10年前のゆるい被災の記憶 3月12日
あれから10回目の3月11日だけど、10年経ったから気持ちに整理つけられるわけではないよね。「節目ですね!はい!終わり!」みたいに簡単に割り切れるもんじゃないと思う。
ってか、2月13日の地震は久しぶり大きかったっすねぇ。我が家はなんともありませんでしたが、そのあと地震の影響で一部地域が断水してNHKがずっとL字画面だったから「ひえぇ」ってなりました。給水情報で色んなこと思い出したわ。おのれ。
またいつ大きい地震がくるかわからないのホント嫌。早く地面から卒業したい。
そんなわけで続きです。前回はこちら↓
3月12日・両親が迎えにくる
誰かに肩を叩かれて二度寝から覚めると、何故か目の前に父と母がいた。
寝ぼけてんのかな?って思ったけど本当にいた。友人が隣でニコニコしている。
とりあえず「大丈夫だったの!?どうやって来たの!?」みたいなことを訊いたら「通れるとこ見つけて車で来た。うちは大丈夫」と返されたので家族全員の生存を確信して一安心。人間って意外とこういう時に泣かないんだなって思った。
つもる話もそこそこにひとまず移動。友人は同じ方面の内陸部に住んでいたので送っていくことに。
ずっと室内にいて気付かなかったけど、県庁は一夜にして避難者で溢れており、廊下にダンボールを敷いて座り込んでいる人も大勢。
よくこの中から私を見つけたなぁって感動した。机に突っ伏して寝てたから顔すら見えなかったのに。親は偉大だ……。
車中で両親から聞いた話によると、海沿いの幹線道路は水に浸かっており通行不可。そのため内陸の道路は交通量が多く、そのうえブロック塀や落下物が散乱している危険箇所もあって一晩かかって来たらしい。
電波が死ぬ前に県庁に避難することを連絡をできて、やたら道に詳しい人種が父親だったのか凄まじい幸運だった。これがなかったら下手したら1週間は仙台で帰宅困難者になっていた。
通れるルートをなんとか通過して帰路へ。交通量はそんなでもないけど、相変わらず信号機は役立たずで、歩道には落ちた屋根瓦や外壁を道の脇に寄せる作業中の人などもいて危なかった。私は車中から外を眺めて、(酷い地域が本当に酷いだけであとはそんなでもないみたいだし、1ヵ月もしたら普通の生活に戻れるのかな)などとぼんやり考えていた。
3月12日・長弟と合流
そして、一夜の苦楽を共にした友人を無事にお家の前で降ろし、続いて合宿中の長弟を拾うべく某高校の施設に。
内陸部なので当然のように長弟は無事であった。なんなら「どうせ合宿まだ続くっしょ」みたいなノリであった。アホか。
「おめぇは頭の中にまでボールが詰まってんのか!」と両親が言ったかどうかはわからないが、とにかく保護者が連れ帰る旨を伝えたいので監督かコーチか先生かとにかく大人はいないのか聞くと、弟の口から「みんな情報集めに出て誰もいない」という衝撃の返答が!
特定されんのアレだからどこ高校の何部かは書かないけど、ビックリした。未成年を預かって保護・監督する責任があるんだからせめて1人くらい大人を残しておいてよ……笑
いつまでも責任者を待っているわけにもいかないので、その場にいたチームメイトに伝言を託して帰宅を急ぐ。緊急事態だから致し方ない。
弟から聞いた話によると、岩手県大船渡市から単身で仙台に来ている友人が「人間ってこんなに‘がおる’のかってくらいがおっていた」らしい。(がおる:仙台弁で‘元気がない’‘萎れている’‘などを意味する言葉)
そりゃあそうよ、この時点で大船渡市は『壊滅状態』というゲームでしか見かけないステータス異常で表現されていた。というか、東北のリアス海岸沿いの市町村はあの時みんな『壊滅』『役所・消防と連絡取れず』『沿岸部に遺体が多数』という情報しかなかった。福島原発の情報?それは正直覚えていない。だってそれどころじゃなかったし。
3月12日・この時点での被害状況確認
家族4人になったところで、車中で具体的な被害状況の話が始まった。
・地元に大きな津波がきた。あり得ないところまで水に浸かっている。
・海沿い全部ダメ。この世の終わり。
・電気も水道も完全停止。
・家から見える距離のコンビナートで火災発生。多分しばらく鎮火しない。
・父方の近しい親戚は海から遠い我が家ともう一軒の家に分散避難していて無事。でも、海へ続く道が通れないので具体的な被害はまだわからない。
・友人・知人に行方が分からない人が多数。
・別地域(海沿い)に住んでいる母方の親戚とは連絡つかず。特に独居老人である母方の祖母は海のすぐそばに住んでいるので万が一がある。
父曰く「浜はもうダメだろう」とのことであった。
うちは『浜』と呼ばれる地域の本家周辺に親戚が密集する居住スタイルなので、『浜』がダメになるというのは即ちもう何もかもダメ。おしまいということになる。
さらに母曰く「見たらショック受けるだろうからしばらく外に出るな」だそうで。
全然実感が湧かないが、どうやらこの世が終わってしまったらしい。一緒に聞いていた長弟は「なんかよくわかんねぇな」という顔をしていた。きっと私もそんな顔をしていたはず。
3月12日・無事帰宅
普段通るルートを軒並み外れてとんでもない遠回りでゆっくりと、確か午後14時くらいには家にたどり着いた。 祖母は多少憔悴していたけど元気そう。末弟は学校に情報集めに行って不在。親戚たちは「いつまでも世話になっているわけにいかない」と、内陸に住んでいる息子や娘に迎えに来て貰ったり体育館に行ったりして我が家避難所は解散していた。ちょっと安心。
しかし相も変わらず具体的に何がどうなっているのか私はいまいちピンとこなかった。そもそも、津波ってそんな凄いものだっけ?
その昔、おそらく小学校高学年か中学生の頃。浜辺で友人と遊んでいたら少し強めの地震が発生し、津波警報が出たため周囲の大人と共に高台に避難した経験があった。でも実際に津波らしいものはまったく来ず「そんなものかあ~」と拍子抜けした記憶がある。
いまにして思うと、山の方とはいえ港町に住んでいる人間としてあるまじき態度である。しかし思い起こせば、義務教育で津波用の避難訓練をしたこともない。
端的に言えば、この辺の共同体に全体として「ここまで津波はこねぇべ」というふんわりした認識があったのかもしれない。
とりあえず着替えて家の様子を確認。あれだけ揺れたにも関わらず、テレビも倒れず食器も割れず、外壁が若干が剥がれただけのタフネスを発揮する我が家。数年前に建て替えといてよかった!前の家なら倒壊してた可能性すらある。
電気と水道は完全に停止。でも幸い我が家はプロパンガスなので煮炊きはできる。しかも交換したばかりでガスの残量も豊富。
食料もちょうど買い物したばかりでそれなりにある。私も急に思い立ってお菓子を買い込んでいてチョコやビスケットが豊富にある。なぜ急にそんなことしたのかはよくわからない。これは虫の知らせだったのか、謎である。
さらに、バスタブにはなみなみと水が溜まっており、電気が止まった冷蔵庫の中にはありったけの保冷剤が押し込まれていてちょっとだけ冷たい。聞けばどちらも末弟が機転を利かせてすぐ行動した結果だそうで。いや末弟ほんと生きる力がすごいな。ヤンキーとは思えんぞ。あの日コイツが家にいなかったら食べ物がヤバかった。
一方、長弟は「またすぐ合宿始まるから荷物そのまんまでいい?」と言っていた。お前は少ししっかりしろ。
あれ?目下の不安は遠くで派手にブチ上がってるコンビナート火災くらいでは……??
3月12日・ついに津波の惨状と向き合う
家族がバタバタしているのを良いことに「外の様子見てくるわ~」と雑に言って外に出る。少し歩いて坂を下ると、住宅街やスーパーに通じる大き目の道路とその両脇に田んぼが見える、はずだった。
道路も田んぼもなかった。
なんか真っ黒い中に茶色いものや白いものや赤いものが点々と落ちてる。
一面の黒は水で、茶色いものは破壊された建物の一部で、白いものは船で、赤いものは車であった。よくよく見たら道路があるべき場所のド真ん中にどこかの家の二階部分だけが浮いていた。シュールレアリスム絵画かよ。
真っ先に浮かんだ感想は「どこにやられたんだ!?!?!?」だった。
目の前に広がる光景が人による明確な悪意の下に作られたようにしか思えなかった。折りしも3月10日が東京大空襲の日だったため、直前にテレビか何かで空襲後の東京の写真を見たのかもしれない。また戦争が始まったと思った。
わけもわからないまま一応携帯で写真を撮りとぼとぼ帰宅。
母に「あの、下を見てきたのですが、なんですかあれは」と白状して「見ちゃったの!?も~」と言われてしまう。見るなって言われたら見たくなるじゃん。それが人の性(SAGA)ではないですか。
しかし、見てしまったものは仕方ないと判断したのか母が情報を畳み掛けてくる。
「あ、道路のとこに家浮いてたの見えた?あれ、○○おんちゃん(おじちゃんの意)の家っぽいんだよ」
○○おんちゃんの家は『浜』にあったはず。生きていると二階だけ切り離されるダイナミック強制お引越しイベントが発生することもあるのか。ねぇよ。もうどうなってんだ。ツッコミが追い付かない。
ちなみに○○おんちゃんはご無事でした。その後どこからかボートを借りてきて自宅二階部分に乗り付け、使えそうなものは回収してきたそうです。強い。
3月12日・コンビナート火災延焼フラグで避難
津波の脅威を目の当たりにして意気消沈する間もなく、町内放送が。
コンビナート火災がこちらまで延焼する可能性があるから避難して下さいだと。
いつの間にやら末弟が戻ってきていたので学校の様子を聞くと案の定「人がいっぱい」だそうで。さらに「セン公に『家があるなら帰れ!!』ってゆわれた…まぢつら…」と。うちの子がヤンキーだからダメなのか。おいこら。
ってかこのタイミングで無茶を言いなさる。ハッハッハッ!どこへ行こうと言うのだね。いや、ムスカの真似をしている場合じゃないわ。
ひとまず貴重品やら水やら何やらを車に詰め込み家族6人で出発。今後ガソリンは生命線になってくるのになんと豪華なことか。
車に乗った段階で、私は「避難所に行くくらいならここでみんなで死のう」と泣きながら主張して弟たちをドン引きさせた。だって人間嫌いだし。知らない人間と長時間同じ空間にいるなんて耐えられないじゃん……。(黒歴史)
だがしかし、父もまた筋金入りの人嫌いだった。父は「避難所なんか行くか!」と宣言して学校とは別方向へ向かった。どこに連れて行かれるのかと思ったら着いたのは町の端っこにある眺めの良さが有名な山。観光地だからデカい駐車場がある。なるほど、ここなら大丈夫そうである。
しばらくすると同じような目論見の車がちらほら集まってきた。犬を連れてる方が多かったのを覚えている。ペット連れ避難への無理解が問題になっているけど、ほんとそういうとこやぞJAPAN。
眺めの良さが自慢の観光地というわけで、やることもないしカーラジオを聞きながら海を眺めた。目を引く鮮やかな赤い丸太みたいなのがたくさん散らばっていて、なんか見たことあると思ったら松島と塩釜の観光桟橋の残骸だった。「海がこんなになっちまったんだから二度と観光客なんて来ねぇべ」って身を以て表現してるみたいで悲壮感があった。
そういえば母方の祖母、松島のばあちゃんは無事なのだろうか。母の話によると、地震の直後に電話したらなんとか繋がったものの「潮が引いた!潮が引いた!」と連呼していてロクに会話にならなかったらしい。チリ地震津波を経験した世代なので潮が引く様子で色々思い出して興奮しちゃったのだろうか。なんとかかんとか近所の人達と近くの山に登る旨を聞き出して通話を終えたそうだ。携帯の電池も電波もなくて連絡が取れない今は無事を祈るしかできない。
ツイッターのフォロワー達も大丈夫だろうか。岩手や福島や茨城も相当ひどいみたいだけど、ラジオだけでは被害の全貌がまったくわからない。何がどうなってこれからどうなるのかまったくわからない。
近くで小型犬が飼い主を引きずって走り回っていた。いぬ、健やかであれ……。
3月12日・自宅避難生活最初の夜
陽が暮れる頃には帰宅。でも遠くの方では依然コンビナートが煌々と燃え上っていた。心なしか変な臭いもする。ムズムズするので鼻をかんだらティッシュ(貴重品)がすこし黒くなった。やべ~!!!!!煤じゃんこれ!!!!
おかげでしばらく外出時にマスク必須となりました。今と同じだね☆
この日の夜は自然解凍されてしまった冷凍食品をフライパンで焼いて食べた。だいたいお弁当サイズだからやたら品数が豊富でバイキングみたいになっていた。
育ち盛りの男子2名含む家族6人。これから先の問題は第一が食料である。第二はトイレ。第三は寒さ対策。悲しいかな、こんな状況でも人間は食ってうんこして体をあたためなきゃいけないのである。人体にスリープモードを実装して欲しい。
夜になると、どこを見渡しても真っ暗な景色の中でコンビナート火災の一点のみが明るくて不気味だった。納屋から引っ張り出した年代物の石油ストーブで燃料を節約しながら暖を取っているのに、あそこでは油がクソほど燃えている。非常に恨めしい。
この生活中、父がやたらと持っていた懐中電灯たちが大活躍した。頭に装着するものからランタン型のものまで揃っていて、特に「何かあったらこれが武器になる」と言われて出されたマグライトはゴツくて超光って便利だった。なんでこのおっさんはこんな物を持っているのだろうかと疑問を抱いたけども。
電気がないしそもそも水が貴重品となったのでもちろん風呂には入れず。
困ったことに終わりかけの月経中だった私はウェットティッシュ(貴重品)で股ぐらをゴシゴシ拭いてやり過ごす。マジで子宮はクソ。至急取り外したい。
しばらくは家族全員で居間に集まって眠ることになった。
敷き布団が足りないのでめいめい好きな位置に陣取って毛布や長座布団で寝床を作り横になる。適当な家だから6人全員で綺麗に並んで眠るという発想がなかった。
福島原発がヤバいというニュースは夜になってから知った気がする。
原発の近くにあるJビレッジに家族で行ったことがあるので建屋と呼ばれるあの大きな建物を遠目に見た思い出がある。あれが爆発したらしい。炉心融解したらしい。ボカロ曲以外で炉心融解って用語を使うことあるんだ~って思った。アレグロ・アジテート。
なんかとにかく放射能がアレでソレでマズいっぽい話がラジオから流れてくるけど、昨晩は机に突っ伏して寝たから体が痛い。めちゃくちゃ疲れた。寝よう。
21時に就寝するなんて久しぶりだった。
SDカードごと失くした当時の写真がクラウドに残っていたので発掘してきました。
10年でだいぶ綺麗になったけど、こうなる前の元の風景はもうほとんど覚えていない。
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