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早稲田卒ニート17日目〜回転寿司のレーンから〜

ある県内トップ進学校の最高権力者としてあった学生が数日前に、1枚の新聞記事を添えてご連絡くだすった。私の授業の受講生であってくれた方である。いや、そんな紹介ではいけない。彼は、私が堂々と「教え子」と呼ばせてもらいたい学生である。

彼が送ってくれた新聞記事。

しかしそのとき私は自分のタバコをどこかに置き忘れあたふた探し回り、それにnoteの更新もまだであり慌ただしかったので、後から読みますと言い残した。時間に追われていたのである。ニートなのに。

少ししてタバコも見つかり、一服しながら目を通した私は、「この短かな記事を読んで何を感得するかは人による。が、君がわざわざ送ってきてくださったということは、君が何かを感じ取ったということでしょう」と返し、「この人は葬儀司会者とありますから、人間の死と向き合う中で、人間の実存が合理性には回収されぬということを気づいたのかもしれない」などと続けた。

彼からも返事が。
「当たり前に思っていた回転寿司が実は、効率の面を超えた遊びであることに初めて気付しました。そして社会はその遊びを縮小する方向へ確かに動いている。寿司の話に留まらず、自分の気付かぬうちに合理主義が正当化されていき、遊びが消えてゆく。恐ろしいことです。」

日本中を探して、この新聞記事に対してこんなことを述べられる高校生が一体どれだけいるだろうか。「世界」への視線が違う。いや、それはコメントの字面だけではなく、彼の言葉には筆者への「共感」が伺われるということ、それが重要なことなのだ。この彼の「共感」の深さは、実際に授業をしていた私だからより一層わかることでもある。

読解とは他者理解である。自分とは別の他者に寄り添い理解すること。そして理解するとは、対象化して分析するのでなく、一体化して交わることを言うのである。「要するにこういうことを言っている」とか、そんなつまらない読みでは充実した読みにならない。情報をまとめ整理することを読解だと思い違っている奴が多すぎるのである。「共感」する力を持つ彼の様な学生は、そういう読みにならない。そこが大事なことなんだ。私が彼の連絡を嬉しがった訳もそこにある。

結局大学入試も、国語以外の様々な教科、例えば歴史や公民や、一般に「背景知識」として括られてしまうもの、さらには自然科学の知や思考など、それら無くただ方法論(ないしは記号論)として読解を学ぶ奴はいつまでたっても中途半端に終わる。「何言ってるかよくわかんねえ」などと言う。そういう奴は、「方法」ではなく「姿勢」の問題である。ただの「知識」の問題ではないということを間違えてはいけない。関心を選ばずに何でも学ぶ力、どんなことにも興味を持てる求知心、そういう「姿勢」が問われるのである。



僕は授業で、「勉強ばっかりやっていると勉強はできない。遊ばないと勉強はできるようにならないんだ」などと戯言を放っていた。恐らく逆説的に聞こえる。といっても本気である。それは、勉強には身体感覚と精神年齢が必要であり、そして身体的活動からこそ精神が作られていくからである。それを担うのが「遊び」、広義的には「経験」である。

藤田省三『精神史的考察』の中に「或る喪失の経験ー隠れん坊の精神史ー」が収まっている。僕の教室では最低1回はこれについて喋る。

遊びには主題がある。隠れん坊ではそれが「喪失」である。「発見」とは言っていない。友が集まりジャンケンでもして鬼を決め、その鬼が10数えて「もういいかい」、それに「もういいよ」と返答あり、隠していた目をついに開ける。その瞬間、目の前には先ほどまでそこにいてくれた友全員を喪失した空漠の世界が広がる。さっきまでいたみんながいなくなっちゃう。「喪失」を経験するのである。

ジャンケンで鬼を決める時、子供は隠れる側になりたがる。「鬼になりたい!」と率先する子供はない。鬼になることは喪失を経験することになるからだ。喪失は僕らを孤独と不安に落とし入れる。

よくよくじっくりと思い出してもらいたい。自分が隠れん坊の鬼になり、10数えて目を開けた瞬間の不安、みんなどこにいっちゃったのかという一瞬の不安に襲われたことを私は思い出す。一瞬だからあまりハッキリした記憶ではないが、確かに不安であった。「どこにいるんだろう?」「どこから探せばいいんだろう?」。鬼になることは、そんな不安を経験することである。


ただ、隠れん坊の「喪失」は、それは軽いものである。どうせ探せばいずれ見つかる。重たい喪失など、たかだか10歳にも満たない様な子供には耐えられない。軽くていいのである。いやむしろ、ここでは、この「軽さ」が重要なのかもしれない。



『万葉集』には相聞とあるが恋にて、すべての歌を雑歌、相聞、挽歌と三つに分かち、八の巻、十の巻などには四季の雑歌、四季の相聞と分かてり。かやうに他をばすべて雑といへるにて、歌は恋をむねとすることを知るべし。(本居宣長『石上私淑言』)

『万葉集』は、「相聞歌」「挽歌」「雑歌」の3部から成る。「相聞歌」は恋の歌、「挽歌」は死の歌である。それ以外をまとめて「雑歌」と言う。つまり、3分の2は恋と死の歌である。

私たちは人生のどこかであまりにも巨大な喪失を経験する。それも不可避的に経験しなければならない。中でも死と失恋、この2つは大事な人の存在のみならず、もはや自分そのものまでをも喪失してしまいかねないほど甚大な経験である。

それゆえ、「歌」にするのである。そうせずにはいられないのである。

誰も、乱世を進んで求めはしない。誰も、身に降りかかる乱世に、乱心を以て処する事は出来ない。人間は、どう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなければ生きて行けぬ。そういう止むに止まれぬ人心の動きが、凶器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。(小林秀雄「鐔」)

応仁の乱という乱世が凶器の一部分としてあった「鐔」を芸術に仕立て上げた様に、人間はどうあったって常にどこかに「救済」を探し求めて生きる。それならば、「歌」もそのひとつではないか。即ち、己の内面が「混沌」と化すとき、そこに「五・七・五・七・七」という「秩序」を立ち上げる。「五・七・五・七・七」という形式を与えることで、ぐっちゃぐちゃになった内面を整えてあげる。「歌」は悲惨な体験から自分を救うための切実な表現だ。そうでもしなければ穏やかになれないような悲惨な体験が、人生のどこかに必ずある。それも一回だけとは限らない。

そしてそれだけ大きな喪失を大人になってから初めて経験したのではとても耐えられない。それゆえ、子供の時に軽めの喪失を、それも遊びを通して経験することが重要なのである。いずれ経験しなくてはならない巨大な喪失に耐え得る精神的な免疫がそこで形成されてゆく。遊びを通してやれば、そんな耐性も無意識の裡に作ることができる。

「遊び」という「身体的行為」の中で「精神」が形成されてゆき、そうして作られた精神年齢が勉強にも必要である。従って、遊んでいる暇があったら勉強しろとは、必ずしも言い切れない。しかしその精神形成は「無意識」であるから、やっている最中はなかなかその価値を自覚できない。

あの新聞記事では、回転寿司のレーンを「遊び」と言い、その遊びが消えた世界は、「事務的でつまらない」と言っていた。こんな風に世界が見えるなんて凄い。回転寿司で炎上したガキ共をネットで叩いている暇なんかあったら、少しはこんなことを考えられる様になった方が人生は豊かになるだろう。

学生諸君も、遊びのない学生生活など事務的で退屈するだろう。決められたことを期限までに済ますだけの生活。しかし、青春に無駄は付き物だ。無駄の無い青春などに一体何の価値があろうものか!学生諸君、青春を浪費せよ!





何だか授業でお喋りしてきた様な事ばかり書いてしまう。そこから脱却しなくてはならないのに。しかし、私の数少ない学生はみな、私ごときのこんな他愛無いお話を目一杯聞いてくださったのだなと思い噛み締める。ありがたいことだ。

彼らは私のような劣等な人間の話もバカになどしない。学生なんかは特に、すぐ大人を馬鹿にする癖がある時期だというのに。彼らは、そういうくだらない幼稚な学生とは一味違う。何事もバカにしないから勉強もよくできる。こうして何かと連絡をくれる学生を持てたこと、光栄に思います。みんな、自慢の学生と言える。

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