『関心領域』を見た話をした話
話題の映画『関心領域』を先日観に行ったのち、知人と話したらたまたま彼も観に行っていたらしい。だが映画の意味は分かったけど何が面白いのかよくわからなかったということだったので以下、その時話した自分の感想です。
ところで『関心領域』ってどんな映画?↓
アウシュビッツ収容所の隣で暮らす平和な家族の日常を描いた映画だが終始聞こえてくる悲鳴や銃声、その反対にあまりにも健やかで美しい家族の団欒…
おそらくシンプルな感想としては「凄惨な悲劇を知りながら見て見ぬふりをする無関心さへの警句」が多いと思う。
だけどあれは何だったの?どんな意味があるの?という疑問符に対して前述のテーマに付随した演出の"意図"というもの、そして考察感想を述べていきたい。
1.主人公の将校は見て見ぬふりをしていた
主人公の将校ルドルフは隣の凄惨な現実と享受している贅沢な暮らしの狭間にいて少なからずの葛藤があった。
ここでいう現実とは「戦争」でありその対になっているものが「家族」であった。
その両極どちらもが彼にとっては日常でありそのどちらにも生きる意味である。(戦争=ホロコーストによって今の暮らしが成り立っていてそれによって家族達もみんな幸せに過ごせている)
つまりこの映画は常に対極が描かれている。
そしてルドルフはその狭間にいる存在でありラストに分かることだが我々とスクリーンを繋ぐ窓になるのだがそれは後述する。
彼は隣にある現実を必ずしも良しとは捉えておらず(川遊びなどがわかりやすい)家族のことを憂慮はしたものの転属は望ましいものだった。しかし妻をはじめとした家族は完全なる「無関心」として今の暮らしに満足しておりむしろ喜ばしさすら感じている。(ユダヤ人から取った衣服を着たり歯で遊ぶ子供達)
逆に疎開してきた母親は隣の悲劇を無視することはできず出て行ってしまう。(目を背ける行為は認識=関心のある前提)
自分と家族とで起きた認識の相違によって結果一人になったルドルフは裏の悲劇に対し表の煌びやかな世界の中でより葛藤というものが濃くなっていく。
ここまででわかる通り彼は家族とは違い無関心ではなく「見て見ぬふり」をしていたのであってその居心地の悪さ、甘受していた現実が自らにじわりじわりとのしかかっていくのだった。
2.「見て見ぬふり」をしている我々観客
映画の構造そのものは前項の通りで分かりやすいがラストにルドルフがこちらを見つめる瞬間、何が起きたのか?
現代のアウシュビッツ=ホロコーストの凄惨さを残した負の遺産といえる博物館が映されたかと思ったらまたルドルフに立ち戻る。
あれは我々もまた「見て見ぬふり」をする偽善者の一人であったことを突きつける演出になっているのだ。
映画を見ている時の我々はその映画の内容として悲劇そのものにある種の慚愧みたいなものを感じながら、それに対して無関心な登場人物達を嫌悪しながら楽しんでいる。
しかしあの瞬間、観客が映画内の構造とリンクして悲劇が史実にも関わらず過去やフィクションと同値で見ていたことを思い出させる。
つまりあの現代の映像が挟まれるシーンは今まさに我々が映画の登場人物と同様に隣にある悲劇を「見て見ぬふり」をしているということになるのだ。
ただ対極を描くのではなく観客もまた映画内に重なるようにスイッチさせるあの瞬間、いわゆる我々の"関心領域"に気づかせるのである。
3.あのユダヤ人少女は?
最後に時折挿入されていた暗転シーンはなんだったのか。
夜中にこっそりと収容所にいるユダヤ人のために食べ物を隠し入れる健気な少女が暗視カメラの映像のように映し出される。
結論、彼女は同胞たちの助けになるために行動している。いわば「見て見ぬふりをしなかった」存在として描かれているのだ。
あれはお釈迦さまの蜘蛛の糸のような希望や健気さを表しているのではなく「見て見ぬふり」をしている主人公や我々観客に対する皮肉の演出といえる。
だから我々にとって暗視ゴーグルという"見えないものを見るための視点"になっているのだ。
以上、映画を見た率直な感想でした。
また何か思い出したことや気づいたことがあれば書き足していこうと思います。
また何かご意見感想などあれば色々教えていただければ幸いです。
私自身の「関心領域」を広げるためにも…
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