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医師への感謝状やプレゼント、手紙、誹謗中傷

今回は、医師への感謝状やプレゼント、手紙、誹謗中傷、について解説します。

これを弁証法的なアプローチ、弁証法的行動療法、DBTと言ったりするんですけど、弁証法的な観点から解説します。

ドクターに感謝状やプレゼント、手紙を渡していいんですか、とよく聞かれます。

また誹謗中傷、批判的な意見を全部誹謗中傷と言うのか?と言われそうですけど、建設的な批判であればいいけれども、建設的とは言い難いもので、個人の人格を侮辱するようなものまで含めて、色々多彩なので、そこら辺も含めてお話しします。


◾️診察室の外でのやりとりはしない

基本的には、原則は診察室の外でのやりとりはできないし、しないということです。

医療行為や治療行為は診察室の外ではできないということです。

原則はそうなんです。

カギ括弧付きの「診察室」ということですけど。

純粋な物理的な診察室ではないんだけれども、ある程度診察室的なものまで含めてということですけど、その外ではできない。

つまりプライベートの時間では治療行為はできませんよということになります。

仕事中だけだよ、仕事の関係だよと。

そういうのを治療構造、治療契約と言ったりするんですけど、精神科の治療というのは、患者さんたちが感情に支配されたり、トラウマ支配されて、何となくの暗黙の了解を超えてしまうことが多いので、治療契約ということを明確化しなければいけないことが多いです。

なので基本的には「診察室」外でのやりとりはしないことになるんです。

でも、じゃあ本当に全くそれをやらなくていいのかというと、今度はややこしいんです。

確かに賄賂はNGだよねと。

しかし、すべてをNGにしてしまったら、人間らしいやり取りが減ってしまうじゃないかと。

診察室的なもの、それは現実的な空間でもあれば、心理的な空間でもあるんだけれども、本当に医師が医師として仮面をかぶって何かをやっていき、人間同士のやり取りがなくなって、ただ症状を言って合わせた薬を出していく、薬販売機みたいな、症状を聞いたらピッと言って出てくるようなものだけだとしたら、トラブルはどんどん減っていくかもしれないけど、良い治療は生まれないです。

やはり人間同士のぬくもり、優しさがあったほうが治療はうまくいくんですよ。

それはそうだと。

だから部分的には許可をすべきなんでしょう、という風に考えるんですね、反対意見としては。例えば精神医学というのは元々監視、監獄から始まるんです。

病気のある人や「狂気」、その当時よくわからなかった統合失調症やうつ病、躁うつ病がわからなかったときに、そういう人たちを、社会的に問題がある人たちを閉じ込める、警察署ではなく刑務所でもなくて、病院に閉じ込めるところから精神医学はスタートしたんです、19世紀とかね。

そういうところからスタートして、徐々に患者さんの人権を認めて解放しつつあるけど、やはりそういう人間らしさを制限するようなところからスタートしてるところがありますね、精神医学は。一方で福祉や看護の世界は人間らしさ、優しさからスタートしてるんです。

母親の愛情のようなもの、そういうところからスタートしていき、でも母親が抱えられないものをプロがどうやってケアしていくのか、教会がやっていたことをどうプロが医療の世界で体現していくのかということから発展していったという、歴史が真逆のスタートから始まっているんですけど。

「診察室」外でのやりとりをしないという原則は医学的な観点なんだけど、人間的なやりとりというのは福祉的な観点という感じです。

この折衷案を探さなければいけないですよね。

結局現実というのは、こっちがいいのか、あっちがいいのか、ではなくて、両方良いところも悪いところもある。

だから両方の良いところを見つけて、折衷案を探さなければいけないということです。

賄賂をもらってないことを確認するために、例えばCOI開示する、発表の時に、例えばプレゼンする時に、学会発表をする時に、私はこれこれこういうところからお金をもらってますよ、ということを開示する、そういう形で部分的に許可はするけれども、ある程度複雑なルールを設けることで極端な悪化を防ぐみたいなことをしたりします。

例えばYouTubeもそうなんですよね。

YouTubeでこういう風に情報発信するということは、診察室外でのやり取りなんじゃないかということです。

情報発信をする、本を書くこともそうですよね。

Xで投稿するのもそうです。

そういう行為というのはNGなんじゃないかと。

そうと言えばそうなんだよね。

ただ、そうすると全体の幸福が下がってしまうのよね。

全てを制限してしまうと全体の幸福が下がる。

YouTubeというのが、YouTubeにしても本にしても、何でもいいんですけど、ある人にとっては、その情報は刺激的すぎることはもちろんあると思います。

例えば子どものがんはそうですよね。

がんになったらこれぐらいの生存率しかない、それを子どもが知るということはすごく残酷すぎるかもしれないですよね、理解が追いつかなくて。

じゃあもう死ぬということなの?とワーッとなってしまって。

それと同じように、どのタイミングでどの情報を知るべきかというのは結構難しいし、それをYouTubeみたいなところに誰でもアクセスできるところでいいのかという問題もある。

ただ自分たちが知りたいことをお上が決めたものしか私たちは知ることができないのか、知る権利はあるだろうというのもあるわけです。

ここは結構難しいんだよね。

現実的にはどこを妥協するのかということになるんです。

どこを妥協点とするのか、と。

これが弁証法的な考え方だし、この考え方ができないと白黒思考になって生きづらくなってしまう。

僕らはこの相反する矛盾した状況の中で、白でも黒でもないグレーを受け入れながら、できるだけ最適なように生きていくしかないんです。

それは個人の自由の最大化、個人の幸福の最大化を目指しつつも、でも個人の自由だけを目指すのでなく、社会全体の幸福も最大化するように目指す。

だから社会と個人が対立することもあるんです。

例えば自殺や安楽死の問題でもそうなんです。

究極的には私の勝手でしょ、個人の自由でしょう。

でも自殺や安楽死がもたらす社会の悪影響もあるわけです。

どこを妥協点にするのか。

じゃあ社会の都合を優先させて、昔のように精神科の患者さんは社会に悪影響を与えるから皆んな閉じ込めていいのかと。

そんなわけない。

かといって、じゃあ彼らに制限を与えず自由に暮らしてもらっていいのか。

そして犯罪を犯すこともあるだろう。

事件を起こしてから捕まえればいいんじゃないかということ、それだと困るし、長い目で見たら本人の利益にもならないわけです。

この妥協点をどこで見つけるのかというのは結構あります。

現実的には、プレゼントや手紙というのは、それを返された人たちも悲しいし、誹謗中傷を全く言えないのも苦しいんです。

どこを妥協点にするかということです。

️◾️現実的には

現実的には、多額の現金以外は、受け取れないという説明をしつつも受け取る、みたいなところはあります。

それが一つの答えです。

誹謗中傷に関しても、僕も言いますけど、ひどいものは裁判します。

裁判をするか、ひどいものは警察に報告します。

ある程度はね。

Xで匿名で僕のことを批判している医師らもいます。

ある程度は耳に入ってますけど、ひどいものは、それはもちろん場合によっては訴訟します。

でもある程度のところは妥協せざるを得ないので、妥協するということになります。

白でも黒でもなく、グレーだということです。

一応、いくつかコメントがあったのでこれも答えますけど、感謝状を僕がもらったときのコンテンツ、それに対する、それはいいんですか、と。

じゃあ、そうでしょう。

妥協点でやれば、それをおおっぴらにする必要ないでしょう。

受け取れないという前提があるのであれば、もうちょっと慎ましくやったらどう?ということですよね。

それもそうだなと思います。

ウチのスタッフの人たちが考えて出してくれてというのもあるし、たまたま僕もネタにしたんですけど、感謝を言うというコンテンツの意味や面白さも僕はあるんじゃないかなと思ったということです。

特別誰かに対して感謝してるというよりは、全体です。

どちらかというと、具体的な誰かからもらったものではあるんだけれども、僕としては、その具体的な誰かではなくて、色々な人たちが考えて、これに関係してなかった人も感謝の気持ちがあるんだろうということで、いい機会だからありがとうのメッセージを返した感覚なんですけど。

この「ありがとうというやり取り」を横から見ることによって、人間って悪くないな、こういう風に感謝というのは生まれたり流れたりするんだなということになって、そういうインタレスティングな面白さもあると思うんです。

こういうコンテンツは今後も作ると僕は思います。

一方でパラソーシャルな関係の中での疎外感もあるんです。

YouTubeを見ている中で画面を通じてしか会ったことないんだけど、友達のように錯覚していく感覚、そういう関係がある人たち、みんなあるんですけど視聴者の人にはみんなあるし、僕もあるんです、芸能人やよく見ているお笑いの人とか、ありますけど、そういう中でやはり寂しい思いをすることもあるんじゃないかなと思います。

それが結構辛くて、じゃあそういう問題はどうしたらいいんだろうということです。

あとはそのじゃあプレゼントと言っても感謝状をもらった時だけはコメントを出したり、誹謗中傷にはコメント、動画を出すのに、普段もらっているようなプレゼントや手紙、トークライブでもらったもの、あとスパチャもプレゼントですよね、スパチャに対してのありがとうは十分なのか、ということです。

それらに対して毎回こうありがとうの動画を作るのも面白くないし、つまらないし、しつこくなってしまうこともあるので。

毎回言ってくれるんだということになると、それを利用してもっとより距離を近づけたいというニーズも出てしまって、結果的に搾取みたいな構造になるかもしれないので、そうすると、「診察室」外でのやりとりはしないという原則に反するので、妥協点としてはふさわしくないということになったりします。

そういうことも考えなければいけない、と。

結論どこを妥協点するかは結構難しいなと思います。

これらはまだ人類は答えを知らないということになるのかなと思います。

️◾️妥協点はどこ?

やるべきこととしては、パラソーシャルということの理解、教育、共有はすべきだろうと思います。

このことを知るだけで防げるトラブルは多いんじゃないかなと思うので、引き続き陽性転移や陰性転移についての話をし続ける必要があると思います。

法的なルール、刑事に問われるもの、民事的な問題、そして倫理的にやった方がいいこと、ルールというのはグラデーションがあります。

親切/不親切というルールから刑事罰のようなものまで、どれもルールはルールなんです。

社会で生きていく中でのルールなんだけど、その強制力や解釈の自由度というのは結構違ったりするということです。

最低限の法的なルール、刑事罰と民事罰のルールを守りつつ、ある程度のこの親切/不親切というルールのところは色々解釈しながら、どこを妥協点とするかということを考え続けるということになるのかなと思います。

視聴者一人一人は個人だし、最近結構あります、色々な患者さん、色々な人から、どっちが大事なんだ、どうなんだ、と言われたりすることがありますけど、やはりメタ認知を働かせていくと、結局個人も大事だけど、社会全体の利益も損なわないようにしていく、社会全体の利益ばかりを追求するのではなく、個人も大事にする、このグレーゾーン、この曖昧さを模索してるということなんです。

目盛りの調整をしてるというか、そういうことなんです。

このアウフヘーベン、そういうものをマスターしていく、DBT(弁証法的行動療法)の意味合いをマスターしていくということで、ここら辺の白黒思考というのは解決していくのかなという風に思います。

ということで、医師への感謝状やプレゼント、手紙、誹謗中傷などについて解説しました。

️◾️本日の宿題

白黒思考やそこら辺のことを宿題として皆さんに考えてもらって、それを表明してもらえたらなと思います。

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