でも有名な美術の講師である男爵に宛てたものだった。彼は私のホテルに来て、非常に礼儀正しく、興味を持ってくれた。非常に忙しいにもかかわらず、帝国美術学校の教授の一人を私のところに連れてきてくれて、非常に優れた版画を彫る友人の家で私が働けるように手配してくれたのである。

 翌日、私たちは早く出発し、東京の郊外に何キロも何キロも行き、裏通りを通り、最終的に最も貧しい人々が住む路地の奥にある4部屋だけの非常に小さな家で、東京で最高の木版を彫ると言わほれる人を見つけました。師匠は12歳の弟子2人で、1日に1、2回来ては、私の上達を認めたり、ほとんど認めなかったりした。

出展:BERTHA LUM Le Catalogue raisonné
翻訳は「DeepL翻訳」による。(一部修正した)

 この後も、まったく誰も英語を話さない環境の中で悪戦苦闘して木版画を習得していく話が書かれているのですが、長くなるので省略します。参考文献(2)のBiographyの項を参照ください。

(次回、その6.に続きます)

参考にした資料

(1)英語版wikipedia: Birtha Lum

(2)バーサ・ラムにささげたウェブサイト(主催者名不明) BERTHA LUM Le Catalogue raisonné

 前回の記事は、下記をご覧ください。


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