10年前のゆるい被災の記憶 前フリ
高校生が東日本大震災の語り部活動をしているニュースを見た。
現在高校生なのだから10年前のあの日は5~8歳だったことになる。幼い時期の過酷な経験をその日会ったばかりの他者に話すなんて並大抵の精神では務まらない。相当な決意で活動されているんだろう。本当に頭が下がる。
忘れる前に書いておこうかと
私は生まれも育ちも宮城県沿岸部で、子供が全速力で自転車を漕げば10分程度で海にたどり着ける場所に住んでいる。砂浜を遊び場として育った人間であり、海はそこにあって当然のものとして生活の一部。
でも、あの日以降は初対面の人に所在地を言うと大抵「え、大丈夫だったの?」と訊かれるようになってしまった。
そういう時は、
「うちは奇跡的に家族みんな無事だったし高台に住んでるから家も車も無事でした!」
などとルーティン化した100点の答えを返すようにしている。別にそういう問いが悪いとは言わないけど、なんだか淋しいし切ない。
2011年3月11日から間もなく10年。月日の流れにいまさら驚く。
あの日をなんとか越えた高齢の親戚は何人か鬼籍に入り、歳の近い親戚のお兄さんはこれからという時に突然自殺してしまい、結婚・出産・離婚の華麗なワルツをキメた友人もいるし、当時中学生だった末弟だって立派な2児の父である。命がこの世からINとOUTを繰り返す様子はどうぶつの森みたいだな~って思う。
だからそろそろ私の体験談をまとめておきたい所存であります。
うちの家族だっていつこの世からOUTするかわからないし、当時の私のツイ垢のログだっていつまで残っているかわからないし。
そうすると家族全員無事で『何もなかった』家庭なりに色々な出来事があったことがわかった。
これから書くのはタイトル通り、比較的ゆるい被災生活の話です。
家族で記憶のすり合わせが出来る部分は確認するけども、なにぶん10年も経つから話の整合性が取れないこともあるのでその辺はご容赦ください。
節目だから東日本大震災のことは知りたいけど、この世の状況的にあまりにも辛い話や悲愴な話はしんどくて聞きたくない方向けかと思います。
でもまあ人が死んだ話はサラッと出てくるとは思う。それは許してくれ。
登場人物は、父・母・祖母・私・長弟・末弟くらいでシンプルに家庭の話です。もしもこのnoteが家族にバレたら開き直って協力させます。
自己紹介
申し遅れました。シン=リナというオタクです。
普段はTwitterで推しに狂ったり、はてなブログで美容ブログのような文章を書いています。特技は口紅の食レポです。
何故この話をはてなブログで書かないかと言うと、単純にアドセンスのアレです。日記みたいな記事をたくさん書くとGoogleに叱られてしまう。こわやこわや。
あとエッセイならnoteの方が強いかと。どうせ書くならたくさんの人に届いたら嬉しいという欲目が出ました。
↓本拠地のはてブロです。ふざけた名前で恐縮ですが良ければ覗いてみてください↓
以下、ツイログから掘ってきた311直前の様子です。
3月9日の津波警報がほぼ空振りだったせいで3月11日に避難しなかった人が多かった的な言説がありますが、個人的にあんまり関係ないと思う。
だって宮城県民、完全に地震慣れしててもともと危機感に乏しかったし……。(主語がデカい)
2011年3月9日
午前11時半頃に大きめの地震があり起床。
防災放送が鳴り響き、津波中継のためかヘリコプターが飛び回っていた。けっこうな揺れだったので私の所在地を大まかに知っているフォロワー数人からご心配のリプをいただく。
が、宮城県民特有の「またか~」という気持ちで特に何もしない。
この時ちょうど高校受験の最中だった末弟の心配をする。後から聞いたら地震の影響で試験時間が5分延長されたそう。
2011年3月10日
10日~11日にかけて夜中に地震。
「昨日の地震の余震かな」で処理した。
そして2時半に『夜なのにカラスが鳴いてる』と呟いていた。
今見るとなんか予兆っぽくて怖いね……。
そして、2011年3月11日当日がやってくる。
せっかくなんで次回はちょうど1ヵ月前の明日に投稿します。
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