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10年前のゆるい被災の記憶 自宅避難生活

 GW前に発生した地震はなかなかに強くて久しぶりに怖くて泣いちゃった。(Twitterオタク構文)
そんなわけでもろもろ思い出したことなどがありましたので続きを書くことにしました。ってかこれいつまで続けようかな。気が済むまでかな。

3月13日 早朝に電波が復活

 朝方に目覚めてダメ元で携帯を開くと、なんと電波が復活している!!
大慌てで家族全員無事であることをツイートし、リプ欄を確認して大号泣。
フォロワーにめちゃくちゃに心配されていた。なんならフォロワーのフォロワーのフォロワーくらいの方からも心配されていた。インターネットあったかい。
 しかし、電波はあれども電気は依然ないので充電の無駄遣いはできず、取り急ぎ松島周辺の状況を教えてほしいという旨を投稿してTwitterは封印。インターネットが生んだ悲しきモンスターこと私は、人生で最も長いネット断ちをするハメになってしまった。
 我が家周辺は電柱が倒れていないので電気は意外と早く復旧するのではという工業高校出身の父の言葉を信じるしかない。

自宅避難生活の思い出

 電気も水道もない生活は本当に大変だった。日の出とともに起床し、太陽が出てる間に家中のペットボトルをかき集めて給水に並び、徒歩や自転車で行ける範囲のお店にひたすら並び、ガソリンスタンドに並ぶことは完全に諦め、日が落ちたらラジオを聞きながら眠る。明治の農村かな??
 そして当初の給水量は1世帯10L制限だった。あくまで世帯単位なので、1人暮らしも3人家族も6人二世帯もみんな平等に10L。致し方ないけどさすがにこれはしんどかった。6人二世帯の我が家は水のやりくりで四苦八苦し、最終的に『買い置きしていた大量のアクエリアスより水の方が貴重』という結論に達してアクエリアスで歯を磨く異次元のステージに到達した。アクエリで歯磨きするとな、歯磨き粉が変に口に残ってマズイぞ。

 支援物資はわりと早い段階から届いていました。うちの地域に最初にきたのは東南アジア系の物資でエスニックな粉末スープやチーズクラッカーだったかな。私は美味しく食べられたけど祖母や母は食べるの嫌がってたな。文句言うな、食わなきゃ死ぬんだぞ。
 食べ物に関しては被災したスーパーが食品を無料配布したり、内陸部の親戚が食べ物を持ってきてくれたり、もうほぼ他人だろうって知人から物資が届いたりして、みんな大変なのに助け合ってたのは確か。
 あんま良くない別れ方をした元カレが急にやって来て色々置いて行ってくれた時はびっくりした。「生きててくれてよかった!!」って泣かれて抱き締められたが、私は情が薄いのでやや引いた。黙って食べ物だけ渡してくれ。(最低)

 まあでも、一概に「日本人は素晴らしい!」「日本最高!」とは言いたくないんだよね。
 水が引いた後に本家のあたりを片付けてたら空の金庫が出てきたよ。本家のおばあちゃんがこつこつタンス預金してた金庫なんだけど、ものの見事に空っぽ。波が器用にカネだけ持ってくわけもなく、無理やりこじ開けた形跡があったから完全に災害に乗じた窃盗ですね。
 持ち主のいなくなった車両からガソリンを盗もうとして火災を起こす連中もまあまあいた。ガソリンが欲しい気持ちはわからなくもないが、消防の仕事を増やすな。
 私は直接見てないけど、避難所では避難民同士が派手に揉めたり性犯罪があったりしたという話も聞いた。伝聞だからアレだけども、極限状態で人間が密集してればそりゃそういうこともあるだろうね。
 人間、やはり嫌いだな。。。(すぐそういうこと言う)

3月14日 母方の祖母を無事見つける

 3月11日からの10日間くらいは色んな方向から親戚友人知人の死が報告される怒涛の日々で完全に感覚が麻痺してたように思う。
「○○さん、△△の安置所で見つかったんだって!」
「■■さんって車しか見つからなかったんでしょ。じゃあ死んじゃったんだ」
みたいなノリがノーマルになっていた。慣れって怖い。

 しかし、実の祖母ともなると話は別である。
3月13日に電波が戻ったものの、松島に住んでいる母方の祖母はまったくの音信不通で安否不明。最後に連絡ができたのは津波到達前の時刻。
 ここにきてついに我が家でも【安置所】の3文字が深刻さを帯びて使われることになる。
現地の親戚もそれどころではないので捜索を頼むわけにもいかず、生きているにせよ死んでいるにせよどっちみちそろそろ探してあげなければ。かくして両親はなけなしのガソリンで一か八かで松島に向かった。

 まあ、タイトル通り、生きて無事に発見されました。
心当たりの範囲の避難所を回っても見つからず、完全に諦めムードで遺体安置所に向かおうとしていたら『瑞巌寺(観光名所のでかい寺)でも何人かの避難者を保護している』という噂を聞き、念のために確認に向かったらちゃっかりそこで元気にしていたそうです。
 しかも、瑞巌寺の避難環境は公設の避難所よりかなり良かったらしく、父がしきりに「やっぱこの国ダメじゃん」ってボヤいてました。
 そんなわけでお坊さんに頭を下げつつ快適避難環境から祖母を引き取ることに成功。
 完全に死を覚悟していたので再会した時はさすがに大泣きしてしまった。私、情が薄いはずなのに……。

 この母方の祖母は昨年亡くなってしまったのですが、幼少期は人に焼夷弾が命中する瞬間を目撃し、チリ地震津波を経験し、大人になったら当時としては異例の30歳まで結婚から逃げ続け、ほぼ無理やり結婚させられたら旦那があっけなく死んで2児を抱えるシングルマザーになり、そのあとロクでもない男に引っかかって大変な目に遭って、と、なんかすげぇ人生を歩んでいる。
 最近、疲れてる時のすっぴんがこのおばあちゃんに似てきたんだよね……あと私もロクでもない男に引っかかりがちだし……。
 この話は終わろう。

 そんなこんなで3月14日から7人二世帯で水10L生活がスタートしました。
父方の祖母と母方の祖母の会話が噛みあってなくてコントみたいだぞ!?!?これからどうなっちゃうんでしょう!?

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