考察ドラマが流行っている今、ひそかに期待している事。
考察ドラマがトレンドになっているらしい。
私はあまりドラマを見ないのだが、そんな人間でも「あな番」とか「最愛」とか「真犯人フラグ」とか、ドラマのタイトルを覚えてしまった。
ネットには、そうしたドラマの「考察」があふれている。
それがとても面白いのだ。
誰が犯人か、動機は何なのか、何が伏線なのか。
考察者たちは「自説」を裏付ける「証拠」を徹底的に精査する。
登場人物の表情、視線、ちょっとした仕草。
場所、着ている服、飲んでいるもの。
彼らの目は実に鋭い。ほんの些細な違和感、矛盾も見逃さない。
なぜなら、彼らが捜しているのは巧妙に隠されたメタファーだからだ。
そいつが物語の真ん中で、ジョロウグモのように糸を張り巡らせているのである。
この見えない糸を手繰り寄せ、思いもよらなかった繋がりが明らかにされたとき、ドラマを見たことがない私にも、まるで一冊の推理小説を読んだかのような興奮が沸き上がってくるのである。
なので、ついつい考察を読みあさってしまう。
しかも探偵が無数にいるのだから、面白くないわけがないではないか。
私はこの場面をこう見ました、と誰かが言えば、私は反対にこのように考えました、と反応がある。
犯人が別の人間だって全然かまわない。むしろ「おお、確かにこの人物のほうが犯人らしいじゃないか!」と、新たな見方を示してくれるので面白さ倍増である。
考察ってなんてお得なんだろう。ひとつのドラマが、観ている人の数だけ変化、増殖していくのだから。
ドラマだけではない。
『ワンピース』や『進撃の巨人』、『鬼滅の刃』といった有名マンガの考察本も出ている。これはもう、「考察」自体が流行っているといってもいいのかもしれない。いや、そうであってほしい!
だって、だって、もっと「考察」が流行れば、絶対に原点回帰するはずじゃないか。ふふふふふ。
「考察」の原点。それは、文学ではなかろうか。
思い起こしてみてほしい。教科書で読んだ『藪の中』(芥川龍之介)を。
藪の中で起こった殺人事件。その容疑者、目撃者、被害者(霊)の証言をもとに、何が真実なのか、誰が嘘をついているのかを延々考える「エンドレス文学」だ。(この作品で初めてディベートを学んだ人も多いのではないだろうか)
タイトル通り、答えは「藪の中」なのだが、だからこそ面白いのだ。
この作品が発表されたのは1922年。それからちょうど100年たった今でも、「真相やいかに?」と、文学者たちが論文を発表し続けている。
つまり、100年も考察が続いているのである!!!
『こころ』(夏目漱石)だって、先生と主人公は「BL」の関係ではないかとする論文もあるし、『金閣寺』(三島由紀夫)も、ラストシーンは絶望か、希望かで意見が分かれている。『人間失格』(太宰治)をギャグ小説だとする説には驚いたが、読んでいるとなるほど、爆笑ポイント満載であった。
物語の裏側に隠されたメッセージを、テクストから考察し、読み解く。
言葉のニュアンスを読み取るゲームのようなもの。
それが文学なのである。
「20万部売れたら奇跡」と言われ、「文学なんか誰が読むんだ」と罵られ、本屋では邪魔者あつかい、図書館では書庫の暗闇の中で眠り続ける・・・。
そんな不遇の時代はもうお終いだ!!!
だって、世の中「考察」が流行っているのだから!!!
ああ、早く文学の番にならないのだろうか。
ドラマの考察みたいに、さりげなく
「ねえ、『藪の中』の犯人ってさ、誰だと思う?」
とか、言えるようになるのはいつの日なんだろう。
そんな日はこないって??
いやいやいや。来る、きっと来る!!!
考察ドラマの盛り上がりを「考察」すると、そう遠い日ではないはずだ。
文学ヲタクの私は、本棚の影からその日が来るのを待ちわびている。