第6回 ニッケルオデオンとアメリカの移民社会
前回は、エドウィン・ポーターの1901年から1903年ごろの映画を例に、この時期のアメリカにおける映画の大きな変化についてお話ししました。アクロバットやヴォードヴィル俳優のパフォーマンスを撮った非物語的快楽を提供する「アトラクション」の映画の中に、それ自体で完結した線的な時空間を表現するタイプの映画が生まれ始めました。もちろん、まだ現代の物語のような長さではないのですが、フィルムのリールを丸々一本使った10分以上の作品も増えてきました。今回の話題は、この映像コンテンツの変化と並行して1905年ごろから1908年ごろにかけておきた映像を見せる環境の方の変化についてです。この時期に、ヴォードヴィルの演目の一部として映画を見せるのではなく、映画のみを売り物にした映画専門劇場の数がアメリカ全土で一気に増加しました。この映画専門館はニッケルオデオンと言われており、今回はこのニッケルオデオンの誕生とその文化史的意義についてお話します。
ニッケルオデオンの誕生と普及
ヴォードヴィル演劇の劇場で生のパフォーマンスの合間にせいぜい数分程度の映像が上映されるというのが1900年ごろの映画の使われ方でした。しかし、前回見た通り、映画の長さが長くなり内容が豊かになってくると、徐々にヴォードヴィリアンの芸よりも映画の方がより多くの人気を博すようになっていきます。その結果どうなるかというと、ヴォードヴィリアンたちを雇わなくても、映画だけを見せていればビジネスが成り立つのではないかと考えるビジネスマンが現れたのです。アメリカ各地で昼間は普通に営業している商店を夜間だけ簡易の映画館にしたり、教会や小劇場などを改造して、映画だけを売りにした興行が始まりました。
こういった映画専門劇場がニッケルオデオンと呼ばれました。ニッケルオデオンは多くの場合入場料が5セントだったので、アメリカ英語で5セント硬貨を表す「ニッケル」とギリシャ語で劇場という意味の「オデオン」とあわせて作られた造語です。ちなみに今のアメリカには子供向けの番組に特化した「ニコロデオン」というというケーブルのチャンネルがあります。Nickelodeonをアメリカ英語で発音すると「ニコロデオン」となるのですが、ニッケルオデオンの方が日本人としてはわかりやすいので本稿ではニッケルオデオンとします。ニッケルオデオンという言葉をこの新興の映画館を指して使ったのはハリー・デイヴィスとジョン・ハリスと言われています。彼らは1905年にペンシルヴァニア州ピッツバーグで始めた映画専門劇場をニッケルオデオンと呼び始め、この用語が全米に広がりました。ニッケルオデオン型の映画館は1905年から1915年ごろにその最盛期を迎え、アメリカの映画史の始まりに位置する重要な文化的現象なのです。
カナダ、トロントのニッケルオデオン
William James creator QS: P170, Q7340632, ComiqueTheatre , marked as public domain, details on Wikimedia Commons
労働者階級の文化として
実際にニッケルオデオンで上映されていた映像をいくつか見てみましょう。
例えば、この3分ほどのフィルムは1907年7月4日の独立記念日にカリフォルニア州のオーシャン・ビューで行われたボクシング・ヘビー級のタイトル・マッチの様子です。下馬評では不利だと思われていたカナダ人のトミー・バーンズがオーストラリアのビル・スクワイアーズを1ラウンドで倒してしまったことで「記録上最も短く最も猛烈な試合」と言われるようになったものです。このマガジンではエジソンのブラック・マライアの時代からボクシングが映画の主題になることは繰り返し述べてきたのですが、これはフィールドが広い球技は技術的に撮影が困難だったということもあるのですが、それ以上にボクシングが映画の観客である労働者階級の男性の好む主題であったということ示しています。
もう一つ、1906年の大地震で被害を受ける前のサンフランシスコ市街の様子を映した13分の動画を見てみましょう。フィルムを1リール使うと大体10分から15分くらいになるので、このくらいの長さの方が標準的なものでした。乗り物の先頭部分にカメラを載せて風景を捉えたものはこの時代大変多く、ニューヨークの地下鉄の様子を映したものなどはたくさん残っているのですが、この映像の特徴的な点はケーブル・カーから撮られているところです。画面をよく見ると、車輪がその上を動く2本の軌道とは別に真ん中に1本線が走っていることがわかります。この中を動くケーブルが走っていて、車両はこの動くときはこのケーブルを掴み止まる時はこのケーブルを離すという仕組みで動いています。そのような仕組みなので汽車と比べて非常にゆっくりなのですが、おかげで当時のサンフランシスコの往来を歩く人の姿や馬車の様子などがよくわかります。一見、自動車が何度も横切って車がたくさんいるような印象を与えるのですが、この自動車はほとんどが同じ車両で、映像に映すための演出であることがわかります。
映画の内容が充実してきたとは言っても、ニッケルオデオンが生まれた頃の映画はそれだけで例えば1時間の間観客の興味関心を維持することができるほどの内容は持っていませんでした。したがって、上映の現場で様々な工夫が施されていました。当時の映画は当然サイレントだったため、劇場内にピアノを持ち込んで音楽を伴奏したり、楽器以外の音を出す機材を持ち込んで映画の内容に合わせて効果音をつけるといったことはよく行われていました。スクリーンの裏側に役者が隠れて、映画の内容に合わせて声を当てるということも一部では行われていたようです。また、ヴォードヴィル劇場のように観客みんなでイラストレイティッド・ソングのスライドを見ながら合唱するというような文化はニッケルオデオンでも残っていました。
さてこのようにヴォードヴィル劇場の雰囲気を色濃く残したニッケルオデオンは、映画史の中でもっぱら労働者階級の文化であると考えられてきました。なぜかというと、基本的にこれらのニッケルオデオン劇場は都会のダウンタウンに存在し、猥雑として、上流階級はもちろんある程度教育を受けた中産階級も行くのをためらっていたと考えられていたのです。ヴォードヴィルも決してとても上品な娯楽というものではなかったのですが、ヴォードヴィルの入場料が大体25セントくらいだった時に、ニッケルオデオンの入場料が5セントということから、その階級的なポジションがどのようなものかは想像がつくでしょう。実際、お店の一部や教会、小劇場などを改装して作られたニッケルオデオンは、その事実からも分かる通り、多くの場合、木でできた硬いベンチを狭い空間に詰め込んだだけのもので、決して快適な環境ではありませんでした。そのような空間に5セント硬貨を握り締めた観客が押し寄せて、みんなで大声で歌ったり、ヤジを飛ばして楽しんでいたのです。
移民の同化装置としてのニッケルオデオン
このニッケルオデオンに集まっていた労働者階級の観客の中には多くの移民が含まれていました。アメリカというと移民の国ですが、時期によって移民の出身地はかなり異なります。19世紀まではアイルランドや北欧からの移民が多かく彼らは旧移民と呼ばれますが、一方1880年代から増え始め20世紀の初頭に中心を占めた南欧・東欧からのイタリア系、ユダヤ系、ポーランドなどのスラヴ系の移民は新移民と呼ばれます。1912年に北大西洋で沈没したタイタニック号は、出発地はイギリスですが、低料金の三等船室には多くの新移民を乗船させていました。タイタニックは沈没しましたが、沈まなかったら下のアクチュアリティー映画に記録されているように、エリス島に上陸し、入国審査を受けた上でニューヨークに上陸していたのです。この映像自体が1906年に作られているので、ニッケルオデオンに集まった移民たちはこの映像を見て自分たちの来歴を振り返っていたかもしれません。
さて、ではこの新移民たちがアメリカに上陸したらすぐにアメリカ人らしく振る舞ったかというとそう簡単にはいきません。旧移民が概ねWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)であったのに対して、新移民はカトリック、東方正教系、ユダヤ教と特に宗教の点で旧移民と大きく異なります。アメリカは現代のカリフォルニアだけを見ているとなかなかそうは思えないのですが、歴史的に長いスパンで見るとかなり宗教的に熱心で潔癖な国だと言えます。実際に20世紀初頭には、以下の写真に写っているニューヨークのイタリア人街のように、新移民たちは旧移民とは異なる社会集団を形成していることがアメリカ社会では問題化されていました。
ニューヨークのイタリア人街
Detroit Publishing Co., publisher, Mulberry Street NYC c1900 LOC 3g04637u edit , marked as public domain, details on Wikimedia Commons
この新移民の流入のピークがニッケルオデオンの最盛期と重なるのです。その結果、アメリカの映画の歴史は、この当時のアメリカ社会の抱えていた問題との関係で語られ、神話化されてきました。つまり、英語を介さない労働者階級の新移民に対して、サイレント映画はアメリカとはどういう国であるかを教える教育装置として機能したという議論が、繰り返されてきた過去があります。新移民たちは工場や港などでの肉体労働の後に5セント硬貨で入れるニッケルオデオンに通い、安価な娯楽を楽しみながら、画面上に映った事物や物語を通してアメリカの文化や社会について学んでいたという議論です。
歴史社会学的なニッケルオデオン時代の研究
この議論、というか神話、は長い歴史を持っているのですが、70年代以降の米国におけるフィルム・スタディーズの理論的転換でニッケルオデオン劇場の文化的実践についての理解は少しずつ変わってきました。先月述べた「アトラクションのシネマ」という概念も「初期映画を未熟な物語映画であると単純化するのではなく、初期映画自体の特性をよく考えよう」という反省から生まれたアイデアで、ニッケルオデオンの実態についても具体的な歴史資料に基づいてちゃんと研究しようという潮流が生まれたのです。
たとえば、ある研究者はマンハッタン島の中でのニッケルオデオン劇場の所在地と当時のエスニック・バックグラウンドごとの人口分布を重ね合わせ当時の広告などもあわせて検討し、ニッケルオデオンは移民をアメリカに同化させる機能だけでなく移民たちの出身地の出来事や風景に注目し彼らの文化的背景に訴えかけることもあったと論じています。実際、ニューヨークは上述の通り、イタリア系、ユダヤ系、アイルランド系など様々な文化的背景を持った住民が混在しており、それぞれのエスニック集団ごとに別れたニッケルオデオンでは、彼らの母国語で歌を歌い、アメリカに同化するというよりは彼らの文化的アイデンティティーを保存していたという事例もあります。
このあたりの複雑性を、『ユダヤ娘の恋』という1908年の映画を見ながら考えてみましょう。この映画は当時のニューヨークのユダヤ人街の野外撮影もしていて、その点で大変興味深いのですが、基本的にはスタジオ内で制作されたメロドラマです。主人公は若いユダヤ人の女性ルースです。彼女の母が病気で死ぬ時に娘であるルースにペンダントを託します。質屋を営む父は彼ルースのためにビジネスで成功している男性を結婚相手として見つけるのですが、ルースは恋に落ちた本屋を経営する男性を選び、父親は彼女を勘当します。数年後、ルースと本屋の男性の間には娘が生まれ幸せな生活を送るのですが、ルースの夫は梯子から足を踏み外して死亡し、本屋の経営は危機に瀕します。ルース自身も病魔に犯され金策に走るのですが、ついにはルースの娘がルースが母から譲り受けたペンダントをそうとは知らずルースの父の質屋に持ち込みます。ルースの父は目の前にいるのが自分の孫であるとわかり、ルースのもとに駆けつけるのですが、時すでに遅く父の目の前でルースは死んでしまいます。
この移民の家族の世代間の対立を描いたメロドラマは、観客によって異なる効果を与えるように思います。つまり、恋に生きるルースの悲劇はアメリカ生まれの移民第二世代に最も強く訴えかけるわけですが、同時にこの話全体は「親の言うことを聞かずにいるとこうなってしまうぞ」と言う教訓劇としても解釈可能で、その意味でやはり移民第一世代を主要なターゲットにしているとも考えられます。実際、あるテクストが常に一意に解釈されると言うことはまずないので、解釈に幅があるのは当たり前ではあるのですが、では実際にこのフィルムが当時のニューヨークのユダヤ系社会の中でどう読まれどのような効果を果たしたのか考えようと言うアプローチをとるのが、現在のアメリカにおけるフィルム・スタディーズの基本的なアプローチなのです。
また他の研究者は階級との関係に注目し中産階級のエリアにもニッケルオデオンがあることから彼らもニッケルオデオンを楽しんでいた可能性を論じているかと思えば、また別の研究者が当時新しかった都市内の公共交通網とニッケルオデオンの関係を指摘することで、ニッケルオデオンはその所在地の住人ではなく公共交通を使って通勤する労働者階級とやはり強く結びついている可能性を議論しています。
都市によってもニッケルオデオンの文化的意義は異なっており、例えばこの時期のシカゴの場合、低所得層向けの娯楽として映画が普及したことで演劇の文化的ヒエラルキーが相対的に向上し、庶民の文化としてのニッケルオデオン映画と中産階級向けの正統な娯楽としての演劇という対立が、南部から職を求めて引っ越してきた労働者階級の黒人ともともと北軍側であったシカゴに古くから居住し中産階級化していた黒人との間の対立とオーバーラップしていた事例などが研究されています。
このようにニッケルオデオン時代には様々な研究があるのですが、ニッケルオデオンでの興行の実態とその文化的意義がどうであったということを一言で一般化することはかなり難しいということなのです。グーグルやWikipediaで調べれば、「ニッケルオデオンは当時の移民労働者向けの低価格の娯楽だった」ということはすぐに分かります。基本的な理解はそれでいいのですが、アメリカという広い国のすみずみまで行き渡ったニッケルオデオンという文化的実践はその一言で片付けられるほど浅くはありません。アメリカという国は歴史が短い国なので、たまに「アメリカに文化なんてあるの?」という人に会うことがあります。私は、そういう人に会うたびに「馬に蹴られてしまえ」と思うのですが、人間が住んでいるところはどこにでも彼らの営みが存在するわけで、そこには文化と呼ぶだけの複雑さがあると考えるのが自然でしょう。