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CMの映像分析:「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting.」(Nike, 2020年)

2024年度秋学期の「表象文化論演習」ではTVCMやミュージック・ビデオを使い、映像の分析の仕方を学ぶという授業を行いました。1,200字以内で作品を分析した文書を書く課題を課し、学生が書いてきたものを添削して、実際に批評文を書けるようになろうという授業です。特に映像作品は、ストーリーやキャラクター、あるいは作品のメッセージといったものに引きつけて理解されることが多いものです。この授業では、そうではなく、映像テクストそれ自体の映像的特徴や内的構造に注意を払った分析ができるようになることを重視しました。

初回の授業では「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting.」(Nike, 2020年)を取り上げました。

このCMは日本社会におけるいじめや差別を描いたものです。公開当初から「日本人を加害者として描いている」といった非難や、それに対して「いや実際に差別やいじめはあるじゃないか」といった反論が繰り広げられました。また、Nikeがスポーツを通じて差別やいじめのない世界を目指そうというメッセージを発したことを肯定的に評価する立場や、「それは企業がマイノリティーを自社のイメージアップに利用しているだけだ」という批判もありました。

これらさまざまな意見の多くは、しかし、このCMの映像表現それ自体を十分に踏まえたものではなかったように思います。このCMに対してどのような意見を持つにせよ、まずは映像を正確に読むということが基礎にあるべきだと思います。したがって、このページでは(完全に客観的な唯一の解釈というものはありえませんが)ひとつの標準的な読み方を紹介しようと思います。「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting.」は理詰めで作り込まれているので、そうした「最低限押さえておくべき映像的ポイント」を同定しやすい作品だと思います。(なので初回の授業で使いました。)

この続きを読み進める前に、1,200字の字数制限の中で、みなさんだったらどういった批評文を考えてみてください。批評というと難しいかもしれませんが、この映像を見てみなさんが感じたことはいろいろあると思います。その感じたことを単に「こう感じた」と書くのではなく、そのように感じた根拠を映像の中の表現に見つけ出すために分析的に見直し、映像内の要素と感想をつなぐ形で文章を書いてみるというのがよい出発点になると思います。授業の中では30分の時間をとって学生にも批評文を書いてもらいました。



CMのテクスト分析

「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting.」では、3人の10代の女性に焦点が当てられます。一人は在日コリアンの女性、もう一人はアフリカ系と東アジア系の両親を持つミックスの女性、最後の一人は東アジア系の外観で日本におけるエスニック・マイノリティーに見えるような外観ではありませんが、CM内の描写からは学校でいじめをうけているように見えます。CMは、これら3人の女性が日本社会で経験する差別やいじめ、さらにそれらに対する彼女たちの心の動きを描き出します。3人の女性たちがこの社会の理不尽を受け入れ適応しようと転びかけるところを、サッカーを通じて彼女たちが一つのチームとなり、自分が我慢して同化しようとするのではなく、スポーツを通じて自分自身を表現しようというメッセージが発されます。

TVCMのストーリー展開を簡単にまとめると、以上のようになるでしょう。こうした基本的な筋を押さえた上で、もう少し映像に注目した分析をしてみましょう。

奥行方向のカメラの運動

実写の映像を分析するときに注目する部分は多数ありますが、このCMについて映像的に特徴的なのはカメラの運動です。本作の中でカメラはさまざまな運動を示しますが、まずは奥行方向の運動に注目しましょう。

3人の女性たちの家族や学校での友人との関係が描かれるときに、カメラはまず周囲にいる人間を含めたワイドショットから始まります。徐々にカメラ自体が画面の奥行き方向に移動し、周囲の人間に囲まれている中で登場人物の女性が何を考えているのか、その心の中に踏み込むような運動性を示します。

家族と一緒にいる空間をワイドで捉えたところから始まる。
前から奥に向かってカメラが移動し女性に近づく。

上記の例では在日コリアンの女性の例を挙げましたが、いじめられている女性の場合もアフリカ系とのミックスの女性の場合も、同様の奥行方向のカメラの運動性によって、彼女たちの心の中に侵入するような表現が見られます。

カメラ自体の回転

奥行方向の運動によって登場人物の女性たちの心の中に踏み込んだあと、暗い個室の中で彼女たちはスマホの画面に向かいます。在日コリアンについてのネット記事、大坂なおみ選手に対する賞賛と誹謗中傷、自分がアップしたショート動画に対する非難といったものを見て、登場人物の女性たちは不安や悲しみを感じます。彼女たちの心の動揺を表現するかのように、カメラは奥行方向を軸として回転し、画面内の空間は天地が逆になってしまいます。

女性たちの不安を表現するようにカメラ自体が回転する
女性の身体がカメラと同じように回転する場面もある

この奥行方向を軸としたカメラの回転は、物語性のあるTVドラマや劇映画では多用される手法ではありません。したがって、この回転というモチーフがこのTVCMにおいて、それなりの強調点をおかれたものであるということがわかります。では、この回転というモチーフは同作の中でどのように発展していくでしょうか。

輪のモチーフ

回転は「輪」のモチーフに展開していきます。カメラ自体が教室の中で予行方向に運動し、その横方向の運動性を使って、登場人物の一人が同級生たちの「輪」に囲まれていじめられている様が描かれます。いじめをするかどうかにかかわらず、日常生活の中でこのように「輪」を使って人を囲むことはありません。したがって、作り手側が明確な意図を持って、このいじめの「輪」を描いたショットを、不安と関連づけられた回転のモチーフから発展したものとして描いていることがわかります。

同級生たちの「輪」がいじめをおこなっている

しかし、CMの後半で、このいじめの「輪」はチームメイトの「輪」へと変化します。

チームメイトの「輪」が女性たちの連帯を作る

サッカーチームの円陣を内側から横方向のパンで捉えた後に、上方から円陣の「輪」を強調したショットが挿入されます。不安やいじめと関連づけられていた回転=輪のモチーフは、ここでその意味を完全に変えたように見えますが、そのきっかけはなんだったのでしょうか?

キーアイテムとしてのサッカーボール

本作において、回転と運動性に関わる重要なキーアイテムはサッカーボールです。3人の女性は、いじめ、在日コリアンに対する差別、アフリカ系のミックスであることへの差別という、それぞれ異なる困難に直面しています。しかし抱えているもんだは異なっていても、彼女たちはみなそれ自体が回転し画面内の空間を縦横無尽に運動するサッカーボールを共通して持っています。

サッカーボールは回転しながら縦横無尽に運動する
サッカーボールは回転しながら縦横無尽に運動する

サッカーボールが彼女たちをつなげ、連帯を促すというメッセージは、この点だけでも明確ですが、映像的にも回転が彼女たちをつなげることは示されています。

カメラの回転が3人の女性をつなげる

カメラの奥行方向を軸とした回転はこのCMの前半では女性たちの不安を象徴するものでした。しかし、後半部分では、パンの代わりに、カメラの回転が一人の女性をまた別の女性へと空間的に繋げていきます。

不安のモチーフであったカメラの回転が3人の女性をつなげる
不安のモチーフであったカメラの回転が3人の女性をつなげる

このように見ていくと、奥行方向を軸としたカメラの回転で表現されるさまざまな不安を抱えている女性たちが、回転しながら空間を跳ね回るサッカーボールというキーアイテムによって接続され、彼女たちを苦しめていた人々の「輪」が彼女たちの連帯という「輪」に変容するという、モチーフの発展としてこの作品を理解することができるわけです。


弾まずに回転するボール

このような解釈を提示すると、いつも「作っている人はそんなこと考えて作ってないよ」と言われます。テクストの意味はテクストの作り手の意図に縛られるものではないのですが、このCMの作り手に関しては明確に意識して作っています。正直、ここまでの説明だけでも十分に説得的だと思うのですが、ダメ押しを一つ挙げるとするなら、以下のシーンでしょう。

ボールは弾まずに横回転しながら女性に近づく
女性はこのボールを受け取る

このシーンで女性が受け取るボールは、全く弾まずに横方向に回転しながら近づいてきます。もし仮に作り手側が、回転や輪のモチーフを全く意識していないとしたら、普通にボールを渡すだけならここでボールは弾んでいたでしょう。そうでないということは、作り手は完全に意識的に回転のモチーフをこの作品の中に埋め込んでいるということを意味します。

1,200字の批評文サンプルと標準的な解釈

このように見ていくと、このCMを回転というモチーフの発展として読むことが妥当であることが理解されたと思います。この観点から1,200字の批評文を書くとしたら、以下のようなものになるでしょう。

 Nikiの2020年のCM「動かしつづける。自分を。未来を。」には、日本社会との摩擦を抱えた10代の女性が3人登場する。短髪の女性は在日コリアンであり、もう一人は東アジア系とアフリカ系のミックスであることが容姿から推察される。東アジア系の長髪の女性は、こうしたエスニシティーにおける少数者性が視覚的に表現されてはいないが、SNSに投稿した動画に否定的なコメントが付けられ学校で同級生たちに囲まれている様からいじめを受けているようである。暗い個室の中でスマホを操作する彼女たちは社会が彼女たちに向ける視線に不安を覚え、「みんなに好かれなかきゃ」「我慢しなきゃ」「気にしないふりしなきゃ」と個人を殺して社会に適応しようとする。だが、まさにその自分を殺して社会に跪く瞬間に、サッカーを通じて彼女たちがつながり、「いつか誰もがありのままに生きる世界を待っていられない」ことを、そうした世界をスポーツの中から作り出せることを主張する。
 映像表現に着目したときに特徴的なのはカメラの運動性である。CMの中では、カメラのトラヴェリングによる奥行方向の運動と、パンを使った横方向への運動や奥行方向を軸とした回転が、それぞれ異なった感情的効果を生み出している。家族の団欒の中にいる登場人物たちに向けてカメラはゆっくりと運動し、社会や家族の関係の中にある三人の女性たちの内面に踏み込もうとするかのように、視聴者の意識を誘う。一方で、横方向への運動は、まずは登場人物たちの不安を象徴している。例えば、在日コリアンの女性やアフリカ系と東アジア系のミックスの女性がスマホを見て、在日コリアンへの誹謗中傷や大坂なおみについての記事を読んでいるときは、カメラ自体が回転する。一方、長髪の女性が同じようにスマホでSNSを見て不安に襲われる際には、彼女自身の体が居室の中で宙に浮き回転する。この不安を伴った回転というモチーフは、在日コリアンの女性が転校生として紹介されるときの教室の中でのパンなどと響き合いながら、教室の中で長髪の女性を取り囲む生徒たちの輪と回転というモチーフへの発展する。
 したがって、このCMの中でカメラの横方向の運動や回転はまずは不安と結びついている。しかし、この回転運動は、回転しつつ空間の中を自由に転がるサッカーボールというモチーフを経由してその意味を変質させる。回転しつつ転がってくるサッカーボールがこの三人の女性たちをつなぐ。不安のモチーフであったはずの回転は、三人の少女たちを空間的に結びつけ、連帯へとその意味を変える。長髪の少女を取り囲んでいた生徒たちの輪は、ここでこの三人の少女たちが所属するチームの輪へと変わり、その輪を捉えるためにパンするカメラは不安ではなく彼女たちの間の友情を表現するものへと変化するのだ。

1,141文字

改めて強調しておきますが、この批評文のサンプルが唯一の正しい解釈であるということではありません。キャラクターやストーリーに着目した批評がダメだというわけではありませんし、ライティングなどカメラ以外の映像的な要素に注目して批評を書くことも可能でしょう。しかし、映画研究においてカメラの運動に注目するのは基本であり、作り手が明確に回転というモチーフをカメラの運動とサッカーボールを使って埋め込んでいることを考えると、上記の批評文は、映画・映像研究をやるならば押さえておくべき標準的な解釈であると言って良いと思います。


より高度な批評につなげる

このCMは公開当時、さまざまな議論を巻き起こしましたが、私の記憶している限り、ちゃんと映像を読んで議論されたものはあまりなかったと思います。どのような議論をするにしても、作り手が作品の中に作り込んだ意味をできるだけ正確にかつ作品内在的に読み取ることは重要です。「企業が作ったCMなのだから、企業の利益に資するプロパガンダに違いない」とか、「伝えているメッセージがよいものなのだから肯定すべき」とか、映像外部の要素で判断するのではなく、映像それ自体がどのような構造をもちどのような技法を使って何が表現されているのかを深く理解してもらいたいと思い、「表象文化論演習」の初回の課題にこのCMを使いました。

上で示したような標準的な解釈をまずは押さえた上で、学生にはより高度な批評につなげていってほしいなと思います。例えば、「ステレオタイプ的に誇張された差別を表現し、その上でその被差別者の心の中に入り込むかのようにトラヴェリングを使うのは、あまりにもマイノリティーを都合よく使いすぎではないか?」という批判は可能でしょう。この形式の批判は、単にマイノリティーの表象があるかないかという点を指摘しているのではなく、トラヴェリングという映像技術と表象の組み合わせがどのような感情的効果を引き起こすことを意図しているのかに踏み込んでいる点で、一歩進んだ議論だと思います。

また、Nikeという企業がこのCMを作っていることを考えるためにも映像テクストの理解は重要です。同社はアフリカ系アメリカ人のスポーツ参加を支援したりと人権に関する取り組みを積極的に行ってきた一方、児童労働の問題が発覚したり、日本でも宮下公園の再開発計画への参加がホームレスを排除するジェントリフィケーションなのではないかと批判されてきました。このCMが発表されたのは宮下公園の再開発問題が落ち着いた後のことだったと思いますので、あくまで仮の話ですが、NikeがこのCMで打ち出したメッセージを使って同社の宮下公園再開発への関わりを批評することも可能でしょう。つまり、CMの中でさまざまな構造的差別が同型の構造を有しておりそれらの間で連帯が可能だとするならば、その論理をそのまま拡張して、「その輪の中にホームレスも入るべきではないのか?」と言えるということです。

仮にNikeが制作したこのCMとその映像的側面から読み解ける意味を上手に利用して、同社に対して何らかのメッセージを伝えられるとしたら、それは資本主義社会の中で営利企業との間に商品の売買とは別の対話の回路が開けることになります。そうした射程の深い批判をするためにも、まずは映像をよく読むということをやってみましょう。


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