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早稲田卒ニート68日目〜今、あなたの背後には〜


富山から仙台に帰って来た日、新幹線を降りていつも通りスーツに下駄でペデストリアンデッキを闊歩していたら、いつの間にかカバンの上にちょこんと乗っけていたボックスティシューを落としてしまった。その時はイヤホンを付けて音楽を聞いていたもんだから、落としてからしばらく気づかずにいたらしい。「まあいい、ティシューの1箱くらいくれてやる」の寛大な精神でそのままカツカツ歩き続けたところ、後ろから何か箱の様なもので私の左肩が叩かれたので、不意を突かれたように驚いた。振り返ると、そこにはオバさんがいて、私の落としたボックスティシューを持っている。私は当然、「ありがとうございます」と言った。が、そのオバハンは、何と、「てっきりお兄さんかと思った」と私に返したのである。一瞬戸惑いつつも、「お兄さんで合ってますよ、まだ25歳ですから。ハッハッハ〜、じゃあどうも〜!」と努めて明るく言い放って別れた。が、何だかわだかまりが残るのも否めない。この私がお兄さんの年齢に見えないとでもいうのだろうか。釈然としない。こんなことなら、「僕もてっきりお姉さんかと思ったのに残念です」くらい返せばよかったと思う。尤も、もし私に私の背後が見えていたら、つまり、その女性がオバさんであると初めからわかっていたら、そもそもあわぬ期待を抱くことなどなかったかも知れないのである。が、残念なことに背後は見えない。

2
「8時だョ!全員集合」というテレビ番組があるくらい家族という中間集団が強力だった時代が、わずか40年ほど前まではあった。それは16年間で全803回も放送され、最高視聴率は50%を超えたというのだから、日本テレビ史上の頂点に君臨するお笑い番組といって差し支えなかろう。「ちょっとだけよ」や「髭ダンス」など様々なコントは誰でも知っている。そしてその中に、「志村ー!後ろ後ろ!」と叫ぶのがあった。背後に迫る身の危険に気づかずいる志村けんに対して、観客がついそう叫び、志村に危険を知らせるのである。

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小学生の頃は、友達に向かって背後からダッシュし、足もとにスライディングをお見舞いして転ばせていた。幸いなことに摩擦力の大変低い廊下だったので、3mくらい手前から滑っていたと思う。摩擦が少ないから音も小さく、お見事なまでにみんな転んでくれた。後ろからの侵略にはなかなか気づけない。

4
身体の不思議を語る時、自分の背中を自分で直視できぬという厳然たる事実を根拠に、身体をイメージとして捉える見方がある。例えば鷲田清一が書いている様に。現実とイメージの総合としての身体像。

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私は高校生の頃から、自由座席の場合は必ず最後列を取る様にしていた。「背後に隙を作らない」という理由からである。気分だけはゴルゴ13だったのである。

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ホラー映画は、背後の見えなさを巧みに扱うだろう。例えば、恐怖から逃れたと思い束の間の安堵が息に漏れる女性の後ろに、実は新たな恐怖が訪れている様なシーン。その時、登場人物と鑑賞者との視線は逆ベクトルに交錯しているため、こちらからその新たな恐怖は知覚できるが、背後の見えぬ登場人物は未だ気付かぬままでいる。これはちょうど、「志村ー!後ろ!後ろ!」の様である。

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友達に説教している先生の背後に回り、変顔でもしてみせて、笑ってはいけない状況にある説教中の友達を笑わせようといたずらした経験は、特に男子学生なら一度はあるだろう。先生には背後は見えていない。

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後ろから肩をポンポンとされ、振り返ってみるとそこに人差し指が立たっていて頬に突き刺されたという悪戯の被害に遭った経験は、特に男子なら多いと思う。全員一回は経験しているかも知れない。この時、まさか後ろに人差し指が立っているとは見えていないから引っかかる。背後に視線は不在なのである。しかもあれは、こちらの予期せぬ瞬間に肩を叩かれるもんだから、ついつい振り返ってしまう。



さて、こうして事例を挙げてわかるのは、私の背後とは、私だけを唯一排除してこそ成り立っている空間であるということだ。私の背後は、常に私だけを仲間外れにしているのである。だからといって、仲間外れにされたことに拗ねて後ろをクルッと振り返ってみたところで、今度は正反対の方向にまた新しく、私だけを仲間外れにした空間が表出するのみである。しかもそこは、さっきまで私のことを仲間に入れてくれていた空間だというのに。

背後にあるものは見えない。そして、昨日書いた様に、死のタイミングは誰にもわからない。もしも、駅で待ち合わせでもしているかの様に死が前方にでも立っていてくれたら、死の来訪を計ることができよう。だが現実はそうではない。死のタイミングは誰にもわかりはしない。それなのに我々の感覚では、死は未来という前方に待ち構えていて、いずれはそこに到達すべき終点としてあるかの様に思い込んでいるのではないか。

四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるがごとし。

(『徒然草』第百五十五段)

恰も「お次の方どうぞ」の様に、死は順番待ちをしてやって来るのではない。前方から歩み寄って来るのでもない。人の気付かぬうちに、その背後に忍び寄っているのである。それゆえ、切迫した死への緊張など感じていなくとも、予期せぬタイミングで死は訪れてしまうものだ。とっくの14世紀に、既に兼行がそんな事をお書きであった。死はまるで、かつて振り向く私の頬を突いたあの人差し指のようである。

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