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性と暴力

※ここでは従軍慰安婦の是非には触れません。

従軍慰安婦といえば朝鮮半島の人たち。
しかし、それは戦時中や戦後の日本人女性の性被害を消す一定の成果があったのではないかと思えて仕方ない。

私が初めて韓国へ渡航したのはソウルオリンピック前の80年代で、裸足のストリートチルドレンが物乞いしていた時代。高齢者から罵倒を浴びせられることも珍しくなく、あなたの祖父は犯罪者だと言われてからは道ですれ違うときや食堂で高齢者とは目を合わせないように気をつけていた。

日本人女性と性の問題は、影のようにつきまとう。はるか昔から外国では日本人奴隷やからゆきさん、国内では人身売買の遊郭や戦後、進駐軍の性のはけ口にされたRAA協会(特殊慰安施設)、赤線青線、性風俗産業、援助交際やパパ活という名の売春、最近は海外遠征する日本人女性が問題になっている。

言うまでもなく性は暴力と表裏一体だが、日本人女性の霊性を傷つけることと無縁ではないような気がする。つまり、本来の性の役割は子孫繁栄以前に、陰陽がまじわるときのみにそこから何かが生まれるという自然の摂理や循環を心身一体(おそらく魂と言われるものも含めて)で感じる行為ではないか。それは神の領域のことだから、本来は排泄だけを目的とした行為ではなかったはずなのだ。

従軍慰安婦という言葉を耳にするたびに、私は大陸から日本へ引き揚げてきた人たちの苦難の道のりを思う。『水子の譜』という本に出会って以来、国策で満州へ送られた満蒙開拓民や13.14歳の男子で構成された満蒙開拓少年義勇軍のことを考えずにはいられなくなった。戦後80年を目の前にしても、今なお戦争のつめ跡は村を分断し、人々の心に重石を置き続けている現実がある。

本来の性とは、微かな巡り合いの力や陰陽の重なり、その営みのことで、私たちが考える性とはまったく異なる可能性がある。心身の深い喜びに満ちあふれる性は排泄だけを目的とした暴力的なそれとは似て非なるもの。

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