踏み出す一歩の、尊さ
私には母方に、一人の叔母がいる。
彼女は私の実家の近くで一人、生活をしている。
5年ほど前から、急に歩行が困難になった。
舞踏病という病気を患ったのである。
簡潔に説明すると、
自分の意志で身体の一部、または全身の筋肉において、
コントロールが効かなくなる疾患だ。
部屋には歩行を補助する、手すりや持ち手が
所狭しと設置してある。
これらをつたって歩くことを、余儀なくされているのだ。
幸いにして、70代後半にして大きな内臓系の疾患はない。
今日も自宅に訪れたが、元気に夕食を取ろうとしていた。
普段はケアサービスの方が、リハビリに連れていってくれたり、
母が身の回りの買い物などをしている。
この「歩行がしづらい」症状が出た時、
どういった病かの原因が、なかなか見つからなかった。
的確な診断、病名が判明するのに
お医者さんを転々としながら、約一年を要した。
最後に紹介してもらった大きな大学病院で、
その病の原因がわかったのだ。
それまでの叔母は非常に冷静で、静かな物腰の性格であった。
伯父が他界して20年、一人で家を守り
地元スーパーのパートタイマーとして、働いていた。
私は一度だけ、その職場での彼女を見た。
鮮魚コーナーの一角で、淡々と魚の調理をしていた。
長靴を履き、作業着姿で男性社員に囲まれながら、
静かに包丁を捌いていた。
その姿は私の目に、若くして亡くなった叔父のことが重なり、
気丈で美しく見えた。
病が進行していた当初、私には見せなかったが、
彼女は一番近い存在の私の母に、相当感情的に接していたという。
無理もない。
今まで元気で過ごしてきたのに、ある日を境に
脚が、思う通りに動かないのである。
今、私がその立場だったら。
そう考えると、「やるせない」 とてもそれだけの言葉では言い表せない、
そんな気持ちが湧いてくる。
私は月二回、彼女の家を訪れる。
「足がな、動きづらいんや。」
近況を聞くと、いつもそう答えてくれる。
以前と変わらず、落ち着いた表情を見せるし、食欲もある。
しかし、やはり思い通り身体を動かすことができない
もどかしさ、悔しさが空気感で伝わってくる。
私が精神的な支えとして出来ることは、
ただ顔を見て励ましたり、気を紛らわせるおしゃべりをすること、
それだけなのである。それしか、出来ないのである。
それだけで元気になったり、
気持ちが和らいだりしているかは、わからない。
帰る時、いつも申し訳ないなと思うが、
玄関先まで、歩きづらい脚で「ありがとうな」と、見送ってくれる。
その姿を見るだけで、私が元気をもらうのである。
明日も、朝早くから彼女はリハビリの施設に行く。
平日で、現場をまだ見たことがないが、
きっと一歩一歩、一生懸命に踏み出しているに違いない。
私は外出時、そして職場や色んな場所で
ふとした時に、そんな彼女の姿が脳裏にあらわれる。
その尊い一歩は、
私に生きることの勇気、大切さをいつも教えてくれるのである。
今日も書けるという喜びに、感謝。