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【自由研究】お母さんから「よそはよそ、うちはうち」と言われたから言い返す方法をいっぱい考えてみた

東京都立巻爪小学校2年3組
わたなべわたあめ

【はじめに:僕が調べようと思ったわけ】

 突然ですが、皆さんはお父さんやお母さんから「よそはよそ、うちはうち」と言われて、何にも言えなくなった経験はないでしょうか。

 この決まり文句、親たちの必殺技だと思うんだよね。だって、これを言われたら何にも文句が言えないんだもん…。言うこと聞かなかったら「じゃあ、よそに行きなさい!」なんて言われちゃうし。

 僕もこの前ね、この必殺技にやられたんだ。お母さんに「iPhoneほしい」とお願いしたんだけど、すぐに「ダメ」って思いっきり反対されたんだ。クラスのみんなは持ってるのに僕だけ不公平だよ。それで「ヒロシくんは買ってくれたのに、なんで僕はダメなの?」と反撃したんだけど、「よそはよそ、うちはうち」と言い返されちゃって。必殺技くらったら何にもできないじゃん。本当にくやしかった…。

 きっと僕みたいな経験した子どもって、すごく多いと思います。

 果たして僕ら子どもたちはこの必殺技に対して、だまって言うとおりに聞くしかないのでしょうか。そういうわけで僕は世界中の同じ悩みのある仲間たちを救うために、図書館でたくさん調べて、形而上学的視点から「普遍性のある公正な法律」を考察する学問『法哲学』の観点から言い返しの糸口を考えていきたいと思います。

 もしも家族から「よそはよそ」と言われたら、コレを思い出してくれると嬉しいです。

※先に結論を読みたい人は【第2章:どんな必殺技にも手順がある】まで飛ばしても大丈夫です。


【第1章:法律は親の味方なのか?】

《1:なぜ僕らは従う必要があるのか》

 言い返しの糸口を考えるにあたって、まず最初に押さえておきたいことがあります。

 それは「なぜ子どもは親に従う必要があるのか?」ということ。

 なんで子どもは親に従わないといけないのか。先に答えを言うと、それは「生きていくために必要だから」。そもそも子どもは親(大人)に比べて、経済的・身体的・精神的にも未熟です。子どもが社会的生活を過ごすためには最低限の衣食住が必要になるわけですが、そのためには親の経済的支援が必要不可欠になります。

 つまり、ここに「子どもは親の支援無しには生きていけない」という、厳然たる事実が存在するわけです。

 だから、僕たち子どもは親からこの事実を提示されたら、それに従わざるをえない。それに従わなかったら、子どもは社会的に生きていくことができなくなってしまうからです。

《2:物の見方を変えてみる》

 前述の《1》で提示したように、子どもと親の間にはこのような厳然たる事実があります。だとしたら、僕たちが親と戦うためには、この事実を否定していくしか方法はありません。

 しかし、この事実を否定するのは僕たちには難しい上に現実的じゃない。それこそ「じゃあ、よそに行きなさい!」なんて言われたら、僕たちにとって楽園追放と同じ事態になります。アダムとイブよりも未熟な分、子どもは滅びるしか道はありません。

 そういうわけで、少し見方を変えてみたいと思います。

 ここで考えたいのは、「この事実を社会はどう捉えているのか?」ということです。これまで書いたように、親は子に対して一種の支配的機能を持っているわけですが、社会はこの機能をどのように認めているのでしょうか。

 次の項目では、社会性認知機能を持つ法的根拠を探ります。

《3:親が子へと持つ支配的機能の法的根拠》

 親が子に指図する。この支配的機能の拠り所を日本の法律では、親が持つ権利および義務である「親権(もしくは教育権)」として定めています(民法第820条)。

 そもそも、この親権は日本における家父長制の「支配権」から始まっていて、これが明治以降の近代法の中で個人主義化に進み「父権」へ、そして(原則として)父母が同等の権利を持つ「親権」へと発展していきました。

 家父長制の下での「支配権」は、子の労働力を親が搾取する権限として当然のように含まれていましたが、20世紀の発展途上で培われた「個人の尊厳」のひとつ「子どもの権利」という発想が組み込まれて、親権の義務的な側面が強調されていくようになりました。たまに「子どもは親に従って当たり前」という声もありますが、それはもしかしたら、この家父長制の名残なのかもしれません。

 ただ、ここで絶対に押さえなければいけないことは、親がこの支配的機能を持つ理由は「親が子を言いなりにして良い」という意味での親権が与えられているからでは決してなく、子どもには「生きる権利」があって、そのためには親の支援が必要不可欠であり、親たちのいる社会はその事実を僕たち子どもたちに対して「果たすべき責任および義務がある」という意味での『親権』として与えている。

 つまり、親が持つ支配的機能は「子どもが生きるために必要という限りにおいて認められている」に過ぎません。この法的根拠を意識して押さえておきたいと思います。

《4:支配的機能が及ぶその射程範囲》

 ここで少し、その支配的機能がおよぶ射程範囲について具体的に考えていきましょう。親はどこまで子どもをコントロールしていいのでしょうか。

 このことについて国連の子どもの権利委員会が制定する『児童の権利に関する条約(以下、『子どもの権利条約』と称する)』によると、「子どもの最善の利益になる限りにおいて許される」としています(第3条1項、第18条1項)。

 また、教育学者の結城忠氏は、親の支配的機能は「子どもの利益・福祉になる限りにおいて許される」と述べています(『ドイツにおける親の教育権の法的構造』2015年3月1日:白鷗大学論集 第29巻 第1・2合併号より収録)。

 すなわち、2011年の民法改正で『親権(第820条)』に「子の利益のために」という文言が加えられているように、親が子へと持つ支配的機能は、あくまで「子どものためになる限りにおいて許される」というわけです。

《5:利益を明確にしてからロジカルに提案する》

 では、これまでのことを踏まえた上で、必殺技に対する反撃の糸口を考えていきたいと思います。

 結果から言えば、子どもの僕にとって「従わないことが親にとって、どれだけのメリットがあるのか」を明確にして、親に対して論理的なプレゼンを見せる必要があります。ここで重要になるのが、親側も必ず「従うことが子どもにとって、どれだけのメリットがあるのか」を提示しなければならないということです。

 これまで解説したように、親の支配的機能は子どもの利益・福祉になる限りにおいて許されるわけなので、そもそも子どもにとってメリットがないのであれば、親の要求は子どもに対して通るわけがありません。親の支配的機能は、親のために存在しているのではない。

 このプロセスを疎かにすることは、親がどのようなメリットがあるかを提示せず、そして、そのまま必殺技を出してしまう。つまりは、お互いの利益・福祉について提案し合う貴重な親子コミュニケーションの放棄でしかありません。

 また、『子どもの権利条約』では「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見はその児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。(第12条)」と規定されています。

 日本は国連加盟国なので、この『子どもの権利条約』を違反または放棄した際は人権侵害として法的措置に運ぶことも十分に可能です。

 お互いがお互いに、なぜそうした方がいいのか、そこにある子どもにとってのメリットは何なのかをはっきりさせて、意見を重ね合わせながらお互いに納得のいく答えを導き出す。

 そのようなコミュニケーションのプロセスを辿れば、僕たち子ども側も親の言い分に対して納得できると思います。それに関しては親側もそうではないでしょうか。

【第2章:どんな必殺技にも手順がある】

《1:「よそはよそ」は「よそはよそ」にすぎない》

 そろそろ必殺技である「よそはよそ、うちはうち」への直接的な論破の仕方に触れていきたいのですが、法哲学の観点から徹底的に調べて考えた僕の結論は、残念ながら「不可能」としか言えません。

 なぜならば「よそはよそ、うちはうち」自体に間違った部分はなく、客観的に正しいからです。しかし、誤った部分は確実にあって、それは僕たち人間側の認識に問題があります。

 皆さんは『アナロジー思考』という思考法を聞いたことはないですか。

 現在の固定観念(メンタルモデル)から一旦離れて、意図的に発想をジャンプさせる思考法です。アナロジーとは、日本語で「類推」と訳されますが、一見違うように見えることに共通点を見いだすことを指します。

「よそはよそ、うちはうち」、この「よそ」と「うち」は本来ならば全く関係のない事柄なのに、あえて意図的に並べることで必殺技を受けた側は「一定の条件で成り立つ共通項が、今回に限って条件に適合しなかった」、いわば「無条件に関係ない物が理論的に“関係ない”と立証された」という錯覚が生まれる傾向があります。

何の関連性もない並びの一例
◆「犬は犬、タコはタコ」
◆「渋谷は渋谷、土星は土星」
◆「わさびはわさび、米津玄師は米津玄師」

 数学の公式に言い換えれば「X=X、Y=Y」、その物体はその物体にすぎないのに人間はなぜか自動的に辻褄を合わせてしまう。それはまるで視覚や聴覚から得た刺激情報を脳内が普段からよく知るパターンへ勝手に当てはめてしまう心理現象『パレイドリア』と似ています。

『パレイドリア効果』とも言う。

 つまり、「よそはよそ、うちはうち」自体には上も下もなく、客観的な事実を述べているにすぎません。だからこそ、客観的な事実に論破を試みるのは「不可能に近い」というわけです。

 どこまでも僕たちを苦しめる「よそはよそ、うちはうち」ですが、時に「よそはよそ、うちはうち」は僕たちを助ける一面も持ち合わせています。

 ずっと憧れて頑張った夢の挫折、生まれ育った環境や身分の違い、先天性障害による社会的ハンディギャップ……どうしようもできない葛藤を救ってくれるシンプルな言葉もまた「よそはよそ、うちはうち」。「不要な共通項を持たない」人生の大切さを教えてくれます。

 結局は「よそはよそ、うちはうち」という必殺技は相手の思想を捻じ伏せる呪文ではなく、良くも悪くも相手の抱える価値観を180度変化させてしまう、いわば諸刃の剣なのかもしれません。

《2:大人は時々ムリ言うぞ。子どもにまじめにムリ言うぞ。》

 さて、ここで再び問題になるのが、この必殺技を使う親たちがこれら事実を正しく理解していないということです。改めて言わなくても、おおよそ見当が付くのではないでしょうか。

 最初に僕が話したiPhoneの一件のように、ゲームやペットとか子どもの要望は「よそはよそ」と却下させといて、同じクラスにいる別に話したこともないような奴が「学習塾に通っている」という理由で「あんたも通いなさい」と一方的に言ってくる。

 そこで僕みたいな子どもが「よそはよそ、うちはうち」と言い返すと、親はキレたときの竈門炭治郎(『鬼滅の刃』吾峠呼世晴:集英社)みたいな表情でお説教が始まります。

「お前も塾生にならないか?」と誘ったのは向こうなのに…。

 この必殺技には年齢制限などの条件はなく、大人たちが使えるように子どもたちも同等の権利で使えることを微塵も意識していない。「大人だけが一方的に使える」と錯覚することで、今後の親子関係のあり方に悪影響を与えます。銃で撃たれる覚悟のある奴が引き金を引いて良い、古来から勝負とはそういう自然の摂理なのに、本当にズルい話です…。

 似た事例で、30歳を越えて働かない健康体のニート息子に「いいかげん働いて」という親の提言に対して「よそはよそ、うちはうち」と言い返す場面がありますけど、こういう場合はニート息子の「よそはよそ」は通用しません

 なぜならば、世間一般的に「国民の三大義務」として、日本国憲法では以下のように定められています。

◆教育の義務:第26条2項
 すべて日本国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる権利を有し、義務を負ふ。
◆勤労の義務:第27条1項
 すべて日本国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
◆納税の義務:第30条
 日本国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

『日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務』より

 ここで重要なのは、専業主婦(主夫)は上記の「勤労の義務」「納税の義務」に違憲していないという法の解釈です。

 まず、納税に関してはあくまで「義務」です。

 税に関する法律は所得税法・法人税法・相続税法など様々ですが、要するに「手にしたお金に応じて税金を払う」というものです。「法律の定めるところ」という各種税法は、どれにも「無収入のものに納税を求める」という定めはありません。

「専業主婦(主夫)」は基本的に直接お金を手にしていないので、税金を支払う義務はありません。主婦(主夫)でも預金の利息・証券取引・遺産相続・競馬の払戻金など年間50万円以上の一時収入があれば、それに応じた所得税は発生します。なので、「納税義務」に関しては問題はありません(消費税に関しては、もちろん「主婦(主夫)も支払う」ので除きます)。

 一方、勤労に関しては「勤労の権利を有し、義務を負う。」と書かれています。よく「三大義務」と軽くひとまとめにされますが、憲法上では納税と違い、勤労には「権利」が伴います。

 では、「勤労の権利とは何か」ということになりますが、法的に考えると「勤労者財産形成促進法」の第2条1号に「勤労者 職業の種類を問わず、事業主に雇用される者」という「勤労」に関する定義があります。ですので、(法的に解釈すると)専業主婦(主夫)は勤労していないことになります。

 ただ、この法律だけで解釈すると、専業主婦(主夫)以外にも個人事業主や会社の社長なども「勤労していない」ことになってしまいます。では、会社の社長やラーメン屋の店主が「勤労の義務を果たしていないか」というと、そうではありません。

 ここから先は「法の解釈」ですので主観が入りますが、少なくとも専業主婦(主夫)は「勤労の権利」を有している時点で憲法第27条を「守れていない」とは言えない、「勤労を広義に解釈して主婦業を勤労と捉えることは、法に抵触するものではない」と私は考えています(※注釈を入れますと、法の解釈は常に主観で行われます。検事や弁護士や裁判官もまた一緒です)。

 つまり、ニートって何が悪いのかと申しますと、憲法第27条1項の「勤労の権利」に違憲しているからです。

「あんたはこのように違憲している」と法的に説得すれば健康体のニート息子を追い込むことができますが、もしも親側の理由が「私たちにも親戚や近所の目があるから…」という世間体的な理由ならば、この息子を理論的に説得するのは、しばらく難しいでしょう。

 法律も然り、この「よそはよそ、うちはうち」という必殺技をどれだけ正しく把握しているか、それだけでも十分に将来が分かれてしまいます。

「これはそういうものだから」は、たとえ親子であっても通用しません。

【さいごに:僕らはもっと話し合うべきではないか】

 以上が「よそはよそ、うちはうち」という必殺技に対して、僕たち子どもたちが戦う、反撃の糸口の考察でした。

 結局のところ「子どもも親も向き合ってコミュニケーションを取ろう」という提言に行きつきます。しかし案外、このプロセスを無視して一方的に押し付けることは、世の中にたくさんあると思います。それは親子関係だけじゃなく、お父さんやお母さんの勤める職場でも必ずある上司・部下の関係もそうです。教育や躾とは、本質的には上位者が下位者に「一定の価値観を押し付ける」ことです。

 でもね、僕たちがいじめっ子や先生の意見に逆らえないように、基本的に力関係が対等でない場合、強者の意見が強いに決まっている。具体的に説明しなくても、そういうものは基本的に通ってしまうものです。

 でも、それは本来なら「当たり前」じゃないんだよね。

 どういう関係であっても、向き合って互いが話し合う必要があります。

 そうすれば、大人たちが、子どもたちが、僕たちが、みんなが今よりももっと世界は笑顔になれるんじゃないかと思います。

 この自由研究が書き終わったら、まずは僕からこの前のわがままを謝って、そして、これからはお互いが対等に意見を話し合えるように、お母さんとお父さんとそれ以外の大人たちとしっかり向き合っていくことにします。

 最後に、この自由研究を書いているときにリビングのスマートスピーカーで聴いた、冬休みに家族で観た『映画ドラえもん のび太の夢幻三剣士』の主題歌『世界はグー・チョキ・パー』の歌詞(一部抜粋)をエンディングテーマ代わりに締めようと思います。

大人は時々 ムリ言うぞ
子どもにまじめに ムリ言うぞ
勉強 がんばれ やりぬけば
天才的な 人となる
ところがあるんだ ムキ フムキ
エジソン 国語はレイテン
アインシュタインは 鉄棒 超 ヘタ
ラクダイ生
一番が ひとつ あれば いいんだねえ
放課後 元気は クラスで一番だよ
子どもは グー チョキ パーで 学校楽しくなる
みんなちがうから あいこでしょ

『世界はグー・チョキ・パー』作詞:武田鉄矢

(おわり)

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渡邉綿飴
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