見出し画像

10年前のゆるい被災の記憶 3月11日

 ↓前回↓

 これ書いてて、前々日・前日の地震は前フリだったんだなぁという気付きを得た。

2011年3月11日・本震直後

 運命の当日。
派遣の登録面接会に向かうため仙台駅前のペデストリアンデッキを歩いていた時、14時46分が訪れた。
以下、引用内はタイムスタンプ付きで当時のツイート。

すごい地震!! posted at 14:48:11 
死んじゃうと思った posted at 14:49:40 
歩道橋とビルが崩れるかと posted at 14:50:47
仙台なうだけど生きてます。道路が止まった。ビルからタイル剥がれ落ちてきた。 posted at 14:52:48 
揺れ始まった時にデッキの上にいたからこのまま死ぬのを覚悟した。 posted at 14:54:17 

 揺れの最初の数秒は急にひどい眩暈を起こしたんだと思った。揺れが強すぎて脳が地震として認識できなかった感じ。
 足元をよく見ると自分が立っているデッキがこんにゃくみたいにグワングワンとたわんでおり、咄嗟に階段を駆け下りて地面にへたりこんだ。立っているのは不可能。
 ペデストリアンデッキから降りたとこがちょうどアーケード商店街の前だったので中にいた買い物客が全力疾走で外に走ってくるのが見えて、
(ああ、屋根が落ちてきたら終わりだもんなぁ)と冷静に考えていたのを覚えている。アーケードが頑丈で良かった……平日だけどけっこう人がいたのであれ崩れたら本当にヤバかった……。

 で、ジワジワと(これ地震か…?)と気付き始めたけど、いつまで経ってもビルが小刻みに揺れて土埃が舞っていたせいで揺れが止まったかどうかも全然わからない。おまけに近くにいたヒジャブ姿の中東系女性が号泣してる。それ見て20年ずっと宮城に住んでいた人間もさすがに恐怖で泣きそうになった。
 あたりを見回すと、買い物袋を提げたおばさんや美容室でシャンプー中だったとおぼしき頭が泡まみれのお姉さんやタクシーから降りたドライバーのおじさんまで、ありとあらゆる人々が通常の生活をストップさせて、唖然とした顔で天を仰いでいた。問題の原因が地面であっても人は空を見るという知見を得た。
 異常な光景だった。この場にいるほとんどの人間は地震なんか慣れっこで生きてきたはずなのに。一昨日も昨日も「おお、揺れた~w」程度で済ませたはずなのに。

 何分か経過し多少落ち着いた私は、何故か真っ先に派遣会社へ電話を入れるも当たり前だが繋がらず。緊急事態なんだからどう考えても他に優先して連絡すべき相手がいるだろうに……。
皆さんこれが正常性バイアスですよ。

あとマジで面接どうしよwwww posted at 15:04:56
母ちゃんから「面接いいから帰ってこいっ」って電話きたwwwwwwww posted at 15:08:15 

 正常性バイアスこわい!あるわけないだろ派遣の登録会なんて!ww
何度か発信してようやく電話が繋がった母に電話で軽めにキレられた気がする。
そりゃあキレる。娘、ポンコツでしたわ。

 仙台駅前は都市機能が完全に停止。
かろうじて信号は動くものの他は停電で何もかもダメ。
周辺のビルが倒壊するかわからないからか、あるいは生物としての本能なのか、駅前で唯一開けた場所である仙台駅駐車場に自然と人々が集結していた。
そして私はここで友人と合流に成功。完全な偶然だったのでマジでラッキーだった。一人だと耐えられなかったと思う。

信号は動くけど電気復旧しない posted at 15:13:34 
松島のおばあちゃんガチの海辺に住んでるから心配 posted at 15:21:39 
余震に酔ってきた posted at 15:24:10
【仙台の状況まとめ】・ビルは倒壊なし・大きな火災なし・電気止まってるが信号は動いてる・ペデストリアンデッキの一部にヒビ・仙台駅前の駐車場に避難者多数・電車止まってる・仙台駅内侵入禁止? posted at 15:35:00
仙台駅封鎖されてる。陸の孤島状態。 posted at 15:36:05
意外とみんな冷静で目立った混乱もない。報道ヘリ飛んでる。 posted at 15:37:43
雪降ってきたけど建物内に入れないから寒くてヤバい。赤ちゃん連れのお母さんが可哀想。 posted at 15:42:46

 人波の遠くから「電車は動きません!駅内は安全が確認できないため立ち入り禁止です!ここから一番近い避難所は東六番丁小学校です!みなさん移動しましょう!!」と、お巡りさんなのか駅員さんなのかわからないおじさんが叫んでた。
 しかしこの場にいる全員が小学校の体育館に収まるとは到底思えない。
それで友人と「うちらは若いからまだ歩ける。近場はお年寄りや子連れに譲ろう」と話し合い、仙台駅から少し離れた宮城県庁に向かう決断をする。

 途中、通りがかったアエル(駅前の商業ビル)の1階でカイロが配布されていて有難く頂戴した。
かじかむ手でカイロを揉みつつ歩き出したら、恐ろしいことに何もかもが停止した仙台に大粒の雪まで降ってきた。泣きっ面に蜂。停止都市に降雪。
 「わ~!最悪じゃん!」「雪空気嫁wwwwww」などと友人と言い合いつつも内心抱いた絶望感は今でもハッキリ覚えている。雪が降る中、俯いた人々が黙々と歩く行列が終末映画の大規模撮影みたいで、アンゴルモアの大王がやってくるの本当は今日だったけどノストラダムスが日付間違えのかもって考えた。
 そんで確か歩いている最中に父から着信があり、これから友人と県庁に向かうこと、県庁に着いたら移動しないことをなんとか伝達。
父は「いつになるかわからないけど絶対に迎えに行くから待ってろ」と言ってくれた。
第1の奇跡。この電話がなかったら多分3日間は仙台に留まるハメになっていた。

みんなありがとう…お父さん迎えにきてくれるらしいけど時間かかるから…。posted at 15:54:45

 そしてこのあたりで電波が死んでツイートが出来なくなり……。
死ぬまで身内にイジられ続けるであろう人生最大の問題発言を最後に、私はTLから消えた。

落ち着いて地盤ちんこ posted at 15:55:26

 当時リアルタイムで励ましてくれていたフォロワーには「これが最後の言葉なんてあんまりだよ」という大いなる心配かけて本当に申し訳ない……w
下ネタには精神的鎮静作用があると思っていた。


2011年3月11日・宮城県庁へ避難

 暗くなる前には宮城県庁に到着。
既に自衛隊車両が集結していて、自衛官の方々が忙しなく動いていらっしゃった。ほんと頼もしい愛してる。
そして当然ながら避難者の方々も大勢。職員さんに誘導されるまま移動し、折り畳みテーブルとパイプ椅子が並ぶ大会議室みたいなところに腰を落ち着けることに成功。
 で、県庁内のコンビニがなんとか営業していたので2人で飲み物とクッキーか何かとカップスープを確保。その間も自衛官と避難者は続々と集まってくる。
この段階では情報が何も入手できず、また、居場所が確保できた安心感で、「ゴジラが来たみたいだね~」と、のほほんと非日常を楽しむ余裕すらあった。
っていうか隣の席のおじさん達は持ち込んだ焼酎を飲みながら「これからどうなるんだべな~ww」というテンションで晩酌をしてて笑った。これ嘘みたいなホントの話。

2011年3月11日・初めて報道を見る

 パイプ椅子に座って友人と話したり黙ったりを繰り返すこと数時間。職員さんがどこからかテレビを持ってきてくれた。我々は運良く見やすい位置にいたので、これでようやくいつ帰れるかわかるかねぇと暢気に構えていたら

画面に映し出されたのは火の海だった。

 映像には『気仙沼市』『LIVE』の文字。
どういうことなのか全然わからない。何がどうなってこんなに燃えてるのかまったくわからない。というか、LIVEってなに。現在進行形で燃えてるの?いやなんで?
おまけに仙台空港や名取の馬鹿デカいイオンに行くときよく通る道路が黒い波に覆いつくされてわけわからないことになってるし。津波ってそういうのだっけ?何かの冗談では??
さらに青い枠に意味不明の文字が次から次へと流れてくるけど、全部ウソみたいな話ばかりで文字は読めるのに内容が全然頭に入ってこない。

『仙台市若林区荒浜 200人から300人の遺体』
『死亡200人以上 不明数百人』
『国内観測史上最大の津波』

続いて、役場・消防などと連絡がつかない市町村名の一覧が出た。その中に地元の名前があった。

 人間ってこういう時に一瞬で色んなことを考える。
うちは海からまあまあ離れてるし高台にあるから大丈夫、とは断言できなくなった。そもそも、家族みんなどこにいるんだろう。
長弟は数日前から部活の合宿で内陸部にいる。あの辺ならさすがに津波はこない。
末弟は今日が卒業式でずっと地元にいるはず。もしも卒業式の後に友達の家に遊びに行ってたら?
卒業式だから母も会社を休んでる。私と電話が繋がった後、高齢の親戚を心配して様子を見に出かけたかもしれない。それに祖母もついていったかもしれない。
そして『絶対に迎えに行く』と言ってくれた父があの段階でどこにいるか聞くのを忘れた。父の仕事は外回り系だ。海沿いの幹線道路もよく使う。

もしかして、今この段階で、私の家族は長弟しか生きていないのではないか。

 困ったことにそっからの記憶が全然ない。脳って大きなショックを受けると防衛のために都合の悪いこと忘却するらしいからね……。一緒にいた友人に話を聞けたら良いんだけど、なんか今更この手の話題のために連絡するのも悪いしねぇ……。
 かろうじて覚えてるのは、いつのまにか講義中みたいに机に突っ伏して寝てて、目の前にプラ容器に入った白いご飯が置いてあったこと。それで、
(あ……昨日の夢じゃなかったんだ……)と絶望して二度寝したこと。

 私の2011年3月11日はいつの間にか終わっていた。


【参考リンク】




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?