「正欲」への共感と分厚い感想
はじめに
朝井リョウの「正欲」を読んだ。そして映画も見た。
そこで、『普通の異性愛者』ではないことで感じる辛さや、
この世の欲の多様さ、分かり合えないことに対する共感など、
たくさんの感情を持った。
なので感想と共感をここに書いとく!
⚠︎再喝
前に書いた記事を、衝動でまるごと消してしまったので、0から書き直すぜ!!約6000字。
フツウの異性愛者になれない辛さ
この作品では、水に性的?指向が向く人たちの話だった。
私は水ではなく、人間に指向が向くのだが、
それでも彼らにとっても共感した。
それは私が、普通の異性愛者じゃないからだ。
異性愛者でも、神戸のように異性に対する嫌悪を持っている人もいれば、
寺井のように妻の涙になぜか興奮してしまう人もいる。
私の場合は、異性愛者だけど、同性愛者でもあり、
恋愛感情もあまりない人間である。(性欲は多分ある)
このように、表面的に『異性愛者』と括られていても、内面はひどく矛盾して混沌としているのが人間である。
誰が『普通の』異性愛者だとかは、はっきり言えないのだ。
目に見えてはっきりと、『普通の』異性愛者じゃないとわかる
桐生や佐々木、諸橋も、小児性愛者の矢田部も、
みんな違くて、絶対『フツウ』ではない。
そんな誰もが『普通』になれない世の中でも、
より共感者(つながり)が多い欲(性欲や趣味嗜好)を持つ人は、この世を生きやすい。
あくまで個人的な観点で見れば、
糞尿よりもグロ、グロよりも無機物、無機物よりも水、
水よりも人間、
小児よりも熟女やおじさん、熟女よりも若者、普通の顔よりも美人、
普通の若者よりもアイドルや俳優、などなど。
そのコンテンツの人口が多いほど、その仲間同士の結束は高いし、
共感性も高い。
それは無意識のうちに、
自分達よりも、少数派の欲達を押しのけ、つながりが多いコミュニティでたまたま、生き延びてるもんだと思う。
その原理はどんな欲であろうと、本能的には正しい。
そのたくさんの欲・指向の中の、頂点にあるような
『普通の異性愛者』は多くの共感者を持ち、この世から肯定され祝福されているようだ。
ドラマもAVも必ずと言っていいほど、異性愛が品揃えられていて、
街を歩けば、それ用のホテルも溢れている。
コンビニなんかにも、エロ本やコンドームがある。
異性愛のコンテンツや文化は超豊富である。
異性愛者というだけで、こんなにも優遇されるのかというほど、
この世は健康的な男と女を前提とする愛やコンテンツに塗れている。
普段の日常も意外と、男と女の生殖を前提とした話題で成り立っているのだ。誰と付き合っているだとか、誰が結婚したとか、子供が可愛いだとか。
まあ、今は同性愛の方への配慮が流行っていて、言葉使いも改められてるが、
それでも、まだ。『普通の人』以外の性愛には、なんの配慮もない。
この世にある全ての性愛に配慮すると、一言も発せなくなるのが結論だろう。規制しまくれば、最後には何もなくなる。
白紙にしても、『白紙が嫌な人もいるんですよ!!』とか言われて何もなくなる時代だ。
だから、私たちは多数派であろうが、少数派であろうが、みんな関係なく誰かを傷つけて生きていることに変わりはないのだ。
生きているうちは、誰かの何かを奪って生きているのだ。
その事実を、このような映画や小説を通して気づける人間は、この世にどれくらいいるだろうか。
そして。
その事実を自分や他人のために活かして、生きていける人々は何人いるだろうか。
その酷い事実を、素直に受け入れて、その人らしく繋がりを持って、この世にとどまれることが。どれだけ難しいことかは、少数派の人間は分からせられやすい。
ただ生きてるだけで、『気持ち悪いんだよ』とこの世の全てに否定されてるような、自分が不健全な人間だと思い知らされる瞬間が多いほど、
他人を、人間を、この世を信じれなくなり、最後には恨むようになる。
映画では、そんな桐生や佐々木、諸橋の『分かり合えるわけがない』という表情が滲み出ていた。
態度が顔が、行動がの全てが、本当はわかりあう気などない。生まれてきた時から、孤独なのだと分かりきった人間だ。
私は、桐生達と同じ欲なんてひとっつも持っていないけど、
みんな違う人間だけど、
本当にその『分かり合えるわけがない』という日々の積み重なりに共感した。
水の欲に対する疑問点
小説と映画、両方見た上で思ったのだが、
佐々木と桐生、諸橋の、一人一人が水にどのような欲を抱いているのか、もっと知りたかった。
水のどんな姿に惹かれてるのか、恋愛感情と性欲がどのくらい向けられてるのか、水の音や色、光にも惹かれるのか。
水って綺麗系なのか、可愛いのか、かっこいいのか、どんな風に思ってるのか。水は生活でありふれているものだけど、どんな存在なのか。
彼らにとって、どれくらい水の存在って大きいのか。
ってたくさん疑問に思った。
もちろん、桐生も佐々木も、諸橋も、同じ『水が好き』という共通点があっても、『人間』としての経験や過去、感情はみんな違うものを持っているよね。
異性愛者にもいろんな人がいるように、どんな欲にもいろんな人がいるのは同じ。その上で、もっと桐生と佐々木の欲に対する解像度をもっと高めたいと思った。
『水』という対象は、個人的観点からして、良いと思った。
もし身近な人から、水に興奮してるって言われても、何も感じない。
むしろ、気になって、良いなって思う。
だから、小説や映画など、大衆に見られるマイノリティの作品としては、『水』を対象とすることは、ある意味いい線を突いた気がして。
もしわざと、その対象をさ、『小児』だとか、『銃』だとか、『糞尿』にしてたら、いわゆる『センシティブ』に引っかかって、規制されそうになるのかな。
物語の中でもっと不快感や分かり合えない絶望感が、高まったのかな。
佐々木達が『水』を対象としていたからこそ、
私は共感できたのかもしれないし、
この映画を見て彼らに共感したって人も、きっと他の欲でそれを見ていたら、全く共感できなかったかもしれない。
同じ絵を見ても、目線が同じ人間達でも、
そこでどこの部分を好きになるかとか、どんな気持ちになるかって全く違って。
欲もそれと同じだと思う。
同じ人間に見えても、きっとそこで得るものは全く違うよ。
公園で、
佐々木と桐生が興奮して、『水』を撮ることと、
小児性愛者の人が興奮して、『子供』を撮ることと、
異性愛者が興奮して、『恋人』を撮ること。
みんなさ、撮るっていう『行為』は全く同じなの。
だからここに、どんな違いがあるのかと。考えさせられた。
対象が違うだけで、そこでしてることは同じじゃないのか。
でも個々の心境は何一つ同じじゃなくて、バラバラで。
物語の結末的には、小児性愛者と決めつけられて、
『小児性愛者なら、これは犯罪だね』っててらいに決めつけられたけど、
それってさ。
裏付け的に、『水なら』許された。
『大人の異性』なら許された。
『小児以外』なら許された。
小児以外なら、なんでもいい。法に触れないならいい。
ってことだよね。
それっていいのかな。
外でさ、興奮しながら水を撮影したり、動かすのは、
多少変な目で見られるけど、
決してものを壊したり、人に迷惑かけなければ、
それは完全に『そういうアーティスト』みたいな風にも捉えられる。
水じゃなくても、熟女好きな人が、ただの若者として話したり、デートしたり、本気で愛して興奮するのは、人様から見たら、『おばあちゃん子』って捉えられる。
もし小さめの物質が好きな人が、公共の場でバレないように、その物質を愛して興奮してても、他人からは気づかれもしないかもしれない。
それが、小児になった瞬間。
他の、許容できない欲になった瞬間。
『何か』大きく視点が変わるものが、絶対あると思う。
え、なんでもいいよ。全部受け入れる、大丈夫だよー!
って人なんて、事実いないと思う。
まだその『何か』を体験したことないだけで、長く生きればきっとそれが分かる。
人間全てを受け入れたら。心身ともに殺されるだろうし、生きていけない。
だから、みんな独自の視点と欲望を、現実の他者と上手く調和してって生きている。
『法律』というある意味、全く正確さのない基準で。
『法律』で判断することは正しいけど、『法律だけ』で全てを判断するのは決して正しくはない。
テストにも平均値、最高値、最低値、中央値などがあるように、『基準』や『指標』はその時代、時々に作られたものであり、少なくとも変化はする。
法律でもまとめきれない、人間の欲の多様さを、
どれだけ個々で上手く扱っていけるかが。
法はあくまで世の中の交通整備的役割で、ある程度快適な世の中を保証してくれる。法でもカバーできない、暗黙の了解部分をどう解釈し、補い支え合ってくか。
これから大事になるのではないか。
諸橋への共感
この作品を通して、今の自分に一番刺さったのは諸橋と神戸のシーンである。
境遇ということもあるが、諸橋にはとても共感する。
佐々木や桐生も、諸橋と同じ欲を持っているが、
その二人は学生時代に、同じ欲を持つ人と出会い、少しの希望を持って生きれた。
それに『私たちと同じような人が、苦しんでないといいね』みたいな感じにもなれた。心の余裕のある、他者の希望となれるまでのつながりを持ったのが佐々木たちだった。
しかし、諸橋は違う。
生まれた時から、同じ欲を持った人とは一人も会えなかったし、孤独。
同世代の同性とのギャップや、『本当の自分』とは違う捉え方を常にされて、もっと本当の自分を隠して生きる苦痛がある。特に下ネタのシーンとか、それがよくわかる。
せめて分かり合えないなりに、人を避けて平穏に生きようとしても、勝手に他者に『同性愛者』だとか憶測されて、更なる不信感。
無理やり『普通の異性愛者』に結びつけようとする周囲の人々。
性格にまですら憶測が飛び、対象でもない異性から向けられる恋愛感情。
同じ欲を持つ者との関係も、みんなの言う下ネタも恋愛話も一生できないんだろうなっていう絶望感。
私もそのようなギャップや勘違いを何度も、経験してきたので、諸橋の一言一言にとても重いものを感じた。
『根っこから腐ってるから、無理なんだよ』って感じ?の言い方にも、すごく共感した。
諸橋のような経験をしてない人からしたら、『何言ってんだ、こいつ』みたいな感じかもしれない。
でも、本人にとってはそれはとても大きなものだ。
生まれた時から、誰一人にも共感されず、仲間もいず、つながりもなく、
だから、何かと繋がろうと努力するたび、
過去の中傷やトラウマ、憂鬱が、自分を再び孤独に返す。
そうやって生きてきた人間は、いつしか、
『他者とつながらない』『わかりあわない』こと自体がアイデンティティになってくる。
他人とつながらない孤独な状態が、当たり前になってきて、
常にこの世を疑って信じていない自分が『正しい』と思い込むことで、
なんとか生きる正当性(理由)を保って、死んだように生きてる。
諸橋は、他者を信じないというクソ重い重石を持つことで、
やっと生きていける。
その重しがあるからこそ、生きていけるけど、
一生誰とも分かり合えないというデメリットもある。
それでも、彼はそれしか選択できないほどに、辛い環境にいたのだろう。
だからその重石をいきなり、他人から『奪われた』と勘違いして、さらに頑固になることがある。
神戸のような人間が突如、自分の世界に足を入れてきた瞬間、
『何もわからないくせに』『偽善者が』『根っこから、変われるわけない』などという感情を抱くのだ。
その理由は、まだ諸橋が皆と比べて、『自分の欲を受け入れられる機会』が少ないから。それが少ないということは単に、普通の人たちの『子供の頃』と似ている状態でもある。
赤ちゃんから子供、子供から青年というように、みんなは段階を踏んでく中で、『自分が受け入れられる』『生きてていいんだ』という肯定経験を積み重ねる。
でも、諸橋には。欲に関して、その段階がほぼないのだ。
映画で、桐生が佐々木の家の窓ガラスを割ったのも、それに通ずるかもしれない。
自分の欲を肯定されてこなかった人間が、いきなりそういう状況下に置かれた時に、ちょっとした『心の不具合』を引き起こしやすいのは確かである。
そういう人間に出会った健全な人間はどう振る舞うべきなのか。
これは考えさせられる。
神戸は、意を決して、『私も辛いよ、異性愛者だって辛いんだよ』って訴えてた。
それを聞いた時、諸橋のような人間は、一瞬『は?』と思ってると思う。
冷静になって、切り離して考えれば、『あ、っそか………相手も辛い思いをしている人間なんだ。自分だけじゃないんだ。』って事実はわかるんだけど、
あの時の諸橋と神戸は、ある意味自分が『一番正しい』と思っていた。
それは全ての関係に言えることだが、寺井も、その妻も、子供も、佐々木も、桐生も、みんなみんな、『自分が一番だ。正しい。』と思ってる。
だから、衝突や苦しみ、孤独などが発生する。
どれだけ死にたい気持ちになっても、なんとかして今を生きてるっていうのは、自分の奥底にまだ、『正しい』と思う気持ちがあるから。
『正しい』
そう思いながらも、神戸は最後に、諸橋の行先に肯定してあげられた。
そして、諸橋も神戸に、『頭の中は自由であるべきだと思う』みたいなことを言って、相手の欲を肯定できた。
このシーンは自分からしたら、すごいことだなと思って、
あれだけ自分に閉じこもって、ある意味自分だけが正しいと思っていた二人が、受け入れ難い欲望を持つお互いのことを、肯定できるって、
なかなかできない。
こういうことが日常でさらっと行われてるみたいな視点で、語られてるけど、私にとってそれは全くできないようなことで。
佐々木も桐生も、諸橋も神戸も、人生でどれだけ苦しみを感じても、
結局相手を肯定する態度で入れて、素晴らしいなって思った。
そして私もそうなりたいものである。
『分かり合えない』だから、どうする?
『分かり合えない』だから、
傷つける、挑発する、バカにする、
あとで得をするように優しくしとく、
本心から肯定したいと思う、
本心から信じれないから、全てを否定する、
最初から一人でいる。
つながりを持とうと必死になる。
誰も批判せずに全てを受け入れる。
全てを批判して傷つける。
そのどれもが、この世に存在していて。
みんな、それを『正しい』を思って、生きてること。
私もその一人だ。
私は『分かり合えない』だから、
一人でいよう、誰も信じない、誰かがやって来ても、逃げて疑って、また一人になる。
という人間だった。
でもこのような作品で、佐々木や桐生、諸橋を見たり、
現実でそのような人たちを見ると、
自分の『正しい』ではなくて、他人の『正しい』もたまには受け入れようとか、他人の『正しい』をもっと知りたいって思うことがある。
その過程でひどい成長痛がするけれど、私は今までのそれが自分を形作ってくれると思う。
他の『正しい』に傷つけられたり、感化されたり、癒されたり、感動されたり、生かされたり、殺されたり、することで人間は何度も形を変えて来たのだと思う。
その事実をどう捉えるのかも、一人一人違って、
人間は呆れるほどに多種多様すぎる『正しさ』を持っている。
それでも私はまだ、自分なりの『正しさ』を持ってこの世にとどまっていたいと思うし、
自分の正しさがこれから、いろんな人々によって、改変されていくのを楽しみにしたい。
『分かり合えない』ではなくて。
『分かり合えない、だから自分は』というところまで考えられる人間になりたい。
分かり合えないからこそ、自分自身も他者もできる範囲内で、生きていくことを肯定できるようになりたい。
おわりに
正欲は確かに、自分の心に刺さった作品だった。
最近、社会全体として、いわゆる少数派の人々をテーマとする作品が増えてきた気がするが、
それに対していろんな意見や感想があるのは知ってる。
しかし、私はそれすらもなぜか、進んで知りたいと思ってしまう。
それは、昔、友人に『この映画を見たい!』と言われた時。
正直そのアニメや、異性愛の恋愛物語に全く興味がなかったのだが、
取り繕って、『うん、いいよ』と言って、今まで興味のない作品もたくさん見てきたからだ。
その内容の9割は確かに予想通り、自分に刺さらなかった。
でも1割。その1割だけに、とっても心に刺さる一言があった。
それから、私はその1割を求めて、
興味のないor嫌いなことにも『とりあえず受け入れるか、やってみよう』の姿勢で入れるようになった。
無理して面白いんじゃないかと期待したり、自分の心を捻じ曲げてまで、相手に合わせるより、自分の好きなことだけやっているより、
時々その1割を求めて、外に宝探しに出るくらいの気分でいたほうが楽だ。
人間関係もそうで、そのわずかな期待と希望を持って接してる人も、少なくはないんじゃないか。
その姿勢を苦手なことや、受け入れ難いことにも使えたら、
人生に新しい刺激や思いもよらぬ視点が追加されてくるかもしれない。
そう考えれば、他者の受け入れ難い『欲』も、なんとなぁくいいやと、ゆるい希望を持って接していける気がする。
そうはいかないほど、現実は酷く、混沌とし過ぎているのだが、
今はとりあえず、
希望を持つ姿勢でいたいのだ。