仕方がない、生まれてきて良かったと思える瞬間を増やす
本日は、仕方がない、生まれてきて良かったと思える瞬間を増やす、について解説します。
僕は最近この2つの言葉をかなり推してると思うんですよ。
治療とは何かと言ったときに、仕方がないと思えるようになること、そして生まれてきて良かったと思える瞬間を増やすことなんだよ、と、わかりやすいので、この話をよくしてるんです。
実際、講演会とか取材の時にもこの話はよくしてます。
この話をすると、「あ、わかります」と言ってくれる患者さんも多くいる一方で、「そんなのひどい、そんなこと言うな」と怒る人、反発する人、苦しくなってしまう人もたくさんいるんです。
元々これはマーフィ重松先生というマインドフルネスの大家の先生からお借りしたというか、いただいた言葉でもあるし、この前の曹洞宗のお坊さんの枡野俊明さんからも確認させてもらった、いただいた言葉なんですけど、結構、日本の美徳や美意識の中心概念としてすごく重要な要素なんです。
諦観がある。
仕方がないと思って次に行動する。
悩み続ける中、行動に移していく、一回諦めて次に進む力、自分の人生と向き合う、命と向き合う、感謝と言うとちょっと嘘くさいというか、偽善的に聞こえちゃうかもしれないし、自分の人生はこんな苦しかったのに、それがなぜそう思えるんだと思うかもしれないけど、自分と向き合って、命の奇跡性やその意味に気付けるかどうかというのは重要な概念なんです。
これは難しいですね。
めちゃくちゃ難しいです。
簡単に言うし、言うけど、結構難しい。だけど多くの日本人は聞いたことがあるし、どこか心の隅にはあるような感じ、映画や芸術、漫画、色々なものの中にこれらは含まれていることが多いんです、特に日本人が作ったものには。
日本文化の中ですごく根付いているので、それらが脳神経科学など欧米由来の精神療法の世界ともそこまで矛盾しないので、僕は中心概念として持ってきてるんですけど、この話をします。
難しい話ばっかりするとよく言われるんですけど、改めて話すことによって理解してもらいやすいかなと思います。
◾️治癒のイメージ・共通認識
まず背景に、なぜこういう話をするのかというと、治癒というものをうまく説明することができなかったし、共通のイメージを持ってもらうことができなかったんです。
例えば、うつ病が良くなるってどういうことですか、どうなったら良くなるんですか、といった時に、何となく皆さんイメージしにくいんじゃないかなと思うんです。
幸せになることだと思っている人が多いんです。
幸福になることがうつが良くなることだと思っていることが多いんですけど、そんなことではないんです。
そしたら僕だって今常に幸福を感じてるわけじゃないからうつ病なんですか、ということになってしまうわけで。
そうじゃないんです。
治癒というのは何かというと、不安やトラウマに支配されず、感情に支配されず行動できている状態なんです。
脳の問題が起きている時に扁桃体が活性化してる、不安を感じてる時に、同時に前頭葉がしっかり機能している状態が治癒なんです。
逆にうつ病の人たちは前頭葉があまり機能せずに扁桃体の動きが活性化しすぎてるんです。
だから感情に支配されてしまって苦しいんです。
そうなんですけど、こういうことをスパッと言い切る人がなかなかいないんです。
僕も最初そういう言い方で教わらなかったので、今のこの障害が取れたらいい、抑うつ気分が取れたら治癒なんだ、まずは3ヶ月薬を飲んでみる、そういう言い方だったんです。
ご飯が食べられるようになったから、眠れるようになったから退院ができるよ、そもそも治療って時間がかかるんだよ、と言って、ここが治癒なんだよ、ここが患者さんのゴールなんだよ、とよくわからなかったんです、本を読んだりしてる中や学生の時には。
でも臨床していく中で、ここなんだなというのがわかってきたというのがあって。
でもこのイメージをもうちょっとYouTubeを見ている人たちにわかってもらうためにどうしたらいいのかということをずっと考えてたんです。
結局、そういう中でこうなんだということがわかりやすいかなと思ってこの言葉を持ってきたんです。
何て言うんだろうな、というのがまず背景として最初にあります。
そして治癒のイメージがわかったら、逆算的に今何をすべきかというのがわかってくるはずなんです。
ここをきちんと言語化できることがすごく重要なんだろうなという風にずっと思っていたというのがまず背景としてありました。
納得する、受容するのは+αなんです。
でも納得する、病気を受容する、と言うと、この治癒のイメージを何となく捉え損ねてしまう感じがしてるというのがあったんです。
だから納得とか受容という言葉にはしなかったです。
病気を受け入れて自分らしく生活することです、と言ったら、それも治癒のイメージなんだけど、それだと本当の治癒が持っているもっとダイナミックな感じ、感動的な瞬間というか、人の命の尊さみたいなものが表現しきれないと思ったので、ピンとこなかったというのがあります。
脳神経科学の世界では、さっき言ったとおり、扁桃体が活性化してる時に、同時に前頭葉がきちんと機能している時が、うつ病の治癒の人はそうなんだということが確認できてるんです。
これがわかったのも最近の話なんですよ。
ここ10年の話で、fMRIという脳の活動がわかる画像処理が進化したからわかるようになってきたし、今自分が自信を持っているようになったと言うのもあります。
また自助会内で、僕、オンライン患者会や家族会やっているんですけど、オンライン自助会や家族会をやっているんですけど、その中で全員がうまく回っていく、体験談を共有していくなど色々話し合っていく中で、共通のカルチャーだったり、共通の認識が必要だったんです。
その中で○○療法など一つのものにこだわるのではなくて、色々な療法、○○療法を取り込んでも矛盾しない形で、患者さんたちが苦労してきた体験や工夫してきたことをそのまま活かせるものは何かということをずっと考えていて、そういう中で同じ日本人のカルチャー、日本人の中にいるのでいいんだろうなと思ったというのがあります。
実際こういう声が多かったんです。
納得とか仕方がなかったとか。
だから利用したというのがあります。
あとは対AI、対海外と書いてますが、AIがコンテンツを作るようになってきているし、なりつつある中、人間である僕、自分だから発信できることは何なんだろうということを考えてたんです。
海外のコンテンツが来た時に負けないもの、そして自分が海外に出せるものは何かというのも考えていたというのが、実は背景であったりします。結果的に、そういうことを考えてると、自分たちがいかに言語や文化の縛りを受けているのかということに改めて気付いたというのもあります。
そういうものを哲学の世界では構造主義みたいな言い方をすることもあるし、文化人類学でもよくカルチャーの影響を受けると言いますけど。
人間は普遍的じゃないんですよね、認識というのは。
僕らは言葉や文化、常識に支配されているし、そこの枠から出て自由に考えることはできないんです。
これはもう哲学や文化人類学など人文系の世界では明らかなことなんですけど。
僕らというのは脳という縛りを受けているし、その脳にインストールされているデータによっても縛られてるんです。
そういう中で、逆にその縛りを応用した方がいいわけです。
日本という文化バイアスから逃れるために、もっとヨーロッパの勉強、歴史の勉強をしろとかいうよりも、それも一つ大事なことなんだけど、やはり皆さん忙しいじゃないですか、だからそんなマニアみたいなことはできないわけで、精神医学マニアみたいなことはできないわけで、自分たちが持っている、もしくは無意識に学んできたことを応用する、その中でうまく活かした方がいいんじゃないかなという風に思ったというのがあります。
あとは結局、精神療法、カウンセリングは何をしているかというと学習なんですけど、心の学習をしているわけです。
優しくされたから急に良くなる、優しい体験、愛情をいっぱい注がれた結果、話を聞いてもらった結果、突然良くなるというんじゃなくて、そういう体験を通じて色々なことを学んだ結果、人格が成熟し、人格が成熟した結果、不安や困難を乗り越えるようになる。
つまり前頭葉的なものが機能して、扁桃体の活動を抑えられるようになるということなんです。
人格が成熟するということはどういうことかというと、美徳を理解し、それを体現するということなんですよね、一つはね。
そして美徳を体現することによって、周りから愛されたり感謝されるんです。
だから文化にも馴染むんです。
優しい人、親切な人、真面目な人というのは、情けは人のためならずという言葉もあるように、そうしている方が周りから好かれるから楽なんです。
悪い人でいる、意地悪をする、自分だけ得しようとするよりも、結果的に良い人の方が楽なんです。
つまり美徳を体現するということなんですけど。
そういう中で、美徳とは何かということを勉強していく中で、鎌倉仏教や親鸞に僕は注目したんです。
というのは、親鸞は大衆に仏教を教えた人なんです。
貴族のためにあった、出世の道具になっていた仏教をもう一度困っている人たちに布教したという人でもあるので、自分と相通ずると言うと偉そうですけど、親鸞がやってきたことをもう一回考え直して、わかりやすいものを目指したということです。
プロテスタントの概念もそうなんですけど、すでに患者さんは随分苦労してきているし、随分修行してきてるんです。
だから本当に思うのは、随分苦労してきているんです、本当に。
随分学んできているというか。
だから、あと最後のワンピースがあれば本当にいいんですよ。
それはピアサポートの現場にいてよく思うんですけど、本当に最後の1ピースが揃うと、本当に仙人みたいな感じで、医者や心理士よりも遥かに人の心を救う治療者というか支援者になるんです。
そういうのを間近で見てたので、自信を彼らが持てるにはどうしたらいいんだろう、自信を持って自分たちがやってきていることを誇れるような状態は何なんだろうということを考えていたんです。
そうすると彼らが経験してきたもの、大事にしてきたものを応用した方がいいだろうということで、こういう概念、 というのがあります。
あとは取材や講演会の質疑応答の時に色々答えていく中で、この言葉をよく使うことがあったし、大事だなと思っているということです。
で、精神療法です。
カウンセリングの治療法は色々あるんです。
例えば支持的精神療法、認知行動療法(CBT)、精神分析、弁証法的行動療法(DBT)、これらとも相矛盾しないのでいいかなと思ってるということです。
支持的精神療法の肝は何かというと、これまで優しくされてなかった、共感してもらった経験がない、話を聞いてもらえなかった人、誤解されていた人が話をしっかり聞いてもらえる、そして共感してもらえる、理解してもらえるということによって、ふと楽になって救われるというものです。
自助会や家族会でやってることの中心は支持的精神療法なんですけど、これは治療の基本でもある、と。
仕方がないよねというのは支持的にやらなければいけないんです。
バッサリ切るものではなくて、諦めろというのではなくて、支持的に「仕方がなかったね」と言ってあげることなんです。
こういう見方をすると矛盾しないかなと思うんです。
生まれてきて良かったと思える瞬間があったというと、ああ、そう、良かったね、すごいね、と言ってあげられるといいということです。
認知行動療法(CBT)というのは何かというと、漠然としてたり、目に見えない心や行動というものを見える化してあげるということなんです。
書き出してみて、それを戦略的に評価してみる。
出来事あった時に私は悲しい気持ちになった、だけど本当はこれは自分の思い込みかもしれない、これを書いてみて、もう一回誰かに検討してもらって、行動を変えてみるというのが認知行動療法の肝なんです。
自分の気持ちを書けること、自分の気持ちに気付けることというのが、書き出していくことというのが認知行動療法(CBT)の肝なんですけど、これも仕方がないと似ていて、こういうことがあったんだ、じゃあ仕方がないよね、じゃあ次の行動移ろうということだから、認知行動療法と矛盾しないんです。
むしろ書き出す、現状を理解するという意味ではかなり似ています。
精神分析はちょっとややこしいんですけど、無意識があるということです。
無意識があって、自分にはコントロールできないものがあるということに気付ける、それを体感するというのが精神分析の肝なわけです。精神分析はカウンセリングの元祖と呼べるもので、なぜ元祖かというと、その当時は人間というのは全て自分の力でコントロールできるものなんだと思ってたわけです。
だけど、病気とかそういうのではなくて、自分にはコントロールできないものがあるんだと、そういう無意識があるんだということを理解したり、気付かせたというのが治療なんですけど。
これも仕方がないというか、自分は弱い人間なんだと認めることと一緒なので、仕方がないと矛盾しないかなと。
ちょっと、ちょっと苦しいけど、でも内包できるというか一緒なんです。
DBTというのは弁証法的行動療法ということで、弁証法的な考え方ができるというのが治療の肝なわけです。
つまり、Aというものに対してはこういうメリットとデメリットがある、Bというプランにはこういうメリットデメリットがある、じゃあこれのいいとこ取りをしましょう、というのが弁証法的な考え方です。AでもなくBでもなくCを目指す、AとBのいいところに気付ける。
これが弁証法的なものという感じで、精神科の患者さんは弁証法的な発想やトレーニングを受けてないと、片方のメリットや片方のデメリットだけしか見えないことがあるんです。
だけど、両方のメリット、デメリットを常に考えるという癖をつけることによって、より中道を選べるということなんです。中道や中庸を選べるというのは仏教の考え方と矛盾しないわけで、内包できるな、と。
後半厳しいですね、ちょっとね。
でもまあ、そういうことなんだよね。
これまで見てきた映画など色々なものの中には、この諦観が持つもの、日本の間、凛とした美しさ、そういうもの、音楽にも含まれていると思うので、何となく良いのかなと思います。
そういうものがあって、仕方がない、生まれてきて良かったと思える瞬間を増やすというのはいいのかなと思って出しているというのが背景としてあります。
️◾️そんなに簡単な話じゃない
ただ、めちゃくちゃ難しい概念だし、色々なことを言われるんです。
よくある質問や反論を挙げると、まず「思えません」という意見が多いです。
仕方がないとは思えないんですよ、そんな風に思えない、生まれてきて良かったなんて思えないですよ、あなたはそんなに不幸な目にあってないからじゃないですか、とよく言われます。
ムズいんですよね。
病気を知って、否定したり悲しんだりして受容する、納得できるまでにやはり10年ぐらいかかりました、という人の意見は聞きます。
50代、60代になるまでわかりませんでした、そういう意見もすごく多くて、だけど到達したんだという風に言える人たちが多くいるという概念でもあるんです。
そんなに簡単な話じゃないんですよね。
僕は簡単に言ってますけど、若い人にとってはこれが5年、10年経たないと到達できないものなんだ、と。
今感じてるものはどうなんだ、色々な意見があるかもしれないんですけど、やはり精神医学、精神科の病気は苦しいんです。
仕方がない、生まれてきて良かったと思えなくても生きていくことはできたりもするんですけど、生活していくこともできるんですけど、この解放感というか安心感というか、これを獲得した後のこの幸福感というか、幸福でもないんだけど穏やかな気持ちというのに到達するには時間がかかるよということです。
生まれてきて良かったと思えますか、という話なんだけど、やはりこれは言葉として苦しいでしょ?と言われるかもしれないけれども、すごい重要な概念なんじゃないかなと僕は思ってるんです。
命の奇跡、治癒の奇跡というのは、ありふれているようでありふれてないというか、誰にでも起こるんだけれども、やはりすごく稀な現象でもあるし、尊いんです本当に。
この尊さというのを理解してもらいたいのと同時に、やはり尊さに触れたことがある人たちは自信を持ってピアサポーターとして、ないし自分自身を誇っていいと思うんです。
これはお金持ちになる、地位がある、家族がある、そういうこと、友達が多い、そういうことよりもはるかに尊いものなんです。
ここに到達できたということがすごいことなんです。
それを理解してほしいなというのがあります。
でも到達できてないからダメというわけじゃないんです。
到達し得るんです。
これはヨブ記を読んでもらったり、回心とは何かという神学の概念を理解してもらったり、あと悟りとかそういうものも理解していくとわかってくる、似ている概念なんじゃないかなと思います。
何かうまく言えないんですけど、そんな気がします。
昔の人は大変だったと思うんですよ。
餓死があったり、病気があったり、戦争があったり、自分の子どもが死んでしまったり事故に遭ったり殺されたり。
そういう中で正気を保つためには色々なものが必要だったんですよね。
悩んだり苦しんでいたと思うんですよね。
現代人のように餓死の心配がないような、安心したところには生きてないというか。
もちろん貧困の問題とか色々な問題はあるにしても、やはりそういう時代のことや歴史を学ぶと、遥かに穏やかなとこに生きていけているし、学ぶことができますから僕らは彼らよりも。
でも何て言うのかな、そういう中で彼らがずっと紡いできたもの、理解しようとしてきたもののエッセンスはここにあるので、リスペクトをもって知ってもらいたいなというのがあります。
昔、そういう概念や世界観が変わることを主観2.0を目指しましょうと言ってたんだけど、主観2.0ではちょっと弱いなと思ったんです。
初めて精神学を学ぶ人、取材や講演会の時に、何となくこれはわかるんだけれども弱いなと思ったんです。
もっと感動に近いものなんじゃないかなと思って。
主観2.0というよりは、生まれてきて良かった瞬間、仕方がないという言葉を使うことが多いです。
こういうのは知識、経験、身体感覚と全てがガチッと一致した時にたまたま起きる奇跡みたいなことなんです。
だからゾーンにも近いんです。
集中してゾーンのような時にも似ているんじゃないかなって気もするし。
漠然とボーッとしてる時に突然ひらめくものにも似てるかもしれないし。
色々な瞬間というのがあるんだと思いますけど、色々なものが重なった時にようやく起きることです。
僕は不遜な人間というわけではないし、傲慢ではないんですけど、ないとは思うんですけど、でもよく言うのは、ゴータマ・シッダールタ、お釈迦様の人間の時の名前というか、人間としての名前はゴータマ・シッダールタと言うんですけど、より僕の方が心を知ってるみたいな言い方をすることがあります。
そう言うと、何でお釈迦様よりお前ごときが知ってるんだと言って怒られるんですけど。
僕はサイエンティストなので神や仏を信じないんですけど、歴史の中のある一人の天才だと思うんですよね。
そういう人よりも、この2600年後の僕というのは、先人達の知恵や科学など色々なものが重なっている分、ITの技術がある分、やはりゴータマ・シッダールタより知っていると思うんです。
頭の良さは遥かに負けてると思いますよ、それは天才じゃないんで。
同時代の色々な人にも負けてるわけですから、僕なんて。
だけど知ってはいる。
そして僕らはみんな巨人の肩に立てているんです。
こういうことをありがたいと思って感謝して、やはり行く。
謙虚さというのが、ここで謙虚になることが本当に良いことなのかどうかわからないです。
そういうのではないんじゃないかなと思って、積極的に過去の人たちと対話をして、過去の人たちが考えてきたことを理解した上で、不遜ですけれども、あえて彼らの上に立つというか、彼らのものに+αさせてもらってるという感じはあります。
というのがあります。
この仕方がないと思う、生まれてきて良かった瞬間を増やすということを獲得すると、楽なんです。
僕、本当に楽ですね。
臨床をしてても悩むこともいっぱいあるんだけど、この言葉があるおかげで、色々患者さんと悩むことがあるんだけど、でもまあ仕方ないんだなって思えるというか。
別に諦めてるとかそういうことではなくて、今できることをやれば何とかなるんだろうと思っている感じです。
結局、死後の世界を考えないということなんです。
死んだ後はどうなるかわからない、明日のことはどうなるかわからないから今のことだけ考えればいいという、それが理解できることの安心感なんです。
予定説があることの安心感と似てます、神学でいうところ。
世界は悪いもんじゃないんだ、科学は悪いもんじゃないんだ、嫌なこともあるけれども、悪いものではない、という安心感なんです。
他者というのは悪い人もいるし、意地悪な人もたくさんいるんだけど、でもトータルで見て身を委ねてもいいんだと思えるということなんです。
ここまでいくと楽です。
キリスト教では、神様というのは、とは言っても完全無欠なわけです。
完全無欠な神様が何か考えがあって創っている、自分たちを生み出したのであれば、究極、神に委ねたらいいんだと思えるというか。
そしてもう一個あるのは、日本の場合だと、日本の場合いうか一部の神学者たちは言うのは、神を信じていなくても、ただ真面目に生きていれば、神を信じていることと一緒なんだみたいな。
ただやれることをやっていれば、神様もけち臭くないから、何かやってくれるよね、みたいな話なんです、仏でも阿弥陀様でもいいんだけれども。
何かやれることだけやってればそれで大丈夫なんだよ、大丈夫なんだ、という話なんです。
これは本当にそう思います。
何がそんなに不安なんだという。
やはり患者さんたちも不安だし、そういう安心感をもらえる経験をしてこなかった人もたくさんいると思うんですけど、色々学ぶことによって、大丈夫なんだなと思えるといいのかなという風には思います。
そういう要素も背景に含めてます、世界観の中に。
これは禅問答のようでもあるんですよ、一方で。
だから何かよくわからないんです、仕方がない、生まれてきて良かった瞬間というのが。
ただ、どういう意味?全てのものには意味があったいうことを考えればいいの?
色々思うんですけど、独特の違和感があるんじゃないかなと思います。
でもこれも大事なのかなと思うんです。
禅の世界ではこういう違和感を持って考え続けさせるという行為をしたモデルの中に組み込んでいるんです。
こういう適度に考え続けるということの意味で、自分と向き合うとかではなくて、問いを考え続けることの意味がすごくあるんじゃないかなと思って採用してるというのもあります。
何かうまく説明できたかどうかわからないですけど。
でも何かね、いいんですよ。
わからなくてもわかるようになるし、年取ったらわかるようになるかもしれないし、精神医学を学んだからわかるようになるのかわからないし。
でも学んでなかったとしても、50~60代になったら気付けている人もたくさんいるのも事実だし。
例えば10年かかりましたというのはあります。
これは松浦さんや小鳥遊さんが言ってたんです。
双極の当事者と発達障害の当事者の人で本を書いた人ですけど。
その人たちに僕、質問したんです。
この本を10年前の自分に渡した時に、あなたは仕方がないと思うのが早まりましたか、と言ったら彼らは、そんなことないな、と言ったんです。
10年必要ですとか言ったわけで、これも深いなと思うんです。
何かを知ったから、何か知識があったから早まったかどうかはわかりませんということです。
でも、知ってた方がいいんだろうな、早まったかもしれないな、と。
ここの何か運命に対する謙虚さというか、誠実さというのも素敵だなと思うし、だから安心して学んだり、安心して学ばなくてもいいということなんですけどね。
何かめっちゃムズいんだけどね、この感じは。
ということです。
アレですけど、何となくこういうのを言うとスピリチュアルみたいな感じがしたり、意味がよくわかりません、あっち側行っちゃったんですか、科学者であることを放棄したんですか、と言われそうですけど、そういうわけでもないんですよ。
哲学の人や色々な人たちが共感性を高めていったり、世界の理解を深めていった時に到達した何かというのはここなんじゃないかなというのは、僕が臨床の中で色々な患者さんを見ていてわかったということなんです。
でもそれはすごく高尚なことでも、これに到達したから全て解決するわけでもなく、そういうものでもなく、ごくありふれているんだけれども、すごく素晴らしいものという感覚なんです。
これをもっとうまく入れたらいいなとは思うんですけど、なかなかこれ以上でもそれ以下でもないというか。
これがあればどんなときにも不安を感じないかというと、そういうわけじゃなくて、仕方がないなと思いながらも必死でこの扁桃体の活動を抑えながら理性的に振る舞おう、論理的に振る舞おうとするし、運命の選択になったときにどっちがいいのかと悩むし、それは最終的には運でしかないと思うんだけれども、失敗することもあるんだけれども、苦しいんだけれども、その苦しい時間が100あるものが30に収まるという程度だし。
例えば僕はマインドフルネスが大事だと言っておきながら、先日のマインドフルネスを実際にやってみるという動画を撮ったら20分くらいで居眠りしているんですよね、一瞬。
だからそんなもんなんですよね。
でも、そういう自分の弱さも含めてさらけ出した方がいいんじゃないかなと僕は思ったというか。
ちゃんとできてないんです。
できてないんだけれど、別にそれはそれでいいというか。
そういう感じなんですよね。
仕方ないからね、だって。
これだけ働いてやっていたらそれは座禅組んでても眠くなるわね。
そんなの仕方ないよね。
そんな体力お化けじゃないので。
体力があったとしても、そしたら別のことやってるからそんな座禅してたら眠くなると思うんです、一生懸命働いてるから。
他の仕事もしてるだろうし。
ただそれだけなんですけど、そういうことですね。
偽善的に聞こえたり、スピってるように聞こえるかもしれないし、怪しいように聞こえるかもしれないですけど、今自分が考えてることをわかっている範囲で、仕方がないについて語ってみました。
️◾️本日の宿題
本日の宿題は、この「仕方がない」についてコメントをいただけたらなと思います。
あとは「生まれてきて良かったと思える瞬間」がある方、ない方、色々書いてもらったらいいかなと思います。
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